最後の交点

 401号室の玄関だけ、エレベータを出て左に曲がったところにあって、なんだか近寄りがたい静けさを感じる。もちろん僕は右に曲がった。402号室の前を通ろうとした時、中年男性がゴミ袋を持って出てきた。彼は無言で軽い会釈をすると、僕に道を譲ってくれた。どの家の玄関も整然としているが、彼女の部屋の玄関は住んでいる気配を感じさせないほど何にも無い。壊れた呼鈴はまだ直してないだろうから、扉を直接ノックした。

 スタスタと足音がして、やがて扉が開き、髪を団子にまとめた彼女が姿を現した。


「家に上がるのは久々だな」

「……最近寒くなってきたでしょ。珈琲でも飲む?」

 柔らかい口調で彼女が言った。妙な優しさを感じながらも、ありがたく頂戴することにした。


 彼女が珈琲を淹れる台所からは、ミディアムローストの酸味と苦味の入り混じった香りが漂ってきた。僕は、ダイニングテーブルの上に置いたケーキの紙袋を見ながら、

「市役所近くにできた新しいケーキ屋さん知ってる?」

 と聞いてみた。

「知らない」

 いつもの彼女らしく、短い答えが返ってきた。

「そこのブッシュ・ド・ノエル買ってきたんだが、今食べる? それとも冷蔵庫に入れておくか?」

「……」

 答えがなかったから台所を見ると、彼女は口を閉ざしたまま、珈琲を淹れている。怒っている様子では無いが、それ以外には想像はつかない。さっきから若干鼻声のようだから、もしかしたら体調が悪いのかもしれない。最近急に冷えたから、かく言う自分も風邪気味だった。


「ありがとう」

 珈琲を運んできた彼女は、しばらく続いた静けさを破壊するかの様に、僕の目を見て笑ってみせた。だが、彼女はすぐに目線を下げて黙り込んでしまった。「話がある」って呼んでおいて黙り込まれると困ったもんだ。

「話って、悩み事でもあるのか? どうしたんだ? なんでも聞くぞ」

 と彼女に話し出すよう促した。


 彼女はそれでも黙ったままだから、こっちが折れるのを待っているのだろうと悟った——謝ればいいんだろ、謝れば。

「悪かった、謝る。この通りだ。」

 楽しみにしていた紅葉が散って、彼女の心まで冷えてしまったのだろうか。あるいは彼女のことだから、これも演技なのかもしれない。


 暫くして彼女の悲しげな目が僕に向けられた。

「誠は悪く無いの……」

 何を言い出すかと思ったら僕は悪く無いだって? 彼女はその後も喋り続けていたが、もごもご聞き取りづらい上に、内容も抽象的すぎて理解できなかった。時々吃りながらも、一通り喋り終えると、彼女は長袖で目を擦った。


 僕がどう反応すれば良いのかわからずあたふたしている間に、彼女は再び喋り出した。

「もう私の我儘に付き合わせるのは申し訳なくて——私なんかよりもっと良い人がいるわよ。誠君は真面目で優しくて、細かいところまで気遣ってくれる。それでいて『放っておいて』って言えばいつでも一人の時間もくれる——」

 初めて彼女の涙を見た。隠そうとしているらしいが、こんな至近距離では気が付かない方がおかしい。途切れ途切れで意味をなさない短文の寄せ集めは、不思議な説得力と共に僕の心に響き渡っていた。


 彼女の言葉が途切れた。僕は珈琲を一口飲むと、

「紅葉見にいけなくてごめん」

 と口走ってしまった。我ながらなぜこのタイミングでこんなことを言ったのか分からない。あのときは頭がうまく回っていなかった。

「そんなつまらないこと気にしてない」

 彼女は否定した。忘れていたかどうかは定かではないが、そのことを気にしている様子は全くなかった。その証拠に彼女は続けて、

「二人っきりで、それっぽいことしてみたかっただけ。なんでもよかったのよ。なんでも」

 と言った。

「優しいけど、毎回同じことの繰り返しで——『一緒にいたい』って思えなくなってたの」

「ごめんなさい」

 もとより俯き気味だった彼女の顔は、テーブルに衝突するんじゃないかと思うくらい、深々と下げられていた。髪の毛の先の一部はすでに、マグカップの内に侵入していた。


 僕は彼女の理想に対して平凡すぎたのだろうか?

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