第八章
平穏な日常
叔父の家に戻ってから3日ほどは、ずっとベッドの上で過ごすことになった。
本当に寝込んでいたのは最初の1日だけで、あとは養生のためと、もっぱらリィズさんに言い含められてのことだ。
帰宅した当初は、それはもう大変だった。
帰って早々、待っていた春香に、ものすごい勢いで泣きつかれた。
帰宅するまでに2日ばかりを要したので、事前に無事との連絡は入れていたのだが、もはや死人が生き返った並みの出迎えだった。
抱きつかれて揺さぶられて振り回されて、なぜか首を絞められたりもしたが、それも心配の裏返しだったのだろう。
もともとの滞在予定を超えてまで、実際に顔を合わせるまで待っていてくれたのだから、肉親の情には感謝したい。
ただ、一晩寝て起きて――容体が安定していることを確認してからは、横になっている俺に対して愚痴のオンパレードだった。
寝ている隙に額に『肉』と落書きもされた。
あと、何気に高級な貢物まで要求された。
狼狽えぶりを思い返して恥ずかしいことはわかるが、そういったことでバランスを取るのはやめてほしい。妹よ。
その春香も一昨日には帰ってしまったので、今は特にやることもなく、ベッドで大人しくしている毎日だ。
もちろん、店も休業中。
大まかな事情は春香を通じてリコエッタに伝えてもらっているので問題はないだろうが、北エルフの森に出かけてから正味10日ほども店休している計算になる。
せっかく得た客足を途絶えさせたくないこともあるので、そろそろ復帰したいところではあるが、許可が下りないからには仕方ない。
とりあえず、せっかくの余暇なので、日中は大学の卒業論文を纏めている。
長かった夏季休暇もそろそろ終わりが近いが、大学が始まっても必須単位は修めているため、講義に出席する必要はない。
唯一問題の卒業論文も、たった今しがた教授への中間報告をメールにて送ったので、差し当たって急ぎの用事もなかった。
(もう一眠りするかな……)
ベッドに深く潜り込み、シーツを頭から被る。
「にーたん、あそぼ!」
うとうとしかけたところを、盛大にドアの開く音で起こされた。
ドアの前に仁王立ちしているのは、リオちゃんだ。
小さな眉を吊り上げて、ふんすかと鼻息も荒い。
(そっか、約束の3日目だったっけ)
今回の一件で、被害を受けたのはリオちゃんもだった。
絶好の遊び相手が数日間も家を空け、ようやく帰ってきたと思ったら、すぐさま隔離状態。
理由をよく理解していなかったリオちゃんは、いつもの調子で遊んでもらおうと、リィズさんの目を盗んで俺の部屋に突貫してきた。
寝ている相手を起こす得意技、「棚からどーん」をやってしまった。つまりは、ベッド脇にある棚の上によじ登り、寝ている俺目がけてダイブする技なのだが、なにせタイミングが悪かった。
普段なら、軽いリオちゃんが跳びついたくらいで大して痛くも重くもないのだが、帰宅直後の消耗していた身体には結構なダメージで、思わず悲鳴を上げてしまった。
すぐさまリィズさんが飛んできて、リオちゃんを小脇に抱えて出ていってしまい――居間のほうから聞こえてきたのは、リィズさんの本気モードの説教と、リオちゃんの大泣きする声、叔父の必死な娘の弁護と、なにか叔父一家が壮絶なことになっていた。
よほど厳しく咎められて反省したらしく、マジ泣きして謝るリオちゃんを宥めようと、俺は3日後までには回復して遊ぶ約束をした。
それが今日というわけだ。
リオちゃんの気合の入りっぷりはすごい。
動きやすいTシャツ短パン。お気に入りの帽子。虫取り網に竹竿を完備。傍らには遊び道具の詰め合わせの玩具箱と、遊んでもらう気満々だ。
これまでは毎日なにかと遊び相手になっていただけに、リオちゃんなりに我慢に我慢を重ねた日々だったのだろう。
小さなうちのお姫様がここまで期待してくれているのだから、もはや寝るのは諦めた。
体調としては問題ない。正直、横になってスマホをいじるのも退屈だっただけに、散歩がてら外に出ることにした。
「もう大丈夫なんですか、アキトさん?」
その旨を伝えに行くと、リィズさんはまだどこか心配そうだった。
「ほとんど快復してますし、少しは動かないと逆に不健康ですよ。リハビリもかねてなので、無理をするつもりはありませんから」
背後の壁に半身を隠して、不安げに様子を窺っていたリオちゃんだったが、
「アキトさんがそう言うなら……でも、決して無茶をせず、自愛してくださいね」
リィズさんからの許可が下りると、跳び上がって喜んでいた。
待ちきれないリオちゃんに手を引かれて、久方ぶりに外に出た。
陽光が眩しく、目に染み入るようだった。緑の匂いを含んだ外の空気は格別で、太陽の下で軽く伸びをすると、これがまた気持ちがいい。連れ出してくれたリオちゃんには、感謝しないといけない。
当のリオちゃんは、さっそく玩具箱をごそごそとしていた。
なにから遊ぼうかと考えあぐねているらしい。
微笑ましく眺めていると、玩具箱の中になにやら見慣れた手鏡のようなものがあった。
とりあえず、そのエルフの秘宝については見なかったことにした。
「にーたん、きゃっちぼーるしよ!」
厳選に厳選を重ね、まず選出されたのはゴムボールだ。
これは以前に日本からのお土産として持ち込んだもので、こっちの世界では木を削ったような固いボールしかなかったため、ぐにぐに柔らかくよく跳ねるゴムボールは、リオちゃんにすごく喜ばれた。
最初の頃、リオちゃんは投球が苦手で、10メートルほどの距離でもノーバウンドで届いた試しはなかったが、最近はずいぶん上達してきた。
懸命に投げようとするあまり力みすぎていたので、軽くスナップを利かせて投げるコツを教えてからは、ときどき驚くくらいのいい球を投げ返してくることもある。基本的にリオちゃんは覚えがいい。
近頃は室内での遊びが多かったので、キャッチボールは半月ぶりくらいになる。
「いっくよー」
軽い感じでリオちゃんが投げたボールはさらに上達していて、いいスピードで真っ直ぐ胸元に飛んできた。
「お、ナイスボール」
キャッチしようとした寸前――ボールは手元でひょいと曲がり、明後日の方向に飛んでいってしまう。
「あれー?」
不思議そうにしているリオちゃんに笑いかけ、ボールを取りに小走りで向かいつつ、
(精霊さん、これ攻撃されてるわけじゃないから)
小声で説明しておいた。
風の精霊の護りを実感する瞬間でもある。
あの竜の谷での出来事以降、心配は尽きないのか今でもこうして守ろうとしてくれている。
ありがたいやら畏れ多いやら。ま、よっぽど俺が、頼りないってことなんだろうけども。
ひと通りの玩具で遊び尽くし、今度はちょっとお出かけとなった。
意気揚々と先導するリオちゃんに付いていくと、リオちゃんのお馴染みの遊び場、神域の森に着いた。
「にーたん。みてて、みててー」
リオちゃんは手近の木に取りつき、幹に爪を立てて器用に登っていく。
さすがの身軽さで、20メートルほどもある木のてっぺんまで踏破し、その隣の木に飛び移っては下まで降りてきて――を繰り返す。
遥か頭上で、枝に尻尾でぶら下がって逆さまになり、楽しげに手を振ったりもしている。
こういったところを見ていると、リオちゃんもやっぱり獣人なんだなーと、その運動能力に素直に感心する。
俺にはとてもではないが無理な相談だ。5メートルの木でも登れない自信がある。
ちなみに、リオちゃんから「にーたんもいこー」と誘われたときは、余裕ありげな笑顔で見送ることがコツだ。
我ながら、ちっちゃな矜持ではある、うん。
よくよく考えると、リオちゃんはあの叔父とリィズさんの子供だけに、とんでもないポテンシャルを秘めていてもおかしくない。
もしかしなくても、家内で一番ひ弱なのって俺なんじゃないだろうかと泣けてくる。
その後は、騒ぎに釣られて現われた熊吾郎の背にふたりで乗って森を散策したり、近くの川のほうに行って魚を獲ったりと、夕方まで存分に遊び倒した。
リオちゃんは例のごとく途中で力尽きてしまい、肩車したまま頭にしがみついて寝てしまった。
とても満足げな寝顔だった。
家に帰ると、リィズさんが苦笑しながら出迎えてくれた。
こんな日もいいもんだなー、と無事に生きて戻ってこれた幸運を、噛み締める日となった。
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