07/JOKER

 翌朝、澪はアラーム代わりにけたたましく鳴った着信音で目を覚ます。まだぼやけた視界を擦りながら、もう一方の手でサイドテーブルに置いてある腕時計型端末コミュレットを探す。

 着信は予備の特殊調合薬カクテルなどをピックアップするために一度隠れ家セーフハウスへと戻っていた絢からだった。


「……うぁ、もしもし」

『よ、澪……って寝てたのか? 一体今何時だと思ってんだよ』


 絢に溜息混じりでそう言われ、澪は時間を確認する。――朝の五時半。寝ていて当然とまでは言わないが、多くの人がまだ夢の中のような気もする。絢の生活リズムが謎だ。


『それにすっげえ寝癖だ。どんな寝方したらそうなるんだよ』


 絢が朝から元気にげらげらと笑っている。瀕死の傷ももうだいぶ癒えているのだろう。解薬士の生命力にはつくづく驚かされるばかりだ。

 澪も強引に身体を起こし、サイドテーブルの引き出しから覚醒促進剤モーニングピルの瓶を取り出す。一回分の適量を掌に転がし、水を使わずにそれを嚥下する。絢とは今日も一〇時に落ち合う予定だったので、それを待たずに連絡してきたということは何か至急伝えなければならないことがあるのだろう。


「それで、どうしたんですか。こんな時間に……」

『ああ、そうだった。大変なんだ』


 絢は本題を思い出し、笑うのをぴたりと止める。まるでチャンネルを切り替えたように、絢の声音が真剣みを帯びる。


『昨日言ってた油木っていただろ。あいつ、つい一昨日、自殺未遂を起こしてやがった』

「それは、本当ですか?」


 まだ朧げだった意識は覚醒促進剤モーニングピルが効くより速く、絢の言葉のおかげで一瞬にして覚醒する。まるで寒空の下で滝に打たれたような衝撃だった。


『タカツカサと同じで、大量の薬物服用とリストカットだ。傷が浅かったのと、ガールフレンドがたまたま家にやってきたおかげで一命を取り留めたらしい』

「彼は今どこに?」


 盤面ディスプレイに浮かぶ立体映像ホログラムのなかで、絢が獰猛に口角を吊り上げる。


『そうくると思って、調べといた。八洲やしま医療センター。匿名での入院だけど、ばっちり部屋番号まで分かってるぜ』

「また非合法な手を使いましたね?」

『固いこと言うなよ。おかげで大スクープ、だろ?』

「ええ。大スクープです。確証はありませんが、もしかすると自殺の全貌が一気に明らかになるかもしれません」

『すぐに出て来られるか? あたしが入手できた情報ってこたぁ、敵さんも掴んでる可能性が高いだろ?』

「もちろんです。一時間後に八洲医療センターで落ち合いましょう」


 澪は言って通信を切る。ベッドから飛び出すように跳ね起き、速やかにパジャマを脱いでいく。不意に寝室の姿鏡に映る自分の姿に目が留まる。

 なるほど。これは大笑いしたくもなる。

 いつも几帳面に揃えられているボブカットは、重力に抗うように逆立っている。とくに顕著なのは前髪で、どうしてそうなってしまったのか、昆虫の触覚さながらに左右に分かれて跳ね上がっていた。


「そんな変な寝方してたかな……」


 澪はまだ温もりの残るベッドと姿鏡を交互に見やる。最後に握ったままの腕時計型端末コミュレットで時間を確認し、シャワーを浴びることに決めた。


        †


 何とか時間通りに八洲医療センターへ到着すると、入り口にならぶ人工樹の影で煙草を吸っている絢の姿があった。

 澪が声を掛けようとすると、有害物質を検知したらしい病院の警備ドローンが絢に近づき、黄色いランプを灯して警告音を鳴らす。


「ああ? うっせえよ。うっせえ」


 絢は警備ドローンに向けてガンを飛ばし、その土手っ腹に蹴りを入れる。衝撃を感知した警備ドローンのランプがオレンジ色へと変わり、澪はすかさず一人と一機の間に割り込んだ。


「もう何やってるんですか。目立つ行動は厳禁って言ったじゃないですか!」


 絢を叱責しながら警備ドローンに警察手帳を翳し、その権限で警告を解除する。記録は残ってしまうが職員や警備員がわらわら出てくるのを待つよりはましだろうという判断だった。


「澪が遅えからだぞ? やることなくって暇だったんだ」

「だからって病院の目と鼻の先で煙草なんて、正気を疑いますよ?」

「ったく固えなぁ。あたしの国なんか、大人も子供もみんな嗜むもんだぜ?」

「郷に入っては郷に従え、です。日本……特に《東都》では、屋外の喫煙はご法度なんです。廃区ならまだしも……勘弁してください」

「……分かったよ」


 絢は紫煙の漏れる口を尖らせ、煙草を排水溝へと放る。火がついたままの煙草は下水の闇に呑まれて見えなくなった。


「ポイ捨ても厳禁です」

「固えこと言うんじゃねえってば」


 絢はうんざりだと言わんばかり両手を広げて、逃げるように歩き出す。澪は呆れて肩を竦め、すぐに絢の後を追う。


「それで、油木はどこに?」

「八階の特別病室だと。要は金を積んでもてなされるような、VIPルームだな」

「どうやって油木に接触するつもりなんです?」

「まあ見てろって」


 得意気に口角を上げる絢に、澪は不安しか感じない。

 そしてその不安は見事に的中。絢は監視カメラと人の目の死角を突き、医師と看護師を一人ずつ失神させる。彼らを別々にトイレの個室へと閉じ込め、白衣やIDを奪い取った。


「ほらよ」

「ほらよじゃありませんて……」

「これが一番早くて確実なんだよ。手段を選んでる時間はねえだろ?」


 澪は深く息を吐く。溜息ではなく覚悟を決めるために。

 絢の言う通り、時間はそれほど多くはない。敵が警察を意のままに動かすような力を持っているとすれば、そろそろ澪たちの動きにも勘づくころだろう。手負いの絢と生身の澪の二人で、正面から戦って勝てる見込みは限りなく薄い。

 澪たちが勝つためには、常に先手を打ち続け敵が追いついてくるより先に真実へと辿り着くほかにないのだ。

 だから事が明るみになったときの処罰を恐れ、手段を選んでいる余裕はない。小さな罪には眼を瞑り、先へ進まなければならない。

 澪は失神している医師に深く頭を下げ、拝借した白衣を羽織った。絢は既にいつもの黒のつなぎから純白のナース服へと着替えていたが、サイズが合わないらしく胸元はふしだらなほどにはだけている。


「コスプレですね」

「似合うだろ? 一回着てみたかったんだよな、ナース服って。エロいよな」

「彼らの失神が公私混同によるものなら、問答無用で捕まえますからね?」

「冗談だよ、冗談」


 澪たちは軽口を交わしながら八階へ。奪ったIDカードを読取機リーダーに翳し、VIPフロアに難なく侵入する。途中、ナースステーションの前を通過し、他の医師とすれ違う。さすがに生きた心地がしなかったが、コスプレ同然の絢がやけに堂々としているせいか気づかれずに済んだ。

 フロアの部屋の表示に患者名の記載はなかったが、問題はなかった。周囲に人がいなくなる一瞬を狙って、八〇七号室へと滑り込んだ。


「――あ? だから検査は受けないって言っ…………なんだ、あんたら?」


 病室に入るや、ラップトップに向かって何かの作業をしていた油木が手を止める。澪たちが医師でも看護師でもないことを直感的に察したのか、眉を顰めてキーボードに置いた手をナースコールの呼出ベルへと伸ばす。澪が対処するよりも早く、絢が反応していた。


「ぐあっ」


 絢は一瞬で油木との間合いを詰め、伸ばされた腕を下から蹴り上げる。そのままベッドの上に飛び乗り、油木の両腕を膝で抑えつける。


「な、なんなんだっ……どういうつもりだ? 僕にこんなことして許されると」

「騒ぐなよ? 殺すぞ」


 絢のゾッとするような恫喝の声。油木の首筋には回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターの鋭利な尖端が突き付けられる。


「ひっ、や、やめてくれぇ」

「聞こえなかったか? 騒いだら殺す。――あ、いや、死にたかったから自殺したのか。なら望み通り、ぶっ殺してやろうか?」

「ふ、ふざけんな。誰が死にたがりだっ!」


 油木は拘束から逃れようと四肢をじたばたさせていたが、一見すれば華奢な絢の身体は鋼鉄の重しのごとく圧し掛かっていてビクともしない。油木はどんな抵抗も状況を悪くするだけだと理解したのか、間もなく大人しくなった。


「油木さん、お元気そうで何よりです」


 澪はベッド脇の椅子に腰を下ろす。


「安心してください。わたしたちは敵ではありません。もちろん今の段階では味方でもありませんが、あなたの態度によってはあなたを全力で守ることもできる」

「は? 何言ってんだよ」

「そうですか。お気づきではないんですね」

「も、勿体ぶるんじゃねえっ」


 油木の表情は怯懦に満ちている。テレビや配信動画で見る余裕や斜に構えた雰囲気は見事に消え失せ、弱々しい虚勢が油木の心を辛うじて正気に保たせているようだった。


「おかしいとは思いませんか? あなたは死にたくもないのに自殺未遂を図ったんです。ちなみに自傷癖はおありですか?」

「んなもんあるわけねえだろっ」

「そうですか。それなら尚更おかしいですね。まあいいです。視点を変えましょう。どうしてあなたはあの日、大量の精神安定剤を服用したのでしょう? SNSで叩かれて気が参っていたんでしょうか? それもと普段からあの量の服用を?」

「けっ! んなの俺が聞きてえっつうの。あの日のことはよく覚えちゃいねえんだよ。気が付いたら病院で、点滴に繋がれてたって有様だ。ここの病院の奴ら、俺を一般病棟なんかに入れやがったから札束で引っ叩いて特別病室こっちに移させてやったぜ……おいやめろ、針が食い込んでるっ!」

「……なあ、澪。こいつ殺してもいいよな?」


 自らの怯えを誤魔化すように捲し立てた油木に、絢が回転式拳銃型注射器ピュリフィケイターの尖端を押し込む。針が浅く突き刺さった首筋から一筋の血が流れて白いベッドシーツを汚す。


「気持ちは分かりますが、駄目です。彼の存在が真実につながる重要な証拠です」

「ちっ。仕方ねえ」

「証拠? どういうことだ。俺が重要な存在なんだろ? なら俺を置いて勝手に話を進めんな。一体何が起きてんだ?」


 この状況にあっても上から目線の物言いを続ける油木に、澪は怒りを通り越して呆れていた。だがどれほど鼻につこうと、油木が現状手にしている最強のカードであることは間違いない。


「鷹司恋司。時任屋ときとうやまこと。豚まんドリル。三日月みかづきまり。これらの名前に心当たりはありませんか?」

「小説家に、音楽プロデューサー。イラストレーターにシンガーソングライター……。しかもどいつも最近自殺した奴らだな。そいつらがどうかした……って、おいまさか?」

「ええ。彼らは皆、自殺に見せかけて殺された可能性がある。そしてあなたは、まさしく今、その渦中にいると思われます」

「おいおい、なんだその世迷言はよ。捜査してますってか? 警察でもあるまいしよ。むしろあんたらがその殺人犯だってほうが、俺にはしっくり――――」


 澪が油木に向けて警察手帳を提示すると、油木は言葉を呑みこんだ。


「端的に言いましょう。油木アラヤ、あなたはこのままだと殺されますよ」

「一度ミスってんだ。今度は絶対にヘマしねえように、入念にぶっ殺すだろうな」


 澪が現状を突き付け、絢が凶悪な笑みを浮かべて油木の恐怖心を煽る。油木の表情はみるみるうちに色を失っていく。


「捜査に協力していただけるなら、あなたの身柄はわたしたちが責任をもって保護すると約束します」


 澪は油木に向け、主導権はこちらにあるのだということを言外に告げる笑みを浮かべる。油木はベッドに抑えつけられた無様な格好のまま、その提案に頷くしかなかった。

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