第176話 シェルベンスの街
まだ外は暗い朝に目を擦りながら起きた千尋は、宿の部屋に備え付けられた洗面所で顔を洗い、歯を磨いて身支度を整える。
ノーリスで購入した私服の上に耐寒素材の上着と腰布、帽子と手袋をして部屋を出る。
ここは海沿いの街シェルベンスではどの宿でも海に面して建てられており、入江となったこの街の海は波が穏やかな為、海上にテラスが設置されている。
本来であればこの時期使用される事のないテラスだが、宿の従業員にお願いして利用させてもらう事にしてある。
受付で挨拶を交わしてコーヒーをお願いする。
海上テラスに出るとやはり冬の空気は冷たく、白い息を吐きながら薄暗い海を見つめる。
従業員の男性が運んできた木で作られた椅子に座り、コーヒーを受け取って一口啜る。
カップを持つ手と体が温まり、この日は軽めに魔力制御の訓練を始める。
自己の強化を最大限に高める訓練だが、安定した強化は以外にも難しい。
戦闘では体が動く度に強度にバラつきが発生し、どうしても力を込めた部分に強化が集中する。
相手の攻撃を受け、自身の斬撃を放つ事で強化魔力は剣へと集中し、肉体の強化は無意識下での強化まで低下してしまう。
それは防御力のみならず、行動速度にも影響を及ぼす為、最大限扱える強化の高さを上昇させる事で戦闘時の強度低下を抑えるのが狙いだ。
無意識で扱える強化魔力が上昇すれば、速度も威力も増加するだろう。
訓練を初めて数分後にはリゼやアイリ、ミリーとエレクトラが起きてくる。
この日は全員起きるのが早い。
まだ陽が登らない、薄暗い朝だというのに蒼真と朱王も朱雀を連れて起きてきた。
各々コーヒーや紅茶をもらい、用意された椅子に座って朝日が昇るのを待つ。
昨夜の夕食中に「シェルベンスはこの時期の朝日が最高に綺麗だよ」と朱王から聞いて早起きする事にしたのだ。
昨日の朝の雲海を照らす太陽も綺麗だったが、入江となったこの海と大地をどのように太陽が照らすのかが楽しみだ。
コーヒーを啜りながら少しずつ空の色が明るんでいく様子を眺め、少しずつ入江の様子が見えてくる。
右側から弧を描くように陸地が繋がり、岬の先から繋がるかのように点々と低い岩場が海から突き出ている。
濃紺の中に出来た岩場の黒い影が、これから昇る太陽の生み出すその景色を期待させる。
岬の左方向からわずかに顔を覗かせた曙色の太陽が濃紺の海と濃青の空を照らし始め、世界に暖かい色が生まれる。
遥か遠くに見える雲は曙色と濃紺が混ざり合い、淡い紫色となって世界に彩りを与える。
空を見上げれば濃青に澄み渡り、点々星が輝きを放っている。
ゆっくりと昇る太陽は、重く冷たい青の世界を少しずつ軽く暖かい色へと染め上げていく。
時間が経つにつれてその様相を変える色の景色を見つめ、光が生み出す美しさをその目で堪能する。
その時間という贅沢を存分に味わいながらシェルベンスに来て初めての朝を過ごした。
美しい朝日を見つめ、未だその表情を変える世界に宿の朝食はテラスで摂る事にする。
まだ少し時間は早いが、朝食は七時から食べられるという事でテラスに用意してもらった。
寒い季節だがノーリスにいた千尋達にとってはそれ程強烈な寒さには感じない。
風が凪いでいる為それ程冷たく感じないようだ。
朝食にはパンと魚介のスープ。
貝殻に乗った焼かれた貝柱は、切り込みが入れられて緑色のソースが添えられている。
白身魚の香草ソテーと、千尋や蒼真も見慣れた食材がテーブルに置かれる。
「すごい! カニだ!」
真っ赤に茹でられた大きなカニが皿に乗せられ、従業員の男性が目の前で食べられるように切り込みを入れていく。
このカニはジャイアントクラブという魔獣の子供らしく、カニの甲羅だけでも重さが5キロ以上はありそうな程に大きい。
親ガニならすごく食い甲斐がありそうだと千尋と蒼真が話していたところ、大きく育つ程に味は大味に、そしてパサパサとした身になるそうだ。
子供のジャイアントクラブは味が濃厚で、ぎっしりと詰まった身の弾力があってとても美味しいのだとか。
切り分けられ、フォークで刺せば外殻から簡単に取り出せるようになった身を全員口に運ぶ。
その味は以前食べたカニとは一線を画す程に濃厚でジューシー。
口いっぱいに広がるカニの美味しさを堪能し、貝やパン、スープも味わう。
朝から大満足となる食事に顔も綻ぶ。
太陽は海からわずかに離れ、赤黄色だった太陽も白く輝きだす。
海は青く、海沿いの砂地にかけて薄緑色にグラデーションとなっていてまた美しい。
美しい景色を目で堪能しながら五杯ものカニを食べた八人。
朱王は蟹味噌を食べながら酒が飲みたいなどと言っているが、朝から酒は飲ませないミリーだった。
千尋や蒼真も蟹味噌をつつきながらその濃厚な味を楽しむ。
朱雀も好き嫌いなく何でも食べる。
それが美味しい蟹味噌ならば当然だ。
従業員の男性がスープに混ぜるとまた美味しいと教えてくれたので試してみる。
魚介の旨味が一層引き立ち、おかわりをする男性陣だった。
リゼとアイリはどうやら蟹味噌は苦手なようだ。
千尋と蒼真が美味しそうに食べるのを見て味見したが、強烈な魚介の匂いに耐えられなかった。
ミリーは食べられなくもないが、それ程お好みではない様子。
エレクトラはこの濃厚な蟹味噌が気に入ったらしく一人で一杯分の蟹味噌を食べていた。
この日は役所に行ってシェルベンスにもう二泊する事を報告。
やはり千尋と蒼真はクエストボードを見て海沿いならではの魔獣を見ている。
シェルベンスにもゴールドランク冒険者がいるらしく、高難易度クエストはなかったが。
それでも海沿いならではのクエストは多くある。
観光そっちのけでクエストを受けたい千尋と蒼真が持っていた依頼書。
クエスト内容:ウルフィッシュ捕獲
場所:シェルベンス海
報酬:一体につき50,000リラ
条件:釣り
報告手段:魚場に直接運ぶ
難易度:5
「これやりたい!」
「釣りしたい」
釣りも立派な観光として楽しめるだろうと朱王も了承する。
釣りをした事のない女性達も充分に楽しめるのではないだろうか。
受付でクエストを受注すると、釣竿と餌、運搬用の冷凍荷車を渡されてシェルベンスの海へと向かう事となる。
昼食用に弁当を購入していざ出発。
街の近くでは魔魚も寄って来ないので、街から離れた海辺を目指して歩いて向かった。
海の岩場手前に荷車を停め、全員で釣竿と餌を持って岩場に立つ。
釣竿と釣り糸の太さや釣り針の大きさから、かなり巨大な魚ではないかと予想される。
餌であるよくわからない貝柱を釣り針に刺したら準備は完了。
まずは千尋から。
受付で言われたように全力で強化してリールの釣り糸に指をかけて振りかぶり、竿のしなりを利用して思いっ切り振り下ろしながら糸に掛けた指を外す。
超高速で放たれた貝柱はその飛距離をぐんぐん伸ばし、釣り糸の長さの限界に達すると同時に貝柱が引き千切れて飛んでいく。
ただ釣り針のみが海に投下された。
「おや?」
「千尋は全力でやったらダメなんじゃないか?」
蒼真は千尋の失敗を踏まえて軽めにキャストしてリリース。
しかし貝柱が重い事もあってそれ程距離が伸びそうにない。
しかしそこにランの暴風が吹き荒れる。
『いっけーーー!!』という掛け声と共に、餌となる貝柱はその風の勢いを受けて弾丸の如き速度で空を飛ぶ。
空を切り浅く海を割って飛ぶ貝柱は、泳いでいた巨大な魚に打ち付けられて着水。
風の鎧を纏った貝柱は魚を一撃で絶命させる威力を持つ。
ぷかりと浮かび上がる魚が見えるが釣れたわけではない。
リールを巻いて海底を引き摺るように貝柱を引く。
匂いに敏感なウルフィッシュはこの方法で簡単に食いつくそうだ。
難易度5とされているのはウルフィッシュの大きさと力強さ、そして釣り上げられたウルフィッシュの凶暴さがその理由だ。
貝柱による一撃で倒した巨大な魚がウルフィッシュなのかもしれない。
『先制攻撃は成功した』とランは引っ込んだが、釣りに攻撃が必要なのかは不明だ。
あまり気にせずゆっくりとリールを巻きながらウルフィッシュが食いつくのを待つ。
朱王は二人の失敗を見て強化を微調整し、かなりの飛距離を確保しつつ狙い通りの位置に着水。
リールを巻きながら満足そうな表情だ。
エレクトラは蒼真先生の真似をして貝柱を風に乗せて飛ばす。
蒼真のは完全に失敗で、ランが勝手に風で飛ばしただけなのだが、蒼真を信じて弾丸のように貝柱を飛ばしていた。
貝柱は着水と同時に破砕するのだが。
ミリーも負けじと釣竿を振るう。
指を離すタイミングを失敗り、上空へとすっぽ抜けた貝柱。
そのまま上空からバァンッと海へと叩きつけられて弾け飛んだ。
リゼは普段から複雑な動きをするルシファーを操るおかげかなかなかに上手い。
程よく強化してテイクバックからのキャスト、そしてリリース。
綺麗に弧を描いて海に着水し、海底に沈んだところでリールを巻く。
朱王に褒められて嬉しそうな表情を見せるリゼだった。
アイリも全力で強化して釣竿を振るい、綺麗に弧を描いて着水する…… はずが、イザナギとイザナミが貝柱を追いかける。
着水するその直前に貝柱をイザナギがキャッチ。
そのまま咥えて戻って来ると、アイリに褒めてもらおうと尻尾を振って待つ。
貝柱を取れなかったイザナミは海上で雷撃を放ち、複数の魚が浮かび上がっていた。
朱雀は大物を釣り上げようと餌を複数付けて振りかぶる。
しかし地属性強化のできない朱雀は貝柱の重さに負けて、釣竿をしならせて後方へと弾かれた。
炎による強化がなければ朱雀は普通の人間とそれ程変わらないのだ。
餌を減らして挑戦するも飛距離が伸びない。
グヌヌと悔しがる朱雀は炎で強化して挑戦するが、釣竿が燃えて焼けくずれてしまう。
朱王に頼んでイメージの釣竿を錬成し、朱雀の炎による強化が可能な釣竿で再挑戦。
炎の強化で空を飛ぶ貝柱は、焼き貝となって海へと着水。
香ばしくなった餌にウルフィッシュの食いつきもよくなるかもしれない。
一番最初にヒットしたのはリゼ。
海釣りではアタリがきてもあわせる必要はない。
尋常ではない強烈な力で引かれる釣り糸。
暴れ回るウルフィッシュと強化したリゼの体力勝負だ。
およそ十分程も引き回され続けた釣り糸も次第に力が弱まっていく。
耐え続けたリゼも額に汗を滲ませ、リールを巻いて岸へと引き寄せる。
ウルフィッシュの全貌が見え、安堵から油断したところで最後の悪あがき。
釣り上げられまいと暴れ回り水飛沫をあげて抵抗するも、体力の限界が訪れて力無く岩場へと引き上げられた。
疲れたのか座りながらも嬉しそうに喜ぶリゼ。
リールを一度巻ききった朱王がウルフィッシュの顔を覗き込む。
名前から連想するのは狼のような魚。
確かに肉食獣のように大きな牙を持ち、立ち上がった耳のような器官が狼を思わせる。
ただし小さな目と大きな口で見た目は不細工だ。
立ち上がったリゼと一緒に戸板に乗せて荷車まで運んだ。
その後もアイリ、エレクトラとヒットが続き、二人とも力の限りウルフィッシュを釣り上げようと奮闘する。
苦戦しながらもなんとか釣り上げる事ができると、なんとも言えない満足感で満たされる。
喜びながら次のウルフィッシュを釣り上げようと再び竿を振る。
朱王、朱雀と続き、朱雀が釣り上げる頃にはリゼとアイリに二度目のヒット。
腕に疲れが残る二人に千尋と蒼真が協力して釣り上げる。
二人掛かりでも持久戦となる為なかなか釣り上げられない。
強引にリールを巻いてもラインが切れてしまうかもしれないのでひたすら耐えるのだ。
ミリーもアタリがくると大喜び。
ふおぉぉぉお! と叫びながらウルフィッシュの引きに耐えていた。
体力勝負ならミリーに勝るものはない。
しばらく強烈な引きに耐え続け、体力が尽きたウルフィッシュは軽々と釣り上げられた。
蒼真が掛かるとエレクトラにも二度目のアタリ。
やはり腕に疲れがあるエレクトラは耐えれない。
朱雀の手伝いもあってなんとか釣り上げるが、疲れよりも嬉しさと喜びが勝る。
喜ぶエレクトラと、あははと笑いながらウルフィッシュの顔を掴んだ朱雀が噛み付かれて叫んでいた。
千尋には未だアタリがこない。
全員が二匹目を釣り上げ、お昼を過ぎて弁当を食べようかと思った頃についにアタリがくる。
今までにないくらい嬉しそうな表情を見せる千尋にリゼは大興奮。
一気にリールを巻き上げて千尋ウォッチングをするリゼと、ウルフィッシュの引きに耐える千尋。
右へ左へと暴れ回るウルフィッシュに片手で耐える千尋の強化は相当なものだ。
しばらくして大人しくなったところでリールを巻いて引き寄せる。
軽々巻き上げていき、岩場へと引き上げたウルフィッシュを両手で持ち上げて喜ぶ千尋。
巨大な魚であるウルフィッシュの長さはおよそ1.5メートル。
重さは100キロ前後といったところか。
千尋が釣り上げたウルフィッシュはこの日最大の大きさとなり、全長およそ2メートル、重さは優に150キロを超えそうだ。
自分だけ一匹しか釣れなかったのだが、最大の魚が釣れたのであればその喜びも大きいだろう。
荷車に積んでクエストは完了。
全身に洗浄魔法を掛けて綺麗に洗いあげ、弁当を食べたら役所に帰って報告だ。
釣り上げたウルフィッシュの数は十九匹となり、報酬は95万リラ。
大きさに関係なく一律5万リラとなるのはクエスト故か。
報告を終えた十四時過ぎからは、シェルベンスの街を見ながら出店で売られる魚介の串焼きを買い食いして回る。
この時期はウェストラル王国からの観光客が多いらしく、魚介の串焼きはあまり売れないとの事でおまけをしてもらえた。
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