第28話:表面上の真実
電車に飛び乗り、後は待つだけ。それなのに、僕の心はざわつき続ける。
家族に何かあったんだろうか? それとも、ただ何か他のことなのか。
なんにしても母さんのあの焦り様は異常事態を告げている。
KINEでメッセージを送っても返事は返ってこないし、父さんに電話しても出てくれない。
千野先輩も不安げな顔をしたまま、僕たちは千秋にもに感じられる三十分を過ごした。
駅に着いて、先輩よりも早足で改札を後にする。
辺りはすっかり暗くなっており、不気味な雰囲気がさらに強調されている。
ロータリーに停まっているうちの車。僕が近づくと、父さんがいつも通りの優しそうな顔をして出て来た。
「焦らせて悪かったな、涼太。それにしても先輩と出かけるって、こんな可愛い子だったのか。もしかして色々邪魔しちゃったか?」
母さんの声音とは全く違い、父さんは普段通り明るい。
それが逆に怖いけど、今は母さんの元に行かないと。
「大丈夫だよ。それより母さんは?」
「心配すんな。母さんは大丈夫だ。まぁこんな場所で話してるのもアレだし、取り敢えずその可愛い子を家まで送ってくか」
「ウチは一人で帰れるんで大丈夫ですよ。ありがとう……」
「いやいや、流石に一人で帰らせる訳にはいかんよ。とにかく乗ってくれ。それに、急がないと母さんに殺されるからな」
事情もわからないまま、僕と先輩は後部座席に乗った。
お気に入りの演歌を流しながら、鼻歌を歌って機嫌良さそうに運転をする父さん。
その気の抜けた様子に、僕も先輩も少し戸惑ってしまう。
でも、特に言葉を発する事なく、先輩の家の前まで到着した。
「涼太に構ってくれてありがとな。色々助かったよ」
「いえいえ、ウチはなんもしてないですよ。じゃあまた」
車の戸が閉まると、ブルブル、とスマホが振動した。
千野先輩からのメッセージ。
《なんかあったらいつでも言ってな。頑張って》
そして、先輩の心配を拒絶するかのように、父さんが演歌を消した。
さっきまで笑っていた父さんの目が、何処と無く複雑に歪んでいるように見える。
そうか、父さんは千野先輩がいたから……
「今は、あの子の事が好きなのか?」
唐突な問いに、僕は少しの間言葉を失ってしまった。
でも、父さんの真剣な面持ちに対して、嘘をつく訳にはいかない。
「うん。先輩は僕が大変だった時に助けてくれたからさ」
「そうか。お前にも色々あったらしいからな。って言ってなくて悪かったけど、父さんは母さんから聞いてたんだよ。浮気の事とかな」
「……別に隠すことでもないし、良いよ」
そう言うと、少しの間沈黙が続いた。
父さんは、何故だか丁寧に次に話す言葉を選び抜いている。
事情を聞き出したいけど、父さんにも色々な準備があるんだろう。
「あの子、千野さんって言うんだっけ? その千野さんがもし、助ける理由がなかったら、お前はそれでも恋をしてたか?」
「ん? どう言うこと?」
「もし、もしもだ。根本的な理由が間違っていても、お前の気持ちは変わらないのか?」
もし先輩が僕を助ける必要がなかったら。
まず、僕は先輩がなんで僕を助けてくれたのか知らない。
励ましてもらったのは確かだけど、そのすぐ後に勉強会が始まったし、どちらかと言えば対等な関係を築いてきたんじゃないのかな?
でもそれは表面上の話か。僕は先輩に勝手に励まされて、勝手に惚れ込んでいった。
もしその理由。根本的に励まされる要因がなくて、彼女がいない状態で先輩に出会っていたら、僕は恋をしてたんだろうか?
……そんなものはいくら考えてもわからない。
実際に先輩を好きになった。そして、僕はその理由を持っていた。
理由がなかったら、なんて考えても、あるのだから分かる筈がない。
「なんとも言えない。けど、そんな事考えても意味ないよ。現実には起こってないんだから」
「…………」
「ん? どうしたの?」
「お前に色々苦労かけるかもしれない。でも、父さんはお前の意見を尊重するからな」
「え? どう言うこと?」
そして父さんは、一つ大きな深呼吸をした。
「良いか、よく聞け。香澄ちゃんは家族を守るために仕方なくあの男と付き合っていた。そしてさっき、香澄ちゃんは意識不明の重体で病院に運ばれた。守っていた筈の家族に捨てられて、全てを失いながらな」
……え?
意味が分からない。父さんが何を言っているのか、何を言いたいのかも。
「母さんがお前に電話した直前に、これが家の玄関前に置いてあるのを見つけた。読んでみろ」
父さんが助手席に置いてあった封筒を手渡してきた。
裏側に、長瀬とだけ書かれている。
恐る恐る開封してみると、そこには一枚の便箋が入っていた。
『自分勝手な行動をお許しください。事情は詳しくは言えません。ですが、香澄は私たち両親のために、好きでもない男と付き合っていた事を涼太くんにお伝え下さい。娘は今、病院で死の淵をさまよっています。そして私たちは、今から立たなければなりません。できる事なら娘を助けて頂けないでしょうか? 無礼は承知です。ですが、私たちには選択肢がありません。良き隣人に恵まれて、今まで大変幸福でございました。さようなら』
拙い文章。大人同士のやり取りでここまで簡略化された文書は初めて見る。
完全に無視された形式。改行でさえされていない。
でも、父さんが認めてるってことは、これは本当に長瀬さんからの手紙。
つまり、香澄は、和人と望まぬ形で付き合っていた事に……
「長瀬さんは今完全に消息不明だ。こんな短時間で一体どうやって移動したんだか。色々不自然だけど、事実は事実だ。それをお前がどう捉えても父さんはなにも文句は言わないから安心しろ」
でも、僕が感じた悲しみは本物だ。それを与えたのは、紛れもなく香澄。
それなのに、なんで吐き気がするんだろうか。
無知だった自分に対して、嫌悪感が込み上げてくる。
そう言えば、別れの日に、香澄は僕が何も知らないって言ってたっけか。
今思えばその通りだ。何も知らなかった。香澄の気持ちなんて考えようともしなかった。
「でも、母さんの前で千野さんについて話すのはもう少し落ち着いてからにしてくれないか? お前の辛さも分かるけど、母さんの事も考えてやってくれ」
「う、うん。わかったよ」
あの瞬間に見せた、悲哀に満ちた表情は本物だったのか?
侮蔑の表情も、実はそうじゃなかったのか?
ダメだ、いくら考えても分からない。
あの時の僕は、正しく現実を見るためのレンズを失った。
そしてそのレンズが、今心の中で修復されつつある。
でももう手遅れだ。真実から顔を背け過ぎて、今更レンズを取り戻しても何も変わる事はない。
それに僕は今、千野先輩の事が好きなんじゃないか。
香澄にどんな事情があったとしても、それだけは変わらない現実。
それに、まだ香澄の本音を聞いたわけじゃない。だったら、思い悩むことなんてないはずだ。
まもなくして、僕らは病院に着いた。
市で一番大きな市民病院。普通なら閉院している時間なのに、暗い空間の中を数名の医師や看護師が慌てるように歩き回っていた。
そんな中、父さんは真っ直ぐに、集中治療室へと向かった。
扉は固く閉ざされており、部屋の前にある長椅子に母さんが涙を拭いながら腰掛けている。
「母さん、遅くなってごめんね」
「涼ちゃん……」
僕の顔を見た母さんは、弱々しく歩み寄って、抱きついてきた。
肩に、じんわりと涙が染み込んでくるのが分かる。
普段ならありえない行動。それでも、僕は母さんを拒絶することはできなかった。
「香澄ちゃんがね、死んじゃうかもしれないの。お母さんもうどうすればいいのかわかんないよ」
「母さん、取り敢えず落ち着いて。きっと大丈夫だから」
根拠なんてない。でも、心の隅で死んで欲しくないと無意識に願っているのかもしれない。それほど自然に、言葉が口からこぼれてしまった。
母さんは少し落ち着いてから、再び椅子に座った。
昔から香澄の事を娘同然に思ってきたのだから、取り乱すのも仕方がない。
父さんの言った通り、先輩の事は言わない方が良さそうだ。
医者が廊下を歩く音だけが鳴り響く、暗い静寂。
そんな中、母さんが僕を労わり心配するような声で静かに呟いた。
「でも、香澄ちゃんが浮気してなかったならよかった。そんな子じゃないって、お母さん信じてたから。だから、早く目を覚まして欲しいな」
「……そう、だね」
僕は母さんと同じように思っているのだろうか?
でも、父さんから事実を聞かされた時に、一瞬だけ安堵したのは覚えている。
夏祭りの時みたいな報復による快感じゃない。満足感とも違う、ただの安心感。
四ヶ月前に心の底から思っていた、浮気じゃないという真実がそれを感じさせる。
でも、だったらどうなるんだろう。
今更その真実を知ったことで、何かが変わるわけ……いや、変わってはいるか。
最低にまで落ち込んだ、僕の香澄に対する印象がだんだんと戻りかけている。
誰かのために何かをするのは、信じられないほどの勇気と、思いやりが必要だ。
そして香澄は、恐らくそれだけのために全てを犠牲にした。
誰にも事実を話さなかったのは、その人たちを巻き込まないためだろう。
期待の入り混じった推測。でも、僕の知っている香澄ならこんな感じに物事を捉えるかもしれない。
好きでもない人とキスしたり、ホテルに入ったり。そして周囲に罵倒されながらも、それに耐えきっていた。
……って僕はなんでまたこんな事を考えてしまうんだろう。
一本道に突如現れた分岐路。僕はそれに少しだけ惑わされている。
決めたはずなのに。決意を固めた筈なのに、この瞬間に立ち止まってしまった自分が恥ずかしい。
でも、これが一体どういう感情なのかは分からない。
先輩への気持ちのように、感謝が理由だった恋愛感情ではないと思うし……
そういえば先輩に連絡した方がいいのかな。でも、なんて言えばいいんだろうか。
いや、きっと他言しない方がいい事柄なんだろう。
長瀬のおばさんたちが、香澄を捨てる決断を余儀なくされるような事実。
だったら、先輩が知ったら何かに巻き込んでしまうかもしれない。
いや、それより前に、香澄の家で何が起こったんだろうか?
長年連れ添った僕の両親にも言えないような、深刻なことなんだろうけど、でも誰も知らないみたいだし……
「涼太、大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。それよりも母さんが……」
隣に座っている筈の母さんが、視界の端から消えていた。
慌てて振り返ると、まるで子供のように無垢な表情を浮かべて寝息を立てていた。
こんな短時間で寝落ちするわけはない、と思ってスマホを取り出すと、時刻は深夜の十二時を示していた。
時を忘れるほどに考え込むのは久しぶりだ。
浮気、いや、浮気だと思ってた事実が発覚した時は、神崎先輩が近くにいてくれたから、これほど思い悩む事はなかった。
香澄が生死の淵を彷徨っているから、もしかしたら僕は同情しているのかもしれない。
自分が一番不幸だと思い込んでいたあの時、香澄はすでに僕以上に不幸だった。
そして、その先には明るい未来なんて見えていなかったんだろう。
……勝手にそう考えてしまう。
でも、香澄の両親の言う通りだったら、この推測で正しい筈だ。
そして僕は、この推測を全力で否定したい。間違っていて欲しい。
「もう遅くなってきたからな。父さんは母さん連れて帰るよ。涼太はどうする?」
それを知るためには、僕は更なる真実を探さなければならない。
ここで待っていれば、もしかしたら真実にたどり着けるかもしれない。
そう思う事で、自分のごちゃごちゃになった気持ちを誤魔化しているのは理解している。
でも、気持ちの整理をするには、それくらいしかできる事がない。
また一本道を歩むためには……
「もう少し待ってみるよ。何か分かったら、連絡するね」
「分かった。じゃあ帰りたいときに帰ってこいよ。タクシー使ってもいいからな」
「ありがと。また後でね」
父さんは、寝ている母さんをお姫様抱っこしながら、漆黒の中に消えていった。
今自分が選んだ選択肢が間違っているかどうかは分からない。
でも僕は、現在までに得た情報で、過去の自分が後悔している事を知っている。
このまま何も知らないふりをしても、誰も咎めてはこない。
そのまま千野先輩と交際したら、きっと明るい未来が待っている。
でも、僕が後悔するかどうかは別の話だ。
家に帰って、そしてただ風呂に入って寝る。
もしこの間に香澄が息を引き取ったら、僕はそれだけで後悔するかもしれない。
こう考えるのはずるい。でも、僕は形を求めている。
香澄の最期を見送る事で、自分の罪が少しだけ取り払われる。
今の状況で、それが本心かどうか判断するのは無理だ。でも、それがここに残っている言い訳だとしても、別にそれで構わない。
何となく吹っ切りが着いたところで、院内にある自販機でコーヒーを買いに向かった。
遠目から見える集中治療室の周りには、人だかりができている。
医師に看護師。そしてそのうちの一人の看護婦が、手に血のついた手袋をはめた主治医らしき人と口論しながらこちらへと向かってきた。
咄嗟に物陰に隠れてしまう僕。暗がりの中でなら、バレないだろう。
「あの子は助かる見込みがありました。なのに何で……」
看護師のおばさんが、医師に向けて罵声を浴びせている。
そして男の医師が、冷淡な声で呟いた。
「君の家族も危なかったんだ。逆らえるわけがないだろ。医者失格なのは重々承知だ。だけど、俺にはそれ以上に守らなきゃならない家族がいる」
「私は、私は……高校生一人の未来を奪い取ったかと考えただけで、もう……」
看護師の人の泣き声。人気のない院内では、それはそれは響き渡った魂の叫びだった。
でも、膝から地面に倒れた僕にはそれ以上の叫びが聞こえていた。
震える手で、熱い顔を拭う。すると、買ったばかりのコーヒーが、目から滴り落ちていた……
「……あれ、何で泣いているんだろう」
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