黄昏の修繕師
藤村時雨
1話 偶然は始まらない
偶然という瞬間が。どれほど末恐ろしいものなのか。
この時はまだ。何も知らなかった。
―――黄昏色に染まった世界の片隅に、どこかの路地裏で事件が起きていた。
「おいテメェ、俺の話を聞いてんのか? あ?」
「……」
いきなり不良に詰め寄られる。
訳が分からずに少年は恫喝されたが、話を聞いてなさそうな気の進まない様子が面白くなかった不良は無意識に苛立ちを助長させていく。
怒号を聞いた。
違和感を察した見えない危惧の知らせ。向こう側にある未知の領域であっても、少年は本能のままに駆け付ける。覚悟を背負う正義は揺るがない。そして思い浮ぶ情景が、反撃の狼煙を上げる果敢な姿を捉えていた。
悲鳴を上げる声はやっと届いた。
誰かが助けを求めていることを、一人の少年にちゃんと心に届いた。
声のする方角に進んだハズなのに。後に続く勇気は萎れてしまう。目撃した残酷な事実を前に歩み寄らない他者は視線を背けるばかり。嫌悪感を覚える醜態の脆さに嫌気が差しても。
幻滅する感情が昂ってしまうのは。
―――黒髪の少女が狂い始めた男の集団に襲われかけていたからか。
「悲しい、世の中なんだな」
現代社会に蠢く闇が具現化する。
人を寄せ付けない恐怖の象徴が路地裏に繰り広げていて。
彼女の悲痛な心の叫びが表舞台に溢れても、素通りをする群衆は顔色を変えず、自分自身には関係ないと困惑を背に切り捨ててしまう。
全ては恐怖と苦痛から逃れる為に。
伝播する弱い感情こそ集団心理は働く。人々は自ら生み出した雰囲気に流されて彼女を見捨てた。逆境を乗り越える小さな勇気さえあれば、意味もない悲劇を起こさずに済んだというのに。
行動を力に変える。
本当の『意志』を持つ者は、―――何処にもいなかった。
蔓延るのは限られた時間に追われたマリオネット達。
簡単に千切れてしまいそうな、薄っぺらいルールに従うばかりで肝心な部分を見逃している。自分自身に精一杯の臆病者の彼らは現実逃避をする為に心を閉ざし、理不尽な世界の隅で縛られ続けていた。
見て見ぬフリ。聞かないようにする無駄な努力。
そして、何も告げられない軟弱な心。
この世に毒された結果、都合良く本能に操られた傀儡になってしまった。
こんな束縛された人生で満足なのだろうか?
いいや。きっと違うだろう。不条理な現実を求めてはいない。
本当に欲しいのは一つだけある。
―――固定された未来を解放する為の、自由への叛逆そのものだった。
「このガキ生意気だな。少しは怖さというものを教えやってもいいんだぜ?」
「痛い思いをしたくなかったら、黙って回れ右でもしてな」
蚊帳の外がうるさかった。
先程から耳に障るのは脅しにならない戯言である。それを繰り出すのは知能の低下を露呈しているのは三人の輩だ。大学受験に近い年代が悲惨な現状を言う。背丈の合わない弱いものいじめをする不良達は何処から見てもカッコ悪かった。自分達が強いのではない。何か勘違いをしている。薄暗い路地裏で屯する時点で、運の無さに少年は思わず納得するしかなかった。
何せ。彼らに宿る心は。
―――負の感情によって人格が歪んでしまっていたのだ。
「いい加減よぉ、俺達の邪魔をするってんなら、覚悟はあんのかよ? ああん?」
「コイツ、ビビって動けねぇのか? こりゃあ傑作だ!」
脅す度に怒号が飛び交う。
その大声にビックリして少年の背後に隠れてしまった少女の頬には涙が伝う。
酷く怯えた様子の彼女は堪らずに服の袖を掴んでいた。深紅に染まる顔は恐怖を宿しており、三人の輩に負の感情を尖らせていた。
「い、いやだ……」
彼女は嫌がっている。
震える華奢な身体が掴んだ袖を辿って震えているのがよく分かる。
「助けて……」
トラウマを刻まれた悪夢の瞬間を。無垢な少女は実感してしまった。
豹変した理性の暴走を純粋な瞳で刮目する拒絶感と、希望にすがることを躊躇う絶望の心情は、どんな未来を望むことだろうか。
だけど、それでも、彼女を救える理由が一つだけあった。
「え……?」
輩の前を立ちはだかるように。
手を翳す少年は彼女に向けて、約束の言葉を告げてみせる。
「―――君は下がって」
まずは逃げ道を確保する。これ以上彼女が傷付けないように、最善の解決策を見出すには、自分自身が盾の役目を全うすることだった。
―――助けてほしい。
たったそれだけの意味で。答えは最初から辿り着いていた。
心が突き揺れる大切な意味。彼女を助けたいからこそ、理不尽な悲劇を少年は乗り越えてみせる。もしもあの子に幸せを送れる日々が訪れるのであれば。
心に光がある限り。絶望を砕き、希望の存在となろう―――。
「大丈夫。俺が必ず君を守ってみせるから」
「……うん!」
少女の背中を押す優しい言葉が見る世界を変えていく。
悲しい悪夢から目覚める現実の世界へ。彼女の物語はここから始まる。
景色の先に待つ広大な未来を手に入れる為に、傷付いた感情を抱く心を修繕するおまじないを掛けた。彼女の渇いた闇に光を照らす支えになれるように、困難に立ち向かう反骨の精神と小さな勇気を与えた少年はまるで。
ヒーローのような救いに、事態が悪化した輩は悪意に染めていく。
「畜生、待ちやがれ! お前どうしてくれてんだ」
「ただで済まされると思うなよ? 正義面しやがって。ぜってぇ許さねぇ!」
「ちょっくら締めてやるか」
踵を返して路地裏を駆け抜ける少女を追い掛けず、彼らは立ち塞がる相手に沸々と怨嗟を溢す。逃げ場を塞ぎ、拳を鳴らしては戦闘態勢を整う。充血した眼光はかなり暴走しており、いつ不意打ちを仕掛けようか状況を伺う。どうやら三人の輩は喧嘩について手慣れているようだ。
迫り寄る危機はいずれにせよ止まらない。
だが、脅迫を微動だにしなかった少年は確信を得た微笑をちらつかせる。
それだけで恐怖を与えるのは十分だった。
「な、なんだよお前。一体何者だ!?」
数で負けているのに。
誰もが見ても不利な状況に陥っているのに。
崩れることのない平常心を携えた少年の厳かな目を見て、相手は戦慄を覚える。路地裏の影に潜める不気味な気配が、脆弱な心境を支配させていく。
もう止められない。
赤い線を描いた眼光は燃えていて。距離を追い詰めた視線は目の前に届いた。
日本刀を握るように身構える少年は呟く。
「教えられない。たとえ落としたハンカチをあの子に渡そうとしても、見逃せないところがあった。だからほんの少しだけ眠って貰うよ」
「な、なに!?」
それは一瞬の出来事だった。
逃げ惑う男達が。烈火の渦に心の闇が飲み込まれて。勝手に倒れていく。
「―――火鼠」
音をも殺す殺陣の到来。称賛に値するような演技の連続。
瞬き厳禁の一閃か迸り、次の瞬間、曇天に覆われた灰色の世界は黄昏に染まる景色を取り戻した。大いなる後光に照らされた少年は刀を鞘に収める素振りをする。的確に欠点だけを突いた攻撃に隙間はなく、まるで演劇のシーンを彷彿とさせる華麗な成敗は、彼らさえも欺く為の心理戦に過ぎない。
ただただ。陽の構えをした。
景色の終着点に辿り着いた少年が居合わせただけで。
全部。何もかも。彼らの未来は敗北という偶然が決まっていただけなのだ。
「……恨むのなら、自分の不甲斐なさを恨みなよ。……縫子」
誰に呼び掛けても。その返事は返って来ることはない。
言葉にならないほどの重圧がのし掛かる静寂の中で、路地裏で伸びている男達を眈々と拳銃を向ける少年は目を見開く。
「―――おやすみ」
そして、
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