献身の規定因/アラフォー刑事と犯罪学者

新橋九段

プロローグ

 その研究室は外気と隔絶していた。三月の半ば、外では大学生が不要になった上着を邪魔臭そうに腕へひっかけて歩く季節であるというのに、室内は真冬かのごとく冷たく暗かった。それはなにも、研究室の窓が分厚いカーテンで覆われ日の光が遮断されているからばかりではない。

 研究室の中央にはテーブルが備えられている。大学教員にとって研究室は単なる仕事場であるはずだが、そのような場所に似つかわしくないほど重厚でどっしりとした木製のテーブルだ。ヘリには細かい彫刻が施され、セットになっている重たい椅子が周りを囲んでいる。

 その椅子のひとつに、深い黒色のスーツを着込んだ男が座っている。ネクタイは薄い紫だが、黒だったら完全に喪服である。その男は猫背で疲れきったような枯れた顔つきをしていたが、体から漏れ出すエネルギー、ピリピリと発散する電気のようなものが若さを隠しきれていなかった。見た目は三十代半ばを過ぎているが、実際にはもう少し年下だろう。彼は手持ちぶさたな様子で顔を左右へ振って、壁を埋めている本棚を眺めていた。どこを向いているのか目線を追いづらい、白目が隠れてわからなくなるほど大きな黒目が、銀縁眼鏡のレンズの奥でわずかに震えている。

 そんな彼と対峙するように、反対側にも男性が座っていた。ロマンスグレーの髪をオールバックにしている。くすんでシミのある肌にシワの増えた顔。暗いスーツの男とは対照的に、見た目は老齢だが立ち居振舞いはもっと若かった。大柄な体をゆったりと動かし、テーブルの上へ分厚いグラスを並べている。隣には大仰な装飾のついたデキャンタが鎮座し、中はテーブルの木材と同じくらい濃い茶色の液体で満たされていた。

「昼間から飲む趣味はありませんが。段林先生」

 眼鏡の男が唐突に言った。言葉の端に含まれるトゲを隠そうともしていない。段林と呼ばれた男は、そのトゲに気づいていないのか言葉を無視して液体を注いだグラスをサーブする。

「それで、話というのはなんですか、紫木先生」

 段林は自分のグラスを持って席につく。こちらの口調に敵対的な色は一切ない。彼はグラスを揺らして液体を遊ばせると口へ運ぶ。

「単刀直入に伺いますが」

 紫木が言った。彼がこの研究室を訪れてまだ三回目の発言だった。つまり、碌に挨拶も世間話もしていないことになる。年上に対して明かに不躾な態度であるが、彼は平然としている。顔もしかめず、仏頂面のまま膝の上で手を組んで目の前の男を見据える。敵対的な口調こそ意図したものらしいが、このような端的にすぎる話運び自体は彼のもともとの性質なのだろうと予想された。

「桜木みこさんについてです。あなたのゼミに所属している大学院生の」

「あぁあの子か。いい子でしょう。可愛いし」

 段林の言葉に紫木の顔が露骨に曇った。まるでわざと、不快な表情をしようと努めているかのような大げさな変化だったが、段林の方は何の反応も示さなかった。

「それで、紫木先生。その桜木さんがどうしたって?」

「単刀直入に言いましょう」

 紫木は繰り返した。自分に言い聞かせるように深く、はっきりと。

「桜木みこさんから、セクシャルハラスメントの被害を受けているという相談がありました。加害者として名指しされているのはあなたです。段林道夫先生」

 段林の酒を煽る手が止まった。彼の顔も歪む。面倒ごとに直面してしまったとでも言いたげだった。彼は上着のポケットを手で探りながら口を開く。

「それで?」

「それで、とは?」

「なんで紫木先生が出てくるわけ?」

「相談を受けましたので。放置するわけにもいかないでしょう」

 段林は大げさにため息をついて、ポケットから煙草を取り出した。ライターで火をつけ、大きく息を吐いてあたりに煙をまき散らすと紫木の顔がさらに歪んだ。

「煙草は嫌いかね」

「大嫌いです。そうそう、桜木さんの被害の申告には煙草についての話もありました。ぜんそくがあるのに、研究室で煙草を吸うのをやめてくれないと」

 紫木の言葉を、段林は鼻で笑った。

「煙草もハラスメントになるのか? 最近は」

「場合によっては該当するでしょう。もちろん、桜木さんの受けた被害というのは、もっと別にありますが」

 今度は紫木が上着を探る番だった。彼は折りたたんだ紙を取り出すと、目の前で広げる。

「とりあえず、彼女から訴えのあった被害のうち、具体的な証拠がはっきりと存在している二十三件をまとめています。内容に誤りがないか、あるいは弁明がないか段林先生のご意見を伺うのが本日の要件です」

 段林はその紙を手に取ることもなく、一瞥しただけで目をそらした。ただ煙草を持つ手が震え始めている。

「こんなもんがセクハラの証拠か? 紫木先生は他大学から来た非常勤講師だから知らんだろうが、私の身の潔白はもう証明されてるんだぞ」

「それも桜木さんから伺っています。学生支援課が調査してセクハラの事実はないと結論づけたと。しかし桜木さんはその調査自体に異議を申し立てていますし、学生支援課の結論に疑いがあるという点では私も同じです」

 段林の震えが徐々に大きくなっていく。

「紫木先生。私はただ桜木を食事に誘っただけだぞ? それがセクハラになるなら口を開いただけでセクハラになる」

「彼女がゼミに配属されてからいまに至る一年半、毎晩のように食事に誘うのは通常とは言えないでしょう。しかも、この資料にあるように桜木さんはあなたから性的関係を持つように半ば強要されていたとも訴えています」

 段林が手に持っていたグラスを叩きつけた。しかし紫木の表情は微動だにしない。

「お前はあの女の言うことを信じるのか? 私ではなくて? 証拠もないのにか!」

「証拠はあります。ここで開示することはしませんが。それに被害者の主張をまずは信じるのは被害者対応の基本ですので」

「わかったぞ! お前、工藤の回し者だろう! 学長選が近いから邪魔をしようと!」

 段林の激高に、紫木は「学長選ですか?」とフクロウのように首をかしげる。その対応がますます段林の火に油を注いでいく。

「いいか小僧! 犯罪学者だがなんだか知らんが学生にいらん入れ知恵をしよって! もうこの件は終わったんだ! なんど蒸し返されてもな! あれはただの自由恋愛だった! 何が気に入らなかったのかわからんが、桜木が後から強要だなんだと話を大きくしただけだ。よくあるだろう。それとも犯罪学ってのはそういうことは勉強しないのか?」

「なるほど。自由恋愛」

 段林に怒鳴られても、紫木は平然としていた。ただ一言、確かめるように復唱する。

「つまり、段林先生は桜木さんに性的関係を持つように交渉はしたが、それは自立した男と女のやりとり……なんの問題もないやり取りだったということですね?」

「そうだ! セクハラでも何でもない!」

「それだけ聞ければ十分です」

 紫木はもう一度上着のポケットを探り、長方形の物体を取り出した。ICレコーダーだった。

「いやぁ、ありがとうございます。性的関係の強要が一番大きな被害だったのですが、桜木さんが証拠になるメールを消去してしまっていまして」

 紫木の口調はさっきとがらりと変わり、肩の力が抜けたような声色になっていた。

「まぁ、指導教員からそんなメールを受け取れば捨ててしまいたくなるのが当然ですが。しかしこれで証拠は改めて掴んだというわけですね。このまま法的措置の準備を進めますが、桜木さんはできるだけ大事にはしたくないそうなので和解はいつでも受け付けるそうですよ。あと……」

 段林先生が立ち上がろうとする先をついて、紫木の腕が手つかずのグラスに伸びた。彼はグラスの中身を、段林と彼が口に咥えていた煙草めがけてぶちまける。

「書斎では火気厳禁です。常識でしょう」

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