春香の事情 2

 そんなこんながあり、ようやくわたしもいつもの快活さを取り戻せつつあった。

 人間、心に余裕がないと、ああも心が荒むものかと、数日前の自分を思い浮かべて反省する。

 それを思い出させてくれたリコエッタには感謝しかない。


 ふとした拍子に、店内でこちらを窺っていたリコエッタと目が合い、お互いに照れ笑いを浮かべる。

 今でも彼女はこうして、さり気なくわたしを見守ってくれている。本当にありがたいことだろう。


「今日は、ハルカをいいところに連れて行ってあげる!」


 そう切り出されたのは、昼時を過ぎて客足も落ち着いてきたと思った矢先のことだった。


「リコ? いいところって?」


 わたしはリコエッタを『リコ』と呼ぶことにしている。

 友人に『理子』という名の子がいるので呼び慣れていることもあったけど、なによりその呼び方だと日本ふうで気が休まるのだ。


「珍しい飲み物が飲めるところなの。なんてったって近場で無料なんだから!」


 わざと悪戯っぽく言うので、思わず楽しくなって噴き出してしまう。

 リコは満足げに頷いてから、腕を引いてきた。


「早く、行こ行こ!」


「待って。エプロンくらい外さないと」


「そんなのいいから! あたしなんて、いつもエプロン常備だよ? じゃあ、ママー! いつものお向かいさんに、ハルカと行ってくるからー!」


 リコは厨房の奥にいる彼女のお母さんに声を掛けると、返事も待たずに店を飛び出した。

 腕を組まれたわたしもなすがまま、外に連れ出されることになる。


 正直、わたしにはまだ外が怖い。

 店の中ならどうにか慣れたけど、最初のイメージが悪すぎた。

 本来、わたしがいるべき場所と違う景観は、いやでも自分が異物であることを思い知らされる。


 きっとリコにも、それがわかっているからこその荒療治なのだろう。リコらしいといえばらしい。


 リコの目的地は、本当に言葉通りのすぐ近所だった。

 大通りの向かい側、距離として20メートルも離れていない。


 店の前に出された看板の文字が読めないでいると、リコが『シラキ屋』だと教えてくれた。

 奇遇にもわたしの名字と同じだったため、親しみを覚える。


「こんちわ~!」

「お、お邪魔しま~す……」


 どーん!、という勢いでドアを開けて飛び込むリコに続いて、わたしは中の様子を窺いつつ、こそこそと店内に入った。


 落ち着いた雰囲気の店だった。

 壁紙や内装、陳列棚の商品の配置が、見慣れた日本の雑貨屋を髣髴させる。


 店内には、椅子に腰かけた男性がひとりだけいて、ひらひらと手を振っていた。


「いらはい~」


「あれ? ナツメだけ?」


「あんちゃんは、ちょっと裏の倉庫までお出かけ中っす~、すぐ戻るんじゃないっすかね~?」


「で、あんたは毎度のごとく、ここに入り浸ってるわけね……あんた、いい加減に親父さんに絞められるわよ?」


「ま、そんときはそんときってことで。運命と思って諦めるしかないっすねぇ」


 リコとはお互いに気安く親しげなので、少し安心した。

 これだけ心を許して接しているからには、悪い人ではないのだろう。


 馴れたふうの掛け合いに見える歓談を済ませた後、リコがわたしを紹介してくれた。


「お店を手伝ってくれている子でね、名前をハルカって言うの。どう、可愛い子でしょ?」


「リコ、最後はよけいでしょ。春香です、よろしく」


 初対面の相手に変な紹介をするものだから、気恥ずかしさに赤面してしまった。


「このゆるそ~なのが、ナツメって名前のバカね。近くの鍛冶屋のぐうたら息子なの」


「ども。『酔いどれ鍛冶屋』のナツメっす~。エッタの扱いが酷い」


 3人で思わず声を合わせて笑い合う。


「まま、立ち話もなんすから、どぞどぞ座って。今、準備するっすから」


 そう言い残して、店のカウンター奥へと消えていく。

 少しして戻ってきたときのその両手には、湯気立つカップがふたつ握られていた。


「さんきゅ、ナツメ。で、これがさっきハルカに言ってたやつね。どう、珍しい飲み物でしょ?」


「あ、これ、珈琲……」


「あれ? なんだ、知ってたの?」


 リコが不思議そうな表情を見せる中、カップから湧き立つ香りに目を細めた。


 白木家は一家全員が昔からの珈琲党で、わたしも漏れずに大の珈琲好きだ。

 1日に平均5杯は飲むし、朝と夜はエスプレッソ、昼はカフェラテと決めている。


 ほんの数日とはいえ、口にしなかったどころか香りも嗅いでなかったので、とても懐かしく感じられる。

 ここには無いものと諦めていただけに嬉しさと、同時に膨れ上がった懐郷の念とで涙が零れそうになった。


 しかし、ここで泣いてしまっては、せっかく元気づけようとしてくれたリコを落胆させてしまう。

 わたしはそそくさと席から立ち、店内を見渡すふりをして顔を背けてごまかした。


「ここって、すごく色々な種類の商品が置いてあるけど、何屋さんなの?」


「『素材屋』さんよ。うちのパン屋もお世話になっているの。ちなみに、今ハルカが着ている服を縫った糸もここで買ったの」


「そうなんだ」


「オープンからまだそんなに日には経ってないすけど、自分的にはかなりお勧めのお店っすよ? なんせ、珈琲がタダで飲める!」


「あんたはまたそんなことばっかり! あくまで珈琲はお客へのサービス品なんだからね、ったく」


 そのやり取りに、本気でおかしくなってきて、つい笑ってしまった。

 この店に連れてくるとき、珈琲無料を強調していたのはリコもだったはずだ。


「けど、それ抜きにしても、この店はすごいと思うっすよ? これだけの分野で種類を揃えようとしたら、仕入先もいくつも押さえとかないと無理すからね~」


「あ! それは、あたしも思った! 少量ずつの仕入れって購入単価が上がりそうだけど、そんな感じでもないし! どうやり繰りしてるんだろ?」


 ふたりが会話の中で、ふと垣間見せた表情に少し驚いた。

 さすがは商売人の子供ということだろう。


「そっか。じゃあ、こういった『素材屋』さんって珍しいんだ?」


「珍しいどころか、この商人の街って呼ばれてるカルディナでも、一軒きりじゃないすかね?」


「カルディナ?」


 聞き慣れない名称が出てきたので、鸚鵡返ししてしまった。


「ハルカは知らなかった? この街の正式名称よ。まあ、皆『街』としか呼ばないし、意味も通じるからわざわざ言う人もいないけどね」


「なるほど。カルディナって言うんだ」


 そんなときだった。

 遠くからの爆発音とともに、地面が揺らいだのは。

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