5.真夏の看護師
森を大学へ送り届け(ハーレーで乗り付けたせいでやけに目立ってしまった)、私は紫木の入院する烏河病院へ戻ってきた。病室へ入ると、紫木は自分の膝の上に書類をめいっぱい広げて一枚一枚読み込んでいるところだった。なるほど、こういう使い方をしたからデスクがあんなに散らかってるわけだ。
彼は私が病室に入ってきたことに気づくと、顔をあげる。
「あぁ神園さん。ありがとうございます」
「資料はこれでいい? 『子どもを病人に仕立てる親たち』ってのは見つからなかったんだけど」
「そうですか。じゃあもしかすると研究室かもしれませんね。なんにせよ助かります」
紫木はさっそく、私から受け取った本をパラパラとめくっていく。力なくベッドへもたれかかっているものの目は爛々と輝いていて、体調不良という雰囲気は薄かった。
周りを警戒するような様子もない。
彼は馴染みのおもちゃを持ってきてもらった子供のようなはしゃいだ手つきで本を扱っていた。
とにかく、元気そうなら何よりだと私は心の中で唱えて、傍にあった椅子へ腰を下ろす。
紫木の膝へ散らばった資料が目に入った。文字を追うと、どうやらここ半年の間に急死した患者の情報がまとめられているものらしい。おそらく病院内で対策を協議するときに使われた資料の流用なのだろう、ページの頭には年末の日付と会議のタイトルが丁寧に記されていた。赤い字で部外秘ともしっかり書かれているが、私は見なかったことにした。
「で、そっちの収穫はどうなの?」
「予想通りの点がひとつ、予想していなかったことがひとつというところでしょうか」
私が水を向けると、彼は早口にまくしたてた。本を閉じて、散らかった資料をごそごそと探りだす。ベッドからはらりと紙片が落ちる前に私がキャッチした。
「急死が増加した昨年の七月から、突然この病院へ勤めだした看護師がいます。名前は中城沙織。これは永川が教えてくれたことで資料に載ってはいませんが」
「それが予想通り?」
「はい。もし看護師が代理性ミュンヒハウゼン症候群である場合、その人は前の職場でも同様の問題を起こしている可能性があります。烏河病院での死者増加は急激でした。ミュンヒハウゼンの病状がそこまで突然悪化するとは考え難いので、この場合、すでに代理性ミュンヒハウゼンになっている看護師がやってきたために問題が発生したと考えるほうが妥当でしょう」
「つまり、その中城っていう看護師が真犯人で、彼女がこの病院に来たから死者も増えた?」
「七月という中途半端な時期も気になりますし、死者の増加とタイミングが被っているのも偶然とは思えません。第一容疑者として考えても差し支えないでしょう」
「そう。じゃあ予想してなかったってのは?」
「そこが問題なんですが……おっと」
紫木は自分で、声量が大きくなっていたことに気づいて口で手を覆った。騒がしくなっていたことを咎めるような目つきで隣の入院患者に見咎められ、私と紫木は取り繕うように軽く頭を下げた。
紫木は腕を伸ばしてカーテンを引っ張り、隣からの視界を遮った。途中、わき腹が痛むのか顔を歪めたので、私がカーテンを手に取って手伝った。
「で、予想していなかったことは?」
「この資料を見ていて違和感があったのですが」
小声で私が尋ねると、紫木も小声になって返した。なんとなくその様子が、悪巧みする小学生のやり取りのようでおかしくなって吹き出してしまった。紫木も笑いを堪えるように口元へ力を入れている。
「亡くなった患者の容態の変化が資料にはわりあい詳しく書かれてるんですけど、おかしいんですよ。急死という表現はあくまで便宜的なものだと思っていましたが、どうも実際の様子に合致した言葉だったみたいですね。亡くなった患者の大多数はみな、重篤な状態でありながらも安定していて、そこから本当に唐突に亡くなっています。これでは甲斐甲斐しく世話をするという、本来の目的は達成できません。まるで端から殺そうとしたみたいです」
「唐突に、かぁ」
私は顔を近づけて、紫木の手にする資料へ目を凝らした。そこにはそれぞれの患者の病状がどのように変化して死に至ったかが記録されているが、あくまで医者ではない私の感想とはいえ、確かに唐突に亡くなったという印象を受ける。みんな、家族がナースコールで看護師を呼び出したということもなく、一旦脈や呼吸が止まるという事態も起こっていない中で、突然死んでいた。
もし生死の境を彷徨っているのであれば、もっと波があってもいいのではないかと思う。あからさまに危篤状態であれば亡くなっても納得はいく。しかしこの人たちはそうなっていない。
「一応、目に見えて危険な状態を経て亡くなった人もいるみたいね」
「それはここの医師たちも、急増した死者とは無関係だと思っているみたいですね。死の原因ははっきり説明されていて、人為的な要因が入る可能性は排除されています」
紫木が私の頭越しに資料を覗きながら言った。声と一緒に吐き出された息が髪へかかる。私は頭を引っ込めた。
「でも私たちは医者じゃないから、これが正しいかどうかまではわからないわね」
「ええ。ほかにも気になっている点はいくつかあるのですが、それはまださておきましょう。取り急ぎ、やるべきことがありますから」
紫木はそう言って、資料を膝の上に置いた。眉間の皺がさっきよりも深くなっている。呼吸も堪えるようにゆっくりとしている。彼の痛みにも波があるようで、ちょうどいまはその波が悪い方向へ傾いているところらしい。
「大丈夫? 先生」
「まぁ……それよりも今後ですが」
「とりあえず第一容疑者の中城沙織に話を聞くわ。でも何聞けばいいの?」
「七月という微妙な時期にこの病院へやってきた理由、とかでしょうね。あと前の職場がどこか……でもどちらかというと、当人よりは周りの評判のほうを知りたいですね。代理性ミュンヒハウゼン症候群の看護師は、献身的な自分を演出するためにしばしば周りからの信頼は厚いですから」
「オーケー。それじゃ行ってくるから、先生はちゃんと寝てなさい」
「はーい」
子供っぽい返事に見送られた私は、病院内を徘徊して看護師の中城沙織を探した。冷静に考えてみると、彼女が普段どこへいるのかわからなかったし、そもそも大っぴらに人へ聞いて回っていい状況だったのかもはっきりしない。病院側が認めていない殺人の可能性を探っていますとは、公言できまい。
大きな総合病院とはいえ、立地は京都の片田舎。そんな烏河病院を革ジャンを着た大女が徘徊する様は患者や見舞客たちにとっても物珍しいらしく、私は方々からの視線を一身に浴びながら病院内を移動した。小児病棟を横切ったときなんて、五つくらいの男の子に指をさされて「お化けだー」と言われて泣かれた。私の髪が腰まで伸びるストレートで、井戸から出てくる亡霊みたいだからかもしれないけど、解せない。
薄暗く、清潔感はあるもののオンボロ感も拭いきれない病棟を歩いてナースステーションへたどり着いた。見知った顔がナースと雑談をしていた。取り囲まれた看護師たちと頭ひとつ分も小さい背丈の女性。あれは。
「晶?」
「あぁ薫じゃん。やっぱここだった」
私の親友で京都府警の鑑識官である赤井川晶がそこにはいた。鑑識課の作業着ではなく、ベージュのドラムスカートとだぼっとさせたグレーのセーターでコーディネートしている。頭の上で波打つ癖のある髪をひとつ結びにしていて、それが飾りとなって華やかさを添えていた。病院という場に空気を合わせて落ち着いた雰囲気を出しつつも遊び心を忘れない大人のファッション。
一方の私は黒の革ジャンにジーパン、まるでバイクでずっこけて搬送された暴走族のお見舞いである。長髪はバイクで走り回ったせいでざんばらざんに乱れてしまっているし、子供に泣かれるのも無理はない。
「なんでここに?」
「ほら、紫木先生倒れちゃったんでしょ。平さんから聞いたけど」
晶は手に抱えていた花束を軽く持ち上げた。紫色の花で統一されているのは相手が「紫木」だからだろうか。花束はバスケットに入っているタイプで、花瓶がなくても飾れるようになっていた。紫木の病室に花瓶なんてあるわけがないという予想はもちろん大当たりだ。
「平さん?」
「そう、あなた今日大慌てで出て行ったんでしょ? 烏河病院へ行くって言って。だから私の知り合いに、この病院で働いてる看護師がいたから聞いてみたら大騒ぎで運ばれた義足の患者さんがいるって話題になってね。あぁ絶対紫木先生だなって」
「あぁ……」
紫木先生、どんな騒ぎ方で運ばれたんだろう。
私が彼の救急搬送へ思いをはせていると、下から晶に覗きこまれた。にやにやと随分楽しそうに笑っている。
「薫はまだお見舞い? 平さんの前から走り去ってからずいぶん時間が経つけど、長いお見舞いねぇ。面会時間もうそろそろ終わりじゃない?」
私は腕時計を確認した。もう夕方になろうとする時刻で、確かに面会時間が終わるギリギリになってしまっている。そういえばすっかり忘れていたけど、面会時間が過ぎた後はどうやって彼と連絡を取ればいいのだろうか。そう密にやり取りしなければならないわけではないとはいえ、全く手段がないのもあまり落ち着かない気がした。
私は晶の不躾な視線をぴしゃりと跳ね返して言う。
「変な想像してるところ悪いけど、そういうのじゃなくて、また事件っぽいの。ちょっと」
ナースステーションの真ん前で会話するのもまずい内容だったので、私は晶を引っ張ってその場から少し離れた。
「どうもこの病院で働いてる、紫木先生の同窓生が言うにはね、この病院で連続殺人事件が起きてるかもしれないのよ。まだはっきりとした証拠はないけど、流れ的に調査を手伝う感じになっちゃって」
「え? 紫木先生の同窓生がいるの? この病院」
連続殺人というフレーズよりも紫木の同窓生という登場人物のほうが気になってしまうらしい。警官なんで殺人には慣れているのだ。
「まさかの新キャラ登場ね。どんな人なんだろ」
「そんなカジュアルに表現しないでよ。彼女は臨床心理士なんだけど、どんな人っていっても、別に……紫木先生の知り合いだからって変人とかじゃない。普通そうな人だよ」
自分で言っていても酷い言い方だとは思うが、実際そういうしかなかった。永川にせよ森にせよ、別に個性が強いというタイプの人物ではない。紫木がなにせあの調子なのでついつい学者イコール変人というような等式が浮かんでしまうが、少なくとも彼女たちはそのイメージに当てはまらない。
まぁ紫木先生だってちょっと個性的なだけで、変人というほどでもないはずだけど。
「そうかー紫木先生の同窓生かぁ。そりゃそうだよねぇ、あの人にも学生だったときがあるもんねぇ。というかむしろつい最近まで学生だったもんね」
紫木が去年の時点で二十九歳だったというのは知っている。初めて彼に会う前、取り調べのために準備されていた資料にそう書かれていた。誕生日はわからないから既に三十になっているのかは不明だが、二三年前は大学院生だった計算になるはずである。
そりゃ、子供っぽくもなるか。私なんて大学を卒業してもう十五年以上経つ。
「薫は大学を出てもう二十年近く経つもんね。薫、もう四十だっけ」
「まだ三十八だよっ」
晶はしれっと表現を年齢が大きくなるような方向へ修正してきた。修正が間違いじゃない範疇に留まっているところに性格が出ている。悪かったなアラフォーで。お前もすぐに通る道だぞ三十四歳赤井川晶。
「あ、神園さん」
私と晶が隅っこで話をしていると、後ろから声をかけられた。噂をすればなんとやらで、永川がそこに立っている。私が晶へ「この人だ」と目配せすると、彼女も察して「ほう」と小声で言う。
「そのお花はお見舞いですか?」
永川が晶の持っていた花束に気づいて尋ねた。晶が頷く。
「紫木先生の病室はどちらですか?」
「あぁ紫木くんの……それなら三〇八号室です。あの階段を登るとすぐなので」
「ありがとうございます。じゃあ薫、また明日職場で」
「うん」
晶はそそくさと階段へ向かって姿を消した。お知合いですか? という永川の言葉に私は頷いた。彼女は小さく「よかったです」と呟く。
「うん?」
「いえ……ほら、紫木くんって人付き合いが希薄ですから。大学院を卒業したらどうなるのかなと思っていたんですけど、お見舞いに来てくれるような人がちゃんといるみたいでよかったです。彼、将来は間違いなく孤独死だってよく冗談で言ってましたけど、あんまりシャレになってなかったので」
「でしょうね」
私の言葉につられて、永川が笑った。
私も平さんに似たようなことを言われてたけど、紫木もだったか。
「あ、そうだ聞きたいことがあったんだけど、看護師の中城沙織っていまどこにいるかわかる? 聞きたいことがあるんだけど、大っぴらに捜し歩くのはまずいかなって」
「そうですね。外科の葉原先生や小児科の内藤先生は私の考えに賛同してくれていますけど、ほかの先生はそうではないのでくれぐれもご内密に。中城さんは普段、小児病棟にいます。勤務中なら大抵そこで会えるはずです」
「そう、じゃあすれ違っちゃったかも」
「それとこれを」
永川は手に持っていた、ネームプレートを私へ差し出してきた。首から下げるタイプのもので、名札には「付き添い」と書かれている。
「一応、お持ちください。本来は子供の患者さんに保護者の方が付き添って病院に泊まるときに使うものですが、葉原先生が紫木先生用に作ってくれました。義足なので介助が必要だという口実で。これがあれば面会時間外でも病棟を出入りできます。あまり派手には動けませんけど」
「ありがとう。助かるわ」
私は永川にお礼を言って、さっそく小児病棟にいるという中城の元へ向かおうとした。しかしその歩みは、永川の「神園さん」という呼びかけに止められてしまう。
「……なに?」
「本当に大丈夫ですか? お仕事とか……刑事さんならお忙しいのでは? いえ、私からご相談をしておいてこんなことを言うのもおかしいとは思うのですが」
「別に、忙しくないわけじゃないけど……病院での調査ができないほどでもないし?」
私は、永川の言いたいことの意図が分からず首を傾げた。私の反応を見て、永川は言葉を続ける。
「神園さんは、どうしてそこまで献身的になってくれるのかなと」
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