第15話 城郭都市アンギナム

革袋に詰めた飲料水をちびちびと飲み、水分補給をするだけに留めた。

雨が降らなかったことでぬかるみのない乾いた地面が保たれ、運が良いのか対向する馬車も少なく、出発してから一度も停車せずにいられた。

まっすぐに生えた木々の隙間にリジー村から流れてきた川が覗き、更に遠くでは広大な山並みが見える。

切り立った崖の混じる山脈はあたかも人を拒むようだが、豊かな山麓(さんろく)付近では別の村の人々が農園を営んでおり、住居と農場によって少しずつ拓かれていた。

標高の高い部分も、よく観察すると城とも塔ともつかない白い建造物が紛れている。

だがそれらは近年築かれたものではないらしい。

放置されて久しいのか屋根はいびつに欠けており、植物のつるが壁を覆いかけていた。

「十年か二十年前、領主さまが冒険者や狩人を大勢集めて山から危ねえもんを追い出してくれたけ、ここらは平和なんぞ。セルマらもよう見とき」

マーリャの視線の先を辿ってか、朝食を終えたダーチェスが自慢げに鼻孔を膨らませる。

実父の態度にセルマは胡乱(うろん)げな視線を送った。

「なーんか、うろ覚えやち。うちの村は誰も参加しとらんのやろ?」

「普通の人間が魔物とやりあえる訳なか、冒険譚の見過ぎやで。クワ持った尖兵にさせられたら困るて、貯めといた食い物を差し出したんや」

息巻く父に対し、セルマはまた始まったとばかりに頬杖をつく。

当時はダーチェスの父ーーセルマにとっての祖父が村長を務めていた。

自らの土地を持つ裕福な農民だけでなく、立場の弱い小作人や農奴(のうど)も労をねぎらって平等に守り、不足した食料を自費で補(おぎな)ってみせた。

人望を集めた身内をダーチェスはこの上なく評価していて、たびたび偉業としてそらんじている。

ひととおり話し終えるまで止まらない雰囲気だったものの、水を差す声があった。

ジョサイアがいつの間にか目を覚ましていたのだ。

「何を殺したか伝わってます?」

面差しは単純な疑問を口にした時とそう変わりない。

しかし声には、どこか冷ややかな響きがあった。

ダーチェスはその些細(ささい)な違いを気に留めず、事情を知らぬ異邦人を無視し一方的に喋っていた件をかえりみて頭を掻く。

「直接的に被害があったんは山麓の人らなんやが、あすこは閉鎖的やけ正確なところは分からん。ほんまはここらにおらんはずの奴で、人の頭を潰せるでかい鳥とか何人も一呑みに出来る大蛇とかやったって噂に聞いたわ」

魔物(モンスター)という言葉は定義が曖昧だ。

基本的には魔力の素となるエーテルを取り込んだ生物の総称であるが、森で遭遇した巨躯の獣のように異常成長を遂げて人を襲い出した動物もまた魔物と呼ばれる。

死骸(しがい)は基本的に余さず持ち帰られ、都市で素材として売り払われ、活用されていく。

近隣に潜んでいた敵であっても与えられる情報が少なければ、それが何であったか知るよしもないのだ。

「……そうですか」

正確性に欠けた返答に不満を示すでもなくジョサイアは苦笑する。

「もうおらん魔物のこと考えるんはしょうもない。ほら皆、道を曲がるけ転げ落ちんように」

どこでも良いので掴まっておけ。

ダーチェスがそう言い切る寸前で馬車は急激に斜めへと傾いた。

とっさの判断が功を奏して人や荷が放り出されることはなかったが、各々の苦悶の声やセルマの悲鳴が響き渡った。


ひどく疲弊しながらも、ようやく荷馬車は地方都市アンギナムの城壁を越えた。

円を描く外周に沿って背の高いレンガの家が並び、敷き詰められた石畳の色や形が人道と馬車の通行用道路を分けている。

手間をかけた地面は人々の靴音のみならず、馬の蹄(ひづめ)の音まで高らかなものに変えていた。

セルマがマーリャの手を引いて席を立ち、キャビンの入り口で街並みを眺め始める。

すぐにディアンも彼女に倣(なら)った。

「お嬢さんがた、身を乗り出すのはお勧めいたしません。このまま宿に行きますので、路地の手前まではお降りになりませんように」

御者は忠告ののちに再び手綱を手繰る。

三人は簡潔な相づちを返し、決して踏み出さなかった。

馬車の往来はそれほどでもないが、とにかく人通りが激しい。

色の境目付近に布の屋根を広げた露天商(ろてんしょう)が並び、商人たちの営業文句に売買の会話が混じるうえ、道行く住民も話に花が咲いている。

降りてしまえば、あっという間に紛れて見分けがつかなくなってしまうと容易に想像がついた。

「やっぱり、都会ん人は綺麗かしとるね」

セルマが感嘆のため息を漏らす。

肌や髪の色艶だけではなく、服の質自体が村とは違っていた。

職人や商人として店を構える者は袖を絞った動きやすい服を着ているが、歩行者はそうではない。

男性は袖の広いブリオーにベルトを締めた服装が目立ち、女性はつま先が隠れるほど裾の長いコタルディを好んで着ている。

布地に使われている色も複雑な配合が可能なのか、きわめて鮮やかで多種多様だ。

バタバタと走り回る子供ですら淡く色のついた服を着ていた。

「あんなじゃ、手足が動かせん。労働には向かん造りや」

「パパ、静かにしといて!」

外に聞こえない程度の小声だったがセルマは素早く反論した。

ダーチェスはぶつくさ口の中で言いながらも大人しくなる。

洗練された優美な衣装で暮らすという都市ならではの特権を目の当たりにして、セルマはいっそう憧れを抱いたようだった。

ディアンも見物を止める気配がないが、セルマと同意見であるかは分からない。

忙(せわ)しない目の動きに反して表情は硬く、変化らしい変化がなかったのだ。

「気になることでもあるん?」

「……何もねえ。考えとるだけじゃ」

マーリャの問いにようやく口を開くも、肝心の胸の内は明かされなかった。

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