9.右足の理由
貴島美咲の急変は、結果的には今回も命にかかわるものではなかった。ただいままでよりも悪化が酷く、意識の混濁も見られたということで母親に連絡が行ったようだ。私は加奈子と一緒に病院へ戻り、葉原の報告を受けた。いま彼女は、娘の病室にいる。京都と滋賀を往復した結果、窓の外は既に真っ暗になっていた。
私は病室の廊下にあるソファで体を休めながら、今回の事件を自分なりに整理していた。
貴島美咲の急変を、どのようにとらえればいいのだろうか。今回の事件、普通なら重要な手掛かりになるアリバイが一切有効じゃない。容体の急変を引き起こす何かを投与しても、効果がすぐに出るとは限らない。だから急変のピンポイントで何をしていたかなんて関係なくなってしまう。それに急死した患者が全員殺害されたわけでもないから、死者の出た日に病院にいたかどうかという最低限の情報だって、全然役には立たないだろう。
しかし、貴島美咲の件を切り離せば話は違う。貴島美咲に何かをしている犯人は、病院の急死事件とは別にいると考えれば、彼女に限れば「日にち」というアリバイは容疑者を絞るのに使えるはず。投与から急変に間があるといっても、二十四時間経たなければ効果のない毒なんてあるとは思えない。だから、今回の急変のその日に病院ではなく大津にいた貴島加奈子は犯人ではない。念のために聞いてみたが、加奈子は今日病院には行っていなかった。嘘ではないだろう。嘘をつく理由もないし、ついてもすぐばれる。
母親は犯人じゃない? じゃあ誰が美咲を傷つける? 彼女に限って傷つける必要性がある人物がほかにいるのか? それとも紫木の見立てが間違っていて、やはり彼女の急変も一連の事件に連なるのか。
「あの? すいません」
声をかけられて、私は顔をあげた。目の前に中城が立っていた。心配そうな顔で私を見つめていて、その表情で私は自分がソファに座って居眠りしているような姿勢になっていたことに気づいた。
院内で彼女と顔を合わせると思っていなかった私は、心と頭の準備ができていなくてとっさに言葉が出なかった。
「えっと……」
「お疲れですか? 付き添いの親御さんですよね? もしよかったお子さんの隣に簡易ベッドを出せますが」
「あぁ、いや……」
その言葉を聞いて、私は彼女にそういう設定で話しかけたことを思い出した。そうだった。私は病気の子供を持つ母親なんだった。今更だけど、もっとましな設定あっただろうに。
私は彼女の好意を制した。
「大丈夫です。もう帰るので」
「そうですか。お気をつけて。何かあれば、私はナースセンターにいるので声をかけてください」
「どうも……」
曖昧な返事を返すと、彼女はきびきびとした動作で去っていった。第一容疑者のはずだけど、ただのいい人にも見える。いったいどうしたらいいのだろう、私は。
とりあえず立ち上がり、紫木の病室を覗くことに決めた。病院へ戻ってからまだ会っていなかったし、明日も仕事が忙しくて会えないということがあるかもしれない。さすがに何日も連続で職場を早抜けするのは平さんに悪い。今日できることは今日しておこう。
私が紫木の病室に戻ると、彼のベッドの周りのカーテンだけが閉まっていた。ほかの患者はテレビを見たりしているのに、紫木のベッドだけが死んだように静まり返っている。彼のスペースは明かりも消されていた。私は「先生?」と声をかけたけど、反応がなかった。
寝てるのだろうか。ふと、心の中に意味もなく悪戯心が芽生えた。紫木とはもう半年近く一緒に仕事をしたり食事をしたりしているけど、寝顔はたぶん見たことがなかった。あの気難しがりやがどうやって寝ているのか気になってしまった。寝顔でも利口そうな表情なのだろうか。それも面白そうだけど、寝顔くらい間抜けな顔をしていてほしい気もする。
私はゆっくりとカーテンへ手をかけて、外の光が入らないようにほんの少し開いた。
真っ暗闇の中で、はっきりと見開かれた紫木の黒目と目が合った。
「うわぁっ!」
お化けのような目に射抜かれて私は思わず声を上げてしまった。ほかの患者が迷惑そうな顔をこちらに向けてくる。彼らにジェスチャーで謝りつつ、私はもう一度カーテンを開く。
紫木は寝ていなかった。ベッドの上で体操座りになってうずくまっている。じっと硬直していて、ただ時間が流れるのを待っているようだった。さっきは化け物のように見えた視線も、改めて見ると覇気がない。
「どうしたんですか……神園さん」
「それはこっちのセリフだよ先生。何やってんの?」
「それは……」
紫木は絞り出すように何かを言いかけるけど、すぐに黙りこくってしまった。私はそばの椅子に座って、彼に寄り添う。
「何かあったの? やっぱり病院で会ってからの紫木先生はいつもと違う」
「……何と言ったらいいのか」
彼は体操座りのままごろりと転がって横になった。私は、紫木の声がいまにも泣きそうになっていることに気づいた。ただ、その理由がさっぱりわからなくて、言葉に詰まってしまう。
居心地の悪い無言が続いた。私は耐えかねて、意を決して口を開く。
「紫木先生。何かあったなら言ってよ。……私はほら、お友達みたいに臨床心理士とかじゃないから、適当な反応ができるかわからないけどさ。話聞くくらいならできるから」
「神園さん……でも」
「いいじゃない。私、いままで三回も先生に頼ったでしょ。だったら先生も三回くらい、私に頼ってよ。ちょうどおあいこになるから」
私は軽い調子になるように努めて言った。正確には、彼からは事件とは別にもいろいろと知識を教えてもらったから、全然三回じゃないんだけど……それは代償として夕食をおごっていたから、ちゃらってことで。
紫木はたっぷりと時間を使って悩んだ後、ぽつりと呟いた。
「僕の右足、義足ですよね」
「うん」
「なんで義足になったか、話したことってありましたっけ?」
私は首を横に振った。彼は言わなかったし、私も聞かなかった。彼の失われた右足は、雑談のネタとしてはあまりにもデリケートに思われたから。彼は義足であることを気にしていないようだったけど、それはそれとして。
紫木は私に背を向けたまま続ける。
「十一歳までは、僕にも両足がありました。でも、事故にあって失くしたんです。酷い事故でした。僕はたっぷり一週間生死の境を彷徨って、何とか生き延びました。だけど」
彼は潤んだ声をそこで一旦切った。咳払いをする。
「だけど、失ったのは右足だけではありません」
「ほかにもどこか?」
「いえ、もちろん内臓もいくつか吹き飛びましたけど、そういう意味ではなく……僕が右足と一緒に亡くしたのは、家族です」
重い沈黙が流れる。
「事故というのはこうです。ある山道を走っている車がありました。運転手は一家の父親、後部座席に母と一人息子。助手席にはまだ小学一年生の妹が」
もう聞きたくないと思った。だけど耳はふさがない。
「車はカーブでハンドル操作を誤り、谷底へ落ちました。完全な単身事故です。後から聞いた話ですけど、僕以外は即死だったようです。もしかしたら嘘かもしれませんが。まだ小さかった僕に対するせめてもの心遣いだったか……いまとなってはわかりません」
「でも、先生は助かった」
「はい。事故が起きたとき、僕は後部座席で眠っていました。夜遅かったんです。そして目を覚ますと病院のベッドの上。体はひどく痛むし、右足はないし、医者から家族が死んだと聞かされるし」
「…………」
「だから、思ってしまうんです。この病院でも、手術で麻酔をかけられて、眠りから覚めたら大事なものがそっくり消えてしまっているんじゃないかって。そんなのあり得ないって理屈ではわかってるんですけど……えぇ、わかってます。でも怖いって感情は、理屈ではないですから」
紫木の言葉が早口になっていく。
それですべて合点がいった。彼が手術を拒絶したのも、いつもと様子が違ったのも、全部病院が怖かったから、病院で眠り目を覚ますことが怖かったからだったのだ。じゃあこの数日は、彼にとっては地獄のようなものだっただろう。
「そう、怖いんですよ。僕は病院がっ。子供みたいですけど、でも病院に行きたくない一心で健康に気をつけて、それで病院を遠ざけていたから、かえってこの恐怖を克服する機会を失ったんですね。そのつけがいままわってきた……」
「紫木……」
「大丈夫かなぁって、頭をよぎるんですよ。いままで積み上げてきた全部が。霧みたいに消えてしまうんじゃなかって。助教って肩書も、書き上げた論文も、慕ってくれている学生も全部。消えてしまう。結城さんみたいに」
「優」
私は紫木を抱きしめていた。成人男性にいきなりするようなことじゃないけど、目の前の彼はただの子供に見えて、そうすることに抵抗はなかった。小刻みに震える彼をしっかりと受け止めていると、震えが徐々に収まっていく。そうやってしばらく、私たちはカーテンの中でじっと固まっていた。
「……すいません。あの……」
「……あぁ」
先に口を開いたのは紫木だった。私の手を叩いて、落ち着いたことを知らせてくれる。私は彼から離れた。紫木もベッドから起き上がって私に向き直る。
「ありがとうございます。あの、えっと……」
「うん、その……大丈夫?」
「えぇ」
間抜けな会話だった。さっきとは別の気まずさが二人の間を流れていた。すっかり大人に戻った紫木は恥ずかしそうに顔を逸らしている。私も彼を直視できなかった。
いつもと違うのは私も同じか。
「あの」
「あのさ」
第一声が被ってしまった。こちょこちょと譲り合って、結局私から話すことになった。
「紫木先生の手術は、いつからいつまでの予定なの?」
「夜にするそうです。終わるのは二十一時とか。そこしか時間が空いていないようで」
「そう。大変ね、医者ってのは……でも、私にとっては都合がいい」
「都合がいい?」
「うん」
私は、頭の中で思いついていたことを言おうと心に決めた。ただ恥ずかしさはさっきの比ではなく、頭皮がかっと熱くなるように体温が一気に上がってしまう。
それでも、言おう。
「紫木先生は、手術が終わって目を覚ましたときに何かが消えちゃうのが怖いんでしょ?」
「えぇ、まぁ……そうですね」
「だったらさ、私がいようか」
また時が止まった。さっきから時の流れが正常じゃない。
「私がいたら、少しは安心する? それとも私じゃ不足かな」
「神園さん……いえ、不足なんて。むしろ……」
「むしろ?」
「……なんでも。でも、嬉しいです。純粋に」
紫木先生の表情が、やっと柔らかくなった。
「お願いしても、いいですか。ご迷惑でなければ」
「オーケー。でも一つ条件がある」
「条件?」
「下の名前で呼んで。正直、私自分の苗字好きじゃないのよ。家族と仲悪いし。だから」
「……はい。か、薫さん」
紫木は小さな声で、確かめるように言った。呼び方が変わるだけで少し、彼の声色も優しくなったような気がする。
「あの、か、薫さん」
「なに? 紫木先生」
「僕のことも、その……」
「その?」
「いや、何でもないです明日はお願いします。痛っ」
紫木は口早に言うと、布団に体を包んで眠ってしまった。ともかく、元気が出たなら何より。
「あっ」
紫木が呟いた。
「いいこと思いついた」
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