株式会社MBM―2

「くっそぉ……あとちょっとだったのになぁ……」

 本日の最終レースを思い出しながら、俺は情けない声をあげた。五番人気のサイレントケイに賭けた単勝馬券をくちゃくちゃに丸め、カウンターの上に投げ捨てる。

「残念だったな」全財産をすってしまった俺の前に、スティングのマスターがグラスを置いた。ピッチャーで中身を注いでいる。「水くらいは出してやるよ」

 俺はグラスに口を付け、

「……自信があったんだよ」

 ぼそりとこぼし、言い訳するかのような口調で言葉を続ける。

「天気予報は雨だった。一番人気のミスターパーフェクトは重馬場が苦手だ。二番人気のカミソリシュートは前々回のレースが散々だったし、三番人気のスピードスターは騎手との相性が悪い。なんとなく嫌な予感がした。四番人気のヒノタマストレートは最近衰えが見えはじめてる」

 だから、五番人気のサイレントケイに賭けた。血統はいまいちだが、重馬場は得意。前々回、同じくらいの距離のレースでの成績もよかった。づなを握るのはかみ騎手。過去にこの組み合わせはGⅡのレースを二度制していた。

 なにより、俺の勘がこいつだと言っていた。

 絶対にこの馬がくる。そんな根拠のない自信が、俺の中にあった。

 ──ところが。

「……まさか、最後の直線で六番人気のミチノクプリンスに差されるとは」

 レース終盤、ラスト数百メートルのところで、サイレントケイとミチノクプリンスの一騎打ちに。結果、サイレントケイは粘り切れず、ハナ差で二着だった。

「俺の五百万がぁ……」

 あの馬が勝っていれば、今頃はこの店でいちばん高いブランデーを浴びるように飲んでいたというのに。代わりにマスターのお情けで出された水を飲みながら、俺はがっくりと肩を落とした。

「悪銭身に付かずの典型だな、お前は」

 と、マスターはあきがおで笑っている。

 馬券売り場で一日を過ごし、単勝、馬連、ワイドとあらゆる馬券をあさった俺の所持金は、あっという間に底を尽いた。この金遣いの荒さには我ながら驚かされる。

 しかしながら、金は天下の回りもの。自分の好きなことに財産を費やすのは俺の趣味みたいなものだ。詐欺師という立場上、いつ警察に捕まって稼いだ金を押収されてしまうかもわからないのだから、さっさと散財するに越したことはない。世の中の役に立つことに使おうとか、他人のために働こうとか、そんなボランティア精神は俺には持ち合わせていないのだ。あの男と違って。

「……あ、そうだ、マスター」不意にあのなりきん野郎の顔を思い出し、俺は話題を変えた。「キム・ムヨンについて、なにかわかった?」

 この店のマスターは伝説の元詐欺師だ。この業界の情報通で、人脈も広い。俺は彼に『キム・ムヨン』という名前の男について調べるよう頼んでいた。

 マスターが頷き、「ほら」と紙の束を手渡す。調査結果の報告書だった。ムヨンの写真と詳しいプロフィールが載っている。

「興信所の知り合いに調べてもらった。キム・ムヨン。韓国籍で、年齢は二十七歳。韓国語の他に日本語と英語とスペイン語も話せる、マルチリンガルってやつだな」

「二十七? 俺より二つも年下じゃん」紙をめくり、調査報告書に目を通す。「誕生日は十月十一日、血液型はAB型……本職は投資家なのか」

「韓国財閥のおんぞうらしいぞ。十大財閥のひとつ、ドンファングループの創始者の孫だ。推定総資産額は五百億ウォン以上と言われている」

「五百億ウォンって、いくら?」1ウォン何円だ? 俺は首を傾げた。

「およそ五十億円」

「五十億ぅ!?」

「祖父から譲り受けた遺産に加え、本人も投資で稼いでるから、それ以上の大金持ちであることは間違いないだろうな」

「韓国人のボンボンが、なんでまた日本に? 兵役逃れか?」

「いや、もう除隊しているらしい」

「ふーん」

 とつぶやきながら、報告書を読み進めていく。略歴の欄に『株式会社MBMを設立』とあった。名刺に書かれていた社名と同じだ。あいつの話はどうやら本当だったらしい。まあ、そのことがわかれば十分だ。俺に近付いた理由が真実なのかどうか裏を取りたかっただけで、それ以上の興味はない。俺は報告書をカウンターの上に捨て置いた。

 マスターの厚意はありがたいが、さすがに酒場で水ばかりを飲むわけにもいかない。そろそろ帰るか、と腰を上げようとしたときだった。店のドアが開き、客が入ってきた。「いらっしゃいませ」とマスターが声をかけた先に、俺も視線を向ける。

 韓流スターみたいな男が視界に飛び込んできて、俺は思わず「げっ」と顔をしかめた。

 うわさをすれば影。キム・ムヨンだ。

「……出たな、なりきん韓国人」

 奴は今夜もばっちりきまっていた。ストライプ柄のグレーのスーツに、色の薄いサングラス。ネクタイはパープルだ。左腕にはロレックスが輝いている。

 奴は俺からふたつ空けた席に腰を下ろすと、

「この店でいちばん高いブランデーをくれ」と、マスターに向かって注文した。「ロックで」

「嫌味か」

 こっちは金がなくて水を飲んでいるというのに。相変わらず景気がよさそうでうらやましい限りだ。

 すると、奴はこちらを横目で見て、

「マスター、こいつにも同じものを」

 と、親指で俺を指し、追加で注文を告げた。

「施しはいらん」俺はピッチャーを傾け、自分のグラスに水を注いだ。

「そんな風にチェイサーをちびちび飲まれちゃ、マスターも商売あがったりだろう」

 というあわれむようなムヨンの言葉に、「まったくですよ」とマスターは愛想笑いを浮かべた。……なんか、相手が金持ちだと態度違くね?

 みすぼらしい俺の姿に、ムヨンが首を捻る。「この前の報酬はどうした? 二百万も稼がせてやっただろうが」

「…………」

 俺が黙っていると、ムヨンはカウンターに視線を向けた。くしゃくしゃに丸められたハズレ馬券を見つけ、

「……ギャンブルか」と、呆れ顔でため息をつく。「まったく、金をドブに捨てるようなを」

「お前の本業だって、ギャンブルみたいなもんだろ」俺は負けじと反論した。「俺はただ、サラブレッドに投資しただけだ」

 こうしような言い方をすれば、そういうことだ。

「なんだ、これは」カウンターの上に置きっぱなしにしていた調査報告書に、ムヨンが気付いた。手に取り、中身を捲っている。「俺のことを調べたのか」

「お互い様。この店に来たってことは、お前だって俺のこと調べてんだろ」

「ここ、間違ってるぞ」ムヨンが報告書に目を通し、指差した。「俺の誕生日は十月十一日じゃない、十一月十日だ。さんな調査会社だな」

 そんなことはどうでもいい。いちいち嫌味な奴だ。

「──んで?」こいつがこの店に来た理由はわかっている。俺を説得するためだろう。あらかた予想はついているが、俺は感じの悪い声色で尋ねた。「俺に何か御用ですかぁ?」

「そろそろ気が変わったか?」

 ほら、やっぱり。

「だからさぁ」こいつのスカウトを受けてから数日がっているが、俺の意志は依然変わらない。「お前の会社で働く気はないんだって」

 ムヨンは納得がいかないようすだ。しつこく食い下がってくる。「いい人間より悪い人間の方が、騙しがあると思わないか?」

「俺にとっちゃ、どっちも同じカモだよ」

「だが、罪のない人間を騙すのは、さすがに気が引けるだろう?」

「全然」俺は断言した。強がっているわけではない。本当にそう思っている。「そんなこと考えてる暇はないね。こっちだって生活費を稼ぐのに必死だし」

「生活費? これが生活費か?」と、ムヨンはくしゃくしゃに丸められた馬券を手に取った。俺に向かって投げつけてくる。こつん、と頭に当たり、俺は「いてっ」と声をあげた。

「なにすんだテメッ、このっ」

 俺は胸ポケットの中から残りのハズレ馬券を取り出すと、ひとつずつ丸め、ムヨンに向かって投げ返した。

 紙の球が高い鼻に直撃し、今度はムヨンが「いてっ」と声をあげる。

 俺はムキになってさらに攻撃を続けた。「このっ」

「おい」

「えいっ」

「こら」

「おりゃっ」

「やめろ──って、負けすぎだろ、お前」次から次に出てくるハズレ馬券に、ムヨンが眉をひそめた。

 ただの紙切れと化した馬券はあと十枚ほど残っていたが、俺はポケットの中にそっと戻した。これ以上投げたら、さらに馬鹿にされかねない。

「ギャンブルなんかやめろ」ムヨンは散らかったかみくずを拾い集め、店のごみ箱に捨てた。「どうしてこんな無駄なことに金を使うのか、俺には理解できない」

「理解しなくていいし」俺はむっとして言い返した。「お前の会社のことも、俺にとっては理解できない」

 被害者を救う? 馬鹿馬鹿しい話だ。他人がどうなろうと俺には関係ない。

 すると、ムヨンはため息交じりに言った。「心まで貧しい奴だな、お前は」

「あいにく、お前みたいに貧乏人に恵んでやれるほど、金が余ってるわけじゃないんでね」

「お前にも恵んでやろうか」ムヨンが口の端を上げる。「俺の下で働くなら、十分な給料を払ってやる」

「絶対イヤ」

「人助けをしながら金がもらえるんだぞ。断る理由があるか?」

 俺は指折り数えた。「面倒くさい、興味ない、お前がむかつく──理由はいっぱいある」

「ほら」俺の言葉を無視し、ムヨンが財布から万札を取り出す。「引き受けるなら、今すぐ十万やるぞ」

 目の前に金を突き付けられ、思わず釣られそうになったが、ぐっとこらえた。ここで奴の言うことを聞いてしまったら、俺の中の何かが失われそうな気がした。たしかに俺は金が第一だが、こいつから与えられるくらいなら自分の力で稼いだ方がマシだ。「みんながみんな、お前の思い通りに動くと思うなよ」

 俺たちはどちらも一歩も引かなかった。「働け」「嫌だ」の繰り返しだ。らちが明かない。

 どうすれば諦めてもらえるだろうか、と考えをめぐらせていた、そのときだった。

「よし、わかった」ムヨンが急に声をあげた。なにか思いついたようだ。「ここは、お前の好きなギャンブルで決めようじゃないか」

「……は?」

「ギャンブルで勝負して、勝った方に従う。それなら文句はないだろう?」

「いいね、そうしよう」俺は同意した。「俺が勝ったら、もう二度と俺の前に現れるなよ」

「俺が勝ったら?」

「もう一度だけ、お前の仕事を手伝ってやる」

「イカサマはなしだぞ」

「わかってる。イカサマのしようがない、スリーカードモンテで勝負しよう」

 俺とムヨンは店にあるポーカー台に移動し、向かい合って座った。店から新品のトランプを借り、その中から二枚を抜き取る。

「スリーカードモンテはその名の通り、三枚のカードで遊ぶゲームだ」よく手品にも使われている単純な勝負だ。「──が、今回は公平を期すために、二枚だけを使うことにする」

 俺は二枚のカードを台の上で表に返し、ムヨンに見せた。

「この二枚のカードを使う。一枚はスペードのエース、もう一枚はジョーカーだ。俺がシャッフルして、絵柄を伏せた状態でテーブルに並べる。お前はその二枚の中から一枚を選ぶ。そのカードがジョーカーだったら、お前の勝ちだ。確率は二分の一、シンプルかつフェアなゲームだろ?」

「ああ」と、ムヨンは頷いた。

 ──勝ったな。

 俺は心の中でほくそ笑んだ。

 イカサマのしようがないと言ったが、あれは噓だ。このスリーカードモンテには、実は古くから詐欺師の間に伝わるイカサマの手法がある。

 先に種明かしをしよう。俺はトランプを用意する際に、ムヨンに気付かれないようジョーカーの角を爪でひっかき、目印をつけておいた。これで、伏せてあってもどれがジョーカーなのかは、じっくり見ればわかるようになっている。

「カードを確認してくれ」

 二枚のカードをムヨンに渡す。奴は一枚ずつ、隅から隅まで入念にチェックしてから、俺に返した。「問題ない」

 ムヨンは確実に気付いたはず。ジョーカーの角についている傷を見つけ、奴はかすかに反応を示していた。つまり、二枚のうちどちらがジョーカーなのかを、ムヨンは常に判別できる状態にある。そして、そのジョーカーを引けばこいつの勝ち。今まさに、奴は自身の勝利を確信していることだろう。

 だが、それも計算のうち。

 わざと相手を優位に立たせることで、出し抜いているのは自分の方なのだとカモに錯覚させる。それが、この古典的詐欺における重要なポイントだ。

 俺は二枚のカードを手に取り、重ね合わせた。このとき、ムヨンに見えないよう、袖口に隠し持っていたもう一枚の新品のジョーカーと、目印がついているジョーカーをすり替えた。さらに、入念にシャッフルするふりをしながら、スペードのエースのカードの角に同じような傷をつけておいた。

 今、目印がついているのはジョーカーではなくエースの方だ。だが、ムヨンはそれを知らない。つまり、こいつがジョーカーだと思い込んでいるカードは、スペードのエースに替わっているのだ。

 あとは、相手がわなにかかるのを待つだけ。海外の詐欺師たちは大昔からこういった手口を使い、酒場の酔っ払いたちをカモにして小銭を稼いできたそうだ。

 俺は二枚のカードを、伏せた状態で台の上に並べた。

「ジョーカーを引けば、お前の勝ちだ」

 ムヨンはすぐに「右」と言った。

 俺は言われた通り、ムヨンから見て右にあるカードを裏返した。

 ──ジョーカーだった。

「え」

 目を疑う。

 ……どういうことだ、これは。

 ぼうぜんとしている俺の前で、ムヨンはにっと笑った。「当たりだな」

「……なんでわかった?」

 なぜ、ムヨンはジョーカーを引き当てることができたんだ?

 俺が驚いていると、

「そんなに驚くことか?」と、ムヨンが怪訝そうな目で睨んだ。「さてはお前、イカサマしたな?」

「目印に気付かなかったのか?」

 まさかこの男、あの傷に気付かないほど観察力のない奴なのかと思いきや、どうやらそういうわけではないらしい。

「目印? ああ、カードの端の傷のことか」

 奴はしっかり気付いていた。……だったら、なぜ? なおさら不思議だ。まさか、俺のこんたんを見抜いていた? 俺がカードをすり替えたことに、気付いていたのか?

 すると、ムヨンはとんでもないことを言い出した。「気付いてはいたが、見なかったことにした」

「……は?」

 ちょっと意味がわからない。

「見なかったことにした?」

「ああ、そうだ。目印を見てカードを選ぶのはイカサマだろう。そんなのはフェアな勝ち方じゃない。俺は不正が嫌いなんだ」

「つまり、目印に頼らず、勘だけでカードを選んだってこと?」

「そういうことだ」ムヨンは胸を張った。「二分の一の確率ならば、自分の直感を信じればいいだけのことだろ」

 俺は開いた口が塞がらなかった。

 ……こいつ、もしかして、馬鹿なの?

「とにかく、俺の勝ちだ」ムヨンはご機嫌だ。「明日、二十時に博多駅のロータリーで待っていろ。迎えの車を寄こす」

 俺を指差してそう言うと、ムヨンは席を立った。明らかに多めの酒代を残してコートを羽織り、そのままさつそうと立ち去っていく。

 俺はひとり残され、呆然となった。

 なんだこれ。どうなってんだ。こんなはずじゃなかったのに。いやもう、なんなんだよ、あの男。

 すべてがうまくいかなくてムシャクシャする。俺は奴が注文したブランデーのボトルをあおり、残りを一気に飲み干した。




【次回更新は、2019年7月19日(金)予定!】

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