第1章 旅する死者

第1話 冥府の底

 また此処に還って来た。

 無明。闇ではなく、光がないが故の不可視だ。

 その無光の中に、死者の魂が埋もれている。

 此処は冥府の底、死者という概念の肚、永遠にして刹那の沈黙である。

 此処では、生きていた者共は次第に自我を失い、自己を喪い、自由を奪われ、それで安穏と静寂と無窮を得る。それを感じる識覚は須らく無くしているのだけども。

 その中で、右手に【万華鏡】を取り出す。それは内に反射する僅かな光を増幅して露光させて、ぼくの姿を浮かび上がらせる。

「さて、行くよ、来星こぼし

「はーいよ」

 ぼくの後ろに、一人の未言巫女が躍り出た。未言巫女とは、未だ現世にも幽世にもない言葉である『未言』の『言霊』だ。

 ぼくはこの【万華鏡】から未言巫女を呼び出せる。

 この来星は、ぼくが初めて呼び出した未言巫女だ。

 来星は、長い黒髪を柳のように揺らして、ぼくの前を歩く。

「ったくー。あたしに慣れ足の真似させるとか、ほんっとにもう。流れ星の代わりにされるわ、他の未言巫女の代わりにさせるわ、あたしってかわいそうな星の元に生れたのね、いやちがう、あたしに対して星がどうとか言うな、ぜったい」

「わかったわかった」

 ぼくは勝手に捲し立てる来星を宥めながら、あの場所へと後を着いていく。

 そして、冥府の擂鉢の底へと下り、御身の前に至る。

 その御柱は、ぼくたちの存在に気付き、意識を上げてくれた。

「あぁ、来てくれたんだね、水夜乃」

「はい、契りをお守りいたしました」

 ぼくは御身に恭しく頭を下げ跪く。

 そんなぼくの方に、御身は、たおやかな、それでいて芯があるのをはっきりと感じられる手を肩に乗せて、労ってくれる。

 この御方は、他の神々が協議の元に、この冥府の底に鎮められた神祇である。死者の魂の沈黙が過重となり、この御方を束縛している。

 だからぼくは、現世へ降り立ち、この御方へ外の世界に僅かでも触れる機会を作りたいと思ったのだ。ずっと死んでいた中で、元の性別も遺失していたぼくが、それでも自我を、自己を、微かな自由を握り締めたのは、この願い故になのだ。

 ぼくは、此度の旅を、御前に腰掛ける御方へ、ぽつりぽつりと語る。

 その間、いつも通り静かに待ってくれる来星には感謝している。暇そうに欠伸しているのが視界の端に見えているとしても。

水夜乃みやの、その万華鏡をまた見せてくれる?」

「勿論です。元は御身の持ち物ですよ」

 ぼくが【万華鏡】を差し出すと、御柱は手にそれを取り、覗いた。

「おや、詩心がもう十より多く集まっているよ」

 御身に言われて、やっと気付いた。詩心、それはぼくの作品へ寄せられた人々の称賛が、【万華鏡】に映されたものだ。これは未言の言霊を呼ぶ依代となる。

「あと、星も三つあるね」

「え、誠ですか?」

 まさか其方も貯まっていたとは、驚きだ。星もまた詩心と同じだが、来星が言うには、その星による召喚ではより強力な未言の言霊が出て来やすいと聞いている。

「ふふ、ほら水夜乃、未言をお呼びなさい」

 ぼくは返された【万華鏡】を手に取り、覗く。

 小さな窓の中では、鋼の蒼と赤銅とオリハルコンの黄金が、幾何学に光の欠片を煌めかせている。

 その中に、薄紅や浅葱、萌黄や空色の詩心が、花弁のように浮かび、時折星の瞬きがえている。

 詩心が十枚集まって杜若の形を取った。その淡い光が此方に近付いて来て、【万華鏡】を目から離すと、円錐に開いて飛び出した光の中に、一人の乙女が象られていく。

「はいはーい。五月雨と五月晴れ、その狭間に吹く皐風さはかぜが貴方の心に安らぎを差し上げますよー」

 田植えする早乙女の装束を身に付けた未言巫女が、軽やかに光の中から降り立った。

 皐風と名乗ったその未言巫女に、来星がひらひらと手を振る。

「やほー、皐風、おひさー」

「あらやだ、来星ちゃんたら、もっと慎ましい言葉を使いなさいっていつも言ってるでしょ」

 なんとも微笑ましい光景だ。

 御方も二つの未言巫女のやり取りに、口許を手で隠し、可笑しげに体を揺すっている。

 そんな中で、【万華鏡】から星が三つ尾を引いて飛び出て来た。そして其々が均等に距離を置いて三角を描き、光を放って重ね合わせた。

 その三重の光条に、また一つの未言巫女が浮かび上がった。

 おっとりと彼女が足を踏み出した瞬間、光がない筈のこの蔵で、辺りが翳った。

「うんぅ……あれぇ? わたしぃ、今度はぁ、どこに来てぇ……どなたぁ?」

 あまりに状況を把握してない発言に、思わず誰もが黙してしまった。

 まして、その体はこの場にいる誰よりも大きく、巨体というのに相応しいのに、それが大きな小首を傾げているのは、ただただ言葉を失うばかりだ。

「えっと、彼女は?」

「うげ。かげつちだよー、あたし、相性悪いんだよねぇ」

「来星ちゃんは晴れ間前提だからね。あたしとはけっこう相性いい子なんだけどさ」

 来星と皐風が、目の前の未言巫女の事を教えてくれた。

 翳り地、辺りを暗がりに変える雲の発現、死の概念で象られたこの場所であるからこそ、概念である未言の言霊はこの場所に影響を与え得る。

 それはそれとして、翳り地は何も分かっていない顔をして、来星や皐風を見比べている。

「えぇとぉ……来星も、皐風も、どうしているのぉ?」

 きょんとした団栗眼を丸くする翳り地に、来星が盛大に溜息を吐いた。

「いい? あたしたちはこの主様に呼ばれたの。この人……ひと? とにかく、これを助けていくの!」

 来星も、態々言い直すとは律儀だと思う。ぼくは人ではないけど、自我は人であった時を基にしているのだから。

「いや、貴方の精神はもう相当人から変質していると感じるわよ?」

 ぼくの考えを読んだようで、皐風にくすくす笑われながら訂正をされた。

 まぁ、仕方ないか。

 翳り地も、色々と説明している来星の話におっとりを頷いているが、あの様子ではどれだけ理解出来ているかは怪しいかもしれない。

「ふふ、未言巫女達はどれも楽しい子ばかりね、水夜乃。――吾とても何時までも眺めたくはあるけれど、水夜乃はもう行った方がよさそうね」

 御前が、ぼくを見る目をすぅっと細めた。

 確かに、見えもしないのにこの死の肚を満たす気配で、ぼくの自我は少しずつ削られていっていた。

 ぼくがぼくであり続けようと想わせてくれた御方の側にいては、ぼくはぼくを失ってしまう。

 矛盾したこの在り方が、けれどもぼくの存在する為の有り様を決定付けている。

「はい。ぼくはまた現世に参ります。どうぞ、お待ちください」

「ええ。水夜乃も息災になさい」

 ぼくは、この場に留まりたいという欲望と愚痴を振り払って、御前を辞した。

「皐風と翳り地は戻って」

 ぼくが声をかけると、二つは素直に《万華鏡》の中へと戻っていった。覗き窓を瞳に翳せば、若草の息吹が流れ、翳りが通り過ぎる。

「彼女達の細工も作らないといけないな」

「あー、まぁ、向こうに行って素材集めからだねー」

 来星の言葉にぼくは頷く。冥府の底から這い上がり、死の蔵の入り口、現世と幽世の繋ぎ目にまで来て、ぼくは天上に挿頭すように右手を上げ、その手首から鎖を垂らすブレスレットを見詰める。

「性懲りもなく、行くのか」

 此れから、彼方へと向かおうとするぼくの背中へ、厳かな声が掛けられた。

 振り替えれば、彼の方とは異なる神霊が其処におわした。

異世津凪角尊ことよのつなぎかどのみこと、お久しゅうございます」

「おお、楽にしろ。構わん」

 幽世と現世の防人にして、渡守たる御方は、威厳に冴える瞳でぼくを見る。

 圧倒的に『格』の違う御方にそのように見られると、今にも自失して死の無明に溶けてしまいそうになる。

「いや、お前を掻き消すつもりはない。お前とて好きなだけ望みを求める権利はある」

 この御方は、ぼくの行いを黙認してくれる温厚な御方だ。だが、もしぼくが理を損ない、何れかの世の存続を危うくする事があれば、即座に存在を消す冷静さも持ち合わせていらっしゃる。

「ともあれ、道半ばで消えるなよ。お前の魂を取りに使いを遣るのが面倒だ」

「はい。ぼくとしてもそれは無念になるので、必ずや戻る決意です」

「おう。知ってる。ただの餞だ」

 異世津凪角尊はそう仰せになり、姿を隠された。

 神霊の御言葉には言霊が宿る。正しくぼくの旅に無事あれと餞別を下さったのだ。

「行こうか、来星」

 神霊にこれ程までの温情を受けたのだから、ぼくは何があろうとも此の世に戻らなくてはならない。そして、ぼくで在り続ける為に彼の世へ行かねばならない。

「はいよー」

 ぼくは改めて、右手を天上に挿頭し、隕銀の鎖の先に繋がる雨点鉱の錘を垂らした。

 来星がその錘に指で触れると、その姿は雨点鉱に吸い込まれて、正しく夏の夜に降る来星の一滴のように、銀色の光粒となった。

《降夜来星》

 ぼくが、未言の有り様を唱えると、来星はその言霊の力を解放した。

 ぼくは一滴の来星となり、死の肚の天上を突き抜けて、星の瞬く現世の夜へ、降るのだった。

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