Face to the fate

 FACE TO THE FATE



「シュヴァイツェ……終わったか。最後の仕事が……」

ビルの屋上で、神代郁真はその戦いの様子を見届けていた。無感情に見えるその淀んだ瞳には、なにが浮かんでいるのか、読み取ることはできない。

「結局……俺はお前に、なにもしてやれなかった。戯れで体を与えることしか……。最期には……俺の望みのために、お前は……。だが、それでも……お前は……」

それは、愛情かもしれなかった。憐憫だったかもしれなかった。そして……悲哀だったかもしれなかった。

だが、郁真はもう、それらの表し方など忘れていた。

哀れみも、悲しみも、あの地下牢で、すべて枯れ果てた。もう、感じることもないはずだった。

「待っていろ……もう、すぐに終わる。すぐにだ……!」

 代わりにその胸で燃えるのは、憎悪と妄執。この心さえ焼き尽くさんばかりの、その黒い感情だけ。

 だから、郁真には、その瞳が熱くて熱くて溶けてしまいそうにすら思えるのがなぜなのか、理解できなかった。

「これが終わったら……一人になんてさせやしない。お前の堕ちた地獄へ、たっぷりと人間を送ってやる……」

 だから、彼に作ることができた表情は、野獣めいた、牙をむくような表情だけだった。

 それが、あの地下牢においてきたはずだった、悲しみという感情なのだということに、彼が気づくことは、ついになかった。


翔悟とシュヴァイツェの決着がついた頃、紅香たちはビルの階段を駆け上がっていた。

「……さっすが、邪神に再生された体でも、20階も一気に駆け上がると、息が上がるのね……っ」

 すっかり切れた息も絶え絶えに、紅香が愚痴をこぼす。

「仕方ないでしょう。電気が来ているはずもないのだから、エレベーターも当然、止まっていますし」

 だが、そう紅香に答えながら、ともに駆け上る水葉の顔は涼しいものだ。

「てか、ミッチーはなんで全然平気なのよ。……はっ、もしかして、ミッチ―も実は人間じゃないとか……」

「私は人間です! というか、ミッチーと呼ぶなと言っている!」

 またも顔を真っ赤にして言う水葉だが、紅香が意に介した様子はない。

「それよりも、ちょっとくらい警戒したほうがいいんじゃないかな。ここまで敵がなにもしかけてこないのも、おかしい気がする」

 周囲をふわふわと舞いながら、静馬が辺りに目をやる。

「確かに、外にあれだけ怪物を待機させておきながら、中はがらんどうというのもおかしな話なのです。……そろそろ、何かあるかもしれません」

 雪乃も静馬と同じく、鋭い目つきで周囲をうかがいながら走っている。

「そうだ、雪ちゃん、得意の気配察知で敵がどこにいるかとかわかんない? そもそも、郁真が屋上にいるとも限らないし」

「だめです。建物内の気配は完全に消されています。恐らく郁真の仕業でしょうが……。それと、彼は屋上にいると見て間違いないでしょう。あの巨大な邪神を、遠くから操作できるとも思えませんし」

 冷静に分析する雪乃の言葉に、静馬もうなずく。

「そうだね。彼がどれほど、あれを使えるのかわからないけれど、そう簡単に操れるものじゃないからね」

「……そっか」

 紅香も二人の言葉に、素直にうなずいた。

「……おい、ラスボスの話もいいが、どーやら、お待ちかねの雑魚ちゃんたちがおいでなすったよーだぜェ?」

 先ほどのボウガンの姿から剣の形態になっていたアンセムが言う。その口調は相変わらず軽いが、その響きにはどこか剣呑なものが含まれている。

「いる。階段の踊り場だ!」

「下からも来たのです!」

 静馬と雪乃が同時に叫ぶ。

「うそ!? 囲まれた!?」

「一つ下の階に潜んでいたか……初めからこの階ではさみ打つ手はずだったのね」

 思わず足を止めた紅香の背に、下を警戒して、水葉が背を預ける。

「紅香、上は任せた。下は私とお姉さまでなんとかする。そちらは突破口を開いて」

「よーし、ミッチー、了解!」

 両肩をまわしてやる気マンマンの紅香が構える。

「だからミッチーと……! くっ、後で覚えていなさい」

「後で、ね」

 渋い顔で、雪乃をかばって前に出る水葉に、笑みを一つ返し、紅香は駆ける。

「静馬、突っ込むよ! フォローよろしく!」

「ふう。たまには慎重に行こうとか思わないのかな?」

「なんか言った?」

「なんでもございません」

 視線をそらしながら舌を出す静馬に睨みを効かせてから、紅香は怪物の前に躍り出た。

 怪物は外を闊歩しているものと同じく、死人に骸骨、悪魔のような連中だ。

 紅香はまず目の前に現れた死人に駆け上がった勢いのまま、タックルを食らわす。それが倒れたのを確認するとそのまま跳躍、その背後にいた骸骨にとび蹴りを浴びせた。着地と同時に、迫ってきた悪魔に、かがんだ姿勢から強烈なアッパーを放った。

「もう終わり? どんどん次、来なよ!」

 三体一気に倒した紅香はアクション映画の拳法のようにポーズをとって見せる。

 と、倒したと思っていた骸骨がゆっくり起き上がり、紅香の後ろに立つ。

「……ありゃ?」

 ポーズをとったまま固まった紅香に、骸骨が両手を振り上げる。

 が、それを静馬が片手で止めた。

「……あのねえ。いい気になってポーズをとるのはいいけど、ちゃんととどめは刺してからにしようね」

 ため息混じりに相手を押さえながら言う静馬に、紅香が赤面する。

「わ、わかってるよ! やっつけたと思ったんだもん!」

 改めて敵にとどめのパンチを食らわせながら、紅香が叫ぶ。

 さらに、踊り場より上の敵をギロリと睨む。

「うー、元はといえば、あんたらがこんなところでしかけてくるのが悪いッ

! ぶっとばしてやるー!」

「うわー、怪物相手にものすごい言いがかりだ」

 あきれるのを通り越して青ざめる静馬をよそに、紅香は再び駆け出した。

 だが……静馬から顔が見えなくなったところで、紅香の表情がふと物憂げに……決意を込めたように沈んだのは、もうそれも分からない怪物たちにしか、見えなかった。

「……もしも、その時が来たら……」

 そして、そのかすかなささやきが届いたのも。

「……私が……」

 そのささやきをかき消すように、紅香は、その炎を纏った右の拳を、怪物にたたきつけた。


 怪物たちを蹴散らしながら、紅香たちは屋上へと向かう階段にたどり着いていた。

「……この向こうに、神代郁真が……いるんだね」

 緊張した紅香の言葉に、雪乃もうなずく。

「……ええ、間違いないのです。あちらももう、隠す意味もないと考えているのでしょう。邪神のほかに、静馬さんとよく似た気配を感じるのです」

 この向こうに……邪神と、それを呼び出したものがいる。すなわち……この事件の、すべての元凶が。

「入る前に、もう一度、今回の作戦について確認しておくことを提案します。……作戦というのもおこがましいほど、単純なものですが」

 水葉がアンセムの方をちらりと見ながら、腕を組む。

「そうですね。……まず、それぞれの役割を確認するのです。まず……水葉とアンセムは、煉獄への扉を開く役。戦闘が始まると同時に術式を展開してください。できるだけ、早くお願いします」

「……承知」

「へいへい」

 雪乃の言葉に、水葉とアンセムが答える。

「紅香と静馬は、郁真をターゲットにしてください。おそらく、彼を倒さなければ邪神を煉獄に送り返すことは不可能なのです。静馬には酷な役目ですが……お願いするのです」

「大丈夫。むしろ……神代の血がこの事件を起こしたんだ。自分の血の尻拭いは、自分でするよ。……たとえ相手が、兄でも。いや……だからこそ、僕は自分で決着を着けたい」

 力強く、静馬が屋上へ通ずるドアに目をやった。

「ところで、雪ちゃんはどう動くの?」

「私は、邪神の動きを牽制するのです。郁真の指示か、あるいは邪神自身の意思で、私たちに攻撃を仕掛けてくると思うのです。私一人では邪神にダメージを与えることはできないと思いますが、攻撃を防ぐことくらいはできるはずなのです」

「……わかった。そっちはよろしくね」

 雪乃のまっすぐな瞳に、紅香がほほ笑む。

「それじゃ……それぞれの役割も確認したところで……行きましょっか!」

 紅香が、右手を皆の前に差し出す。それに、静馬、雪乃、アンセム……そして渋い顔の水葉と続いた。

「全員……誰一人欠けることなく、生きて帰るよっ!」

「おお!」

 その声を合図に、紅香たちは屋上へと突撃した。

 そこは、禍々しい空間だった。周囲の空気は赤黒く染まっており、まるで、血に墨を垂らしたかのようだ。その赤黒い空気の向こうに、それがいた。紅い鱗に、紅い瞳。頭には一本の巨大な角を持つ、竜。

 ――――邪神、パーガトリィ。

「……あれが……」

 思わず、紅香が息を飲む。静馬がその魂に宿し、自分がこの体に宿した、邪神。それは、これまで対した、何者よりも、圧倒的な威圧感を放っていた。

 そして、その元には。

「……来たか。想像していたよりも早かったな。まあ、どれだけ早くたどり着いたところで、お前らが地獄に堕ちることに変わりはないがな」

 目を、包帯でぐるぐる巻きにした青年の姿があった。薄汚れた、白い外套に身を包んだその姿は、どこか俗世から離れた隠者めいた空気を纏っている。薄くほほ笑むその様相は、その雰囲気とあいまって、そこの知れない不気味さをかもし出していた。

「神代……郁真……」

 その姿を、静馬がまっすぐに見据える。

「ふっ……お前が、静馬か。なるほど、たしかに神代の血を感じる。ひさしぶりだな、この吐き気すらもよおす、暗く、忌まわしい血の香りはなァ……っ!」

 歯ぎしりをしながら、腹の底から絞り出すように、郁真がうめいた。その声色には、あの地下牢で見た、過去の彼のように、その怨念が重く込められている。

「俺は、貴様らに……。いや、この世界に復讐をする。己の欲のみに固執し、そのためなら他者を利用することも厭わぬ世界に。この……邪神の力を以ってな」

「……あなたの過去を、見たよ。あの、神首村の屋敷で。だから……あなたが、この世界に絶望している気持ちは……少しは、わかるつもりだ。確かに、あなたが受けた仕打ちはひどいものだった。許されないことだったと、思う」

 静馬が、とうとうと言う。

「でも……だからといって、あなたがすべてを破壊していいという理由には、ならない。あなたはたしかに辛い思いをしたと思うけれど、だからといって、他の人に同じ気持ちを味あわせていいという理由にはならない」

 きっぱりと言い切った静馬に、しかし郁真はのどの奥から、くく、と小さな笑い声を漏らした。

「お前に理解してもらおうなどと、元より爪の先ほども考えてはいないさ。俺とお前は、理解しあうことなど、必要ないんだ。まったく、な」

 その言葉とともに、郁真はその懐から、ゆっくりと日本刀を取り出す。それを鞘に収めたまま、その柄に手をやり、腰だめに構える。

「……そうだね。今さら、言葉でわかりあえるはずが、ない」

 静馬がゆっくりと身構え、紅香が拳に炎をまとう。

「そうだ……それでいい。殺しあおうぜ、兄弟……ッ!」

 その刹那、郁真が駆けた。その走りは、早く、適確に紅香に向かって駆けてくる。とても、目が見えていないとは思えない。

 一瞬で紅香の元まで駆け寄った郁真は、目にも留まらぬ速さで刀を抜く。居合いの要領で、紅香の首を狙って斬撃を放つ。

「くっ!」

 その攻撃を止めたのは、紅香自身ではなく、静馬だった。

「……うそ。見えなかった」

 紅香の頬を、冷たい汗が一滴、流れていく。

 郁真は止められたと見るや、すばやく下がって間を取った。

「……ほう。よく止めたなァ、静馬。やはり同じ血が流れているだけのことはある。その才も近いものがありそうだ」

 にやり、と郁真の口が歪む。笑っているのだろうが、目が隠されているその姿では、どこか不気味なものに見えた。

「紅香、あいつは……やばい。邪神を封じているうちに、その力を自分のものにしてる。すべてではないけど……」

「あの居合いの速さは、それによるものってわけ?」

 紅香の疑問に、静馬がうなづく。

「ああ。紅香の場合が主に腕力や移動スピードが強化されたのに対し、あいつは抜刀の速度と鋭さが強化されてるみたいだ」

「でも今、静馬止められたじゃない。なんとかなるんじゃない?」

「簡単に言わないでくれ……。今は止められたけど、次も止められるとは限らない。そもそも、今のが本気かどうかも怪しい」

 紅香と同様に汗を流しながら、静馬が言う。確かに、笑む郁真の様子を見る限り、今のが全力だったとは思えない。

「なら、こうするしかないね」

「どうするのさ」

「こっちから、仕掛けるっ!」

 今度は、紅香が駆けた。

 が、それに合わせたように郁真も駆ける。

 間が詰まったところで、郁真が刀の柄に手をかけた。

 それを目にした紅香が反射的に横に動く。バスケのドリブルで相手を抜く要領で、半円状に郁真の後ろへ回る。その紅香がほんの一瞬前までいた場所を、剣閃が走った。

「くらえっ!」

 その背に向けて、紅香は右手を振りかぶる。

 だが、その拳が郁真に届くことはなかった。まるで背中に目があるかのような動きで、郁真は腰を落として紅香の攻撃をかわした。さらに振り返りながら、かがんだまま紅香の軸足を払う。

「くっ!」

 倒れこみながらも、紅香は反射的に両手をついてその衝撃を和らげる。そしてそのまま、片手を軸に地を転がった。それと同時に、紅香が倒れこんだ場所に刀が突き立てられる。

「はぁー、あっぶなっ」

「ほぉ……おもしろい女だな、お前」

 相変わらず歪んだ笑みを浮かべながら、郁真が紅香を見る。

「ただの女にしては、ずいぶんと邪神の力で再生された身体がなじんでるようじゃないか? その反応速度、邪神を宿して間もない人間のものとは思えんな」

「……お褒めの言葉、どうもありがとう。あんたにほめられてもぜんっぜん、うれしくないけどね」

 郁真の言葉に、紅香は睨みつける視線で答える。

 とは言うものの、静馬ではないが、このままではまずい。確かに、いつまでもかわせるものではない。今の攻撃はなんとかかわせたが、相手の動きを読んでかわしたわけではない。反射的に動いた結果、当たらずに済んだというほうが正しい。

そもそも、こちらから仕掛けてもうまく返されてしまったのだ。守ろうにも攻めようにも、やりにくいことこの上ない。

 ……どうすれば。

 思考をめぐらす紅香を、郁真は相変わらず笑みながら見ている。

「……どうした? かかってこないのなら……」

 ゆっくりと、郁真が刀を構える。

「こっちから、行くぞッ!」

 再び、郁真が駆けた。一瞬でその間を詰めると、またも居合いで紅香に斬りかかる。

 紅香は、初太刀を後ろへ下がって、何とかかわす。だが、反撃する暇もなく、二太刀目が紅香を襲う。

 だが、今度はその剣閃が見えた。上段から振り下ろしかけたその刃は、そのまま行けば紅香の左肩付近に振り下ろされる。恐らく、狙いは左胸だ。

 そう読んだ紅香は、右へ動いてその攻撃をかわす。見切ってかわした分、今度は攻勢に出る余裕がある。

「もらったっ!」

 だが、踏み込んだ刹那。

「――――つぅっ!?」

 紅香の脇腹を、激痛が走った。反射的にその源に目をやると――――決して多くはないが、服を血が紅く染めている。

 ――――斬られた?

「ふん。浅かったか……。運が悪かったな。深く決まっていれば、今のできれいさっぱり、あの世に逝けたのになァ?」

「くっ、こいつ……」

 刀に付いた返り血を振り払いながら笑う郁真に、紅香は鋭い視線を返す。そして、理解した。今のは、自分が彼の攻撃を見切ったのではない。郁真は、わざと紅香に見切れる速度で刀を振るったのだ。そして、あらかじめ、避けるであろう方向を予測していた。

 居合いの速度だけではない。この男、策略にも秀でている。攻めに回っても、守りに回っても相手が自分の一歩上を行くことに、紅香は焦り始めていた。

 しかし、この感覚。いつか感じたことがあるような気がする。だが、一体どこで?

「紅香、大丈夫か!?」

 こちらも焦りの表情を浮かべた静馬が、紅香に言う。

「うん、それほど深い傷じゃない。だいじょう……」

 そこまで言いかけて、紅香は気づいた。静馬の顔を見て、思い出した。この焦り――――静馬とのワン・オン・ワン……バスケのコート半分を使った、一対一の勝負をしてる時の、あの感覚だ。攻めでも守りでも、相手のほうが一歩上手で、なおかつ、こちらの動きを読まれているかのような、この感覚。

「どうした、紅香? 痛むのか?」

「……ううん。だいじょうぶ。静馬さ、私とワンオンしてたの、覚えてる?」

 唐突な紅香の言葉に、静馬は困惑の表情を浮かべる。

「覚えてるけど……それが今の状況と、何の関係が?」

「いつも静馬には負けっぱなしだったけど……一回だけ、完全に意表を突いた時があったよね」

 紅香のその言葉に、一瞬きょとんとした顔を見せた静馬だったが、すぐに思い至ったように、笑った。

「『あれ』か……。確かに、『あれ』なら読めない。……やってみる価値はあるな」

「……でしょ? んじゃ、準備よろしく」

 まるでとっておきのいたずらを考えついた子どものように、紅香が笑う。静馬は黙ってそれにうなづいて見せた。

「なにをごちゃごちゃ言ってる? 最期に思い出話でもしたくなったか?」

 挑発的な郁真の言葉に、しかし紅香は笑って見せる。

「んーん、むしろその逆。どうやってあんたに炎を叩き込んでやろうか、二人で相談してたの……よっ!」

 語気を強めた語尾とともに、紅香は駆け出す。まっすぐに、正面から郁真に向かって速度を上げて駆けていく。

「ふんっ、またそれか。なにをするつもりかと思えば……」

 あきれたような様子の郁真が、それに合わせて刀を構える。

「そんなに真っ二つがお好みの死に方なら、望みどおりにしてやる!」

 紅香が攻撃範囲内に入ったと見るや、郁真が刀の柄に手をかけた。

 ――――来る。

 その居合いが放たれるのを感じた紅香は、跳躍する。ただし、前ではなく、高く、後ろへ。

「――――なにっ!?」

郁真の剣閃が、ぎりぎり届かないところへ。

 フェイダウェイ・ジャンプシュート。バスケでの、相手のブロックを、後ろへのジャンプでかわしながらシュートを撃つテクニックだった。

 そして、右手を郁真に向ける。

「……静馬っ!」

「任せろ、準備はできてる!」

 紅香の右手に静馬が手を重ねる。次の瞬間、紅香の手のひらから、死人をなぎ払った時と同じ、火球が放たれた。

「いけええええええっ!」

 完全に刀を振り切った姿勢のままの郁真に、回避に転ずる手段はなかった。

「なん……だとッ!?」

 火球はそのまま郁真に直撃し……炸裂した。辺りの温度が一瞬上がったかと思われるほどの火柱が立ち、その只中にいた男の姿を包み込んだ。

「や……やった……!?」

 荒い息の紅香が、燃え上がる火柱を見上げて、息をつく。

 だが。

「いいや……まだ、さ……」

 その声が、響いた。ひどく静馬とよく似た、その声。その声の主は、ゆらり、と不気味な影のように、火柱の中から現れた。

「なかなかおもしろかったが……まだ、終わらんよ……」

 所々にやけどと焦げ跡を作りながらも、郁真はまだ立っていた。燃え落ちてしまったのか、彼の目を覆っていた包帯がなくなっている。代わりに、そこには白目のない、ただ闇が染み付いたかのような、暗く黒い瞳があった。

「……うそ……」

 その包帯の燃え落ちた郁真の顔を見、紅香が息を飲む。理由の一つは、あの技を受けてまだ立っていられることへの驚きのため。もう一つの理由は……。

「……同じ、顔……?」

 郁真の、静馬とまったく同じ、その顔だった。

 兄弟だということは、もちろんわかっていた。だが、その顔は似ているなどという次元ではなかった。一卵性双生児でも、ここまで似はしないだろうというほど、同じだった。違うのは、髪の長さと、白目のない瞳だけ。

 紅香のその様子に、郁真が意外そうな表情を作る。が、それはすぐに、皮肉めいた笑みに変わった。

「なんだ……お前たち、知らなかったのか……。く、くくく、こいつはいい……。通りで、迷いがないと思ったよ。そりゃそうだよ、知らなかったんだからなァ……? ハハ、アハハハハハハハハっ!」

 まったく静馬と同じ顔で、同じ声で、郁真は狂ったように笑う。

「どういう……ことだ。お前は……僕の兄、なんじゃ……ないのか……?」

 動揺し、息を詰まらせて静馬が言う。その声は、かすかに震えている。

「くくくく……。お前たち、あの村で、あれを見たんだろ? あのふざけた家計図。で、それをお人よしにも信じたわけだ。とんだ茶番だなァ、おい? その場にいてみたかったよ……くくくっくくく……」

 顔に手をやり、天を仰いで、郁真が芝居がかった口調で笑う。だがその笑いに含まれているのは、狂気だけではないように思えた。

「いいさ……本当のことを、教えてやる。俺はな……お前の兄なんかじゃない。俺がお前の兄だなんてのは、うちのジイ様が作り上げたでっちあげさ。だがな、兄ではないが、他人ではない。親でも、子でもない。もっと、もっと近しい存在だ。わかるか?」

 郁真の瞳が、細く歪む。

 静馬は、なにも答えない。ただ、険しい顔つきで郁真を見返すだけだ。

「俺たちの父親――――神代刹馬の息子は、一人だったんだよ。いや、一人で生まれてくるはずだった、と言うべきかな? だが、それでは邪神を宿すのには足りなかったんだ。力が、な。そこで……神代珀間は、生まれてくる子どもに、ある秘術をかけた」

 先ほどまでと一変し、郁真は淡々と、静かに語る。

「それは――――魂の陰と陽を、わける秘術。一人の人間の陰の部分を取り出し、もう一人の、独立した人間として、生み出す秘術」

「……ま、さか……」

 紅香が息を飲んで、静馬を見た。その顔は、険しく、そして、青ざめている。

「そうさ。そのまさかさ……。俺たちは兄弟なんかじゃない。元々、一人の人間として生まれて来るべきだったものの、陰と陽……」

 郁真が、壮絶な瞳で、静馬を見る。

「……つまり、静馬。俺とお前は、元々、同じ人間なのさ。同じ心を持っているはずの……な」


「水葉、煉獄の扉はまだ開かないのですか!?」

 雪乃が、パーガトリィの放つ炎を氷の壁で防ぎながら言う。

「もう少し……もう少しです、お姉さま」

「急いでください……なにか……なにか、おかしいのです」

 雪乃は、底の知れない不安に、焦りを感じていた。なにかがおかしい。だが、そのなにかがわからない。

 邪神の攻撃は考えていたよりも軽く、時折、炎を放つ程度で、消耗しているはずの雪乃でも、なんとか抑えきることができていた。それも、紅香たちには一切手を出さず、水葉の儀式を邪魔するように、こちらにばかり攻撃を仕掛けてくる。

 ――――そう。言うなれば、時間稼ぎをしているような。

「……時間を稼いでいるのはこちらのはずなのに……あの男、いったい……何を考えてるのです……?」

 だが、不吉な予感があっても、雪乃に考える余裕などない。全力ではないように見えるとは言え、相手は煉獄の邪神。気を抜く余裕はない。相手の狙いが水葉の儀式の邪魔ならば、なおさら、そうさせるわけにはいかない。

 ――――とにかく、扉さえ開いてしまえば、邪神は送り返すことができる。相手の狙いが何であれ、それができてしまえば、後の問題は郁真を倒すことだけだ。

それも、先ほどの火柱を見る限り、紅香たちは互角、もしくはそれ以上の戦いをしているようだ。

戦いは順調なはずだ。だが――――雪乃のその胸に落ちた一滴の不安の雫は、心の水面に、果てのない波紋を作っていた。


「同じ……人間」

 静馬が、その言葉を反芻するように繰り返す。

「そうだ。言うなれば、お前は、俺なんだよ。こうして邪神を蘇らせ、世界に復讐しようとしている、この俺となァ!」

 狂気に歪んだ顔で、郁真が自分の顔を指して見せる。

「そう……父親と俺たちで村から逃げ出そうとしたあの日……もしも一人、連れ戻されたのがお前のほうだったら、こうしているのは、お前のほうだったかもしれないんだぜ? わかるだろ? 知ってるぞ、お前がついこの間、ジイ様を化け物呼ばわりして、ぶっ倒したこともなァ!」

「それは……邪神をあの人が悪用しようとしていたから……ッ」

 郁真から目をそらし、吐き出すように言う静馬に、郁真は黒く淀んだ目を向ける。

「確かにそうだろうよ。だがな、もし俺でなく、お前があの地下牢に閉じ込められていたら、その正義感がいつまで続いた? 恨み辛みに変わることもなく」

「……………っ」

 そらした目を、静馬はもう一度、郁真に返すが、その口は歯噛みするだけで言葉が出てこない。

「ほらな。陰と陽という違いはあれ、結局、お前は俺と同じ人物なのさ。違ったのは立場だけだ。のうのうと逃げおおせたお前と、連れ戻された俺とでなァ!」

 その言葉に、静馬ががくりと膝をつく。

 確かに、そうだった。あの地下牢で、郁真の過去を見たときから、すでに静馬の頭の中には、疑念が渦巻いていた。

 ――――もしも、連れ戻されていたのが、自分だったら、と。

 ――――もしも、自分があの地下牢に幽閉されていた身だったら、このようなことをせずにいられたろうか、と。

 だからこそ、珀真と戦ったときも、自ら彼に引導を渡すことを望んだのだ。肉親だったものに、とどめを刺すことを。

 郁真の言う通りなのかもしれない。自分も、彼と同じ――――。

「あんた……馬鹿じゃないの?」

 ……だが。

 螺旋を巡って堕ちていく思考を、その凛とした声が切り裂いた。

 静馬が、顔を上げる。

 そこに立っているのは、火ノ宮紅香。昔、いじめっ子たちからかばってくれた時と同じ瞳で。『自分には近づかないほうがいい』と忠告したときに返してきた言葉で。

 彼女が、そこにいた。

「『もしも』? 『だったら』? 『かもしれない』? 実際には起きてないことをあげ連ねて、悪いのは自分だけじゃないみたいなこと言うなっ! 挙句の果てには『立場が違うだけ』? ふざけるのもいい加減にしろっ!! 確かに、あんたが厳しい環境で生きてきたことは私も見たよ。でもね、邪神を実際に復活させようとしてるのはあんただし、そうすることを決めたのもあんた自身なんだっ! それなのに、静馬を自分と同じだなんて、自分のやってることから目を背けてるだけでしょうがっ!!」

 郁真をびしっと指差し、紅香は嵐のように一気に言葉をぶつけた。

「なっ……わかったような口を……!」

 歯噛みしながら郁真が言葉を吐くが、その語気は少々、押されている。

「わかるよっ! どんなに辛いことがあったとしても、その辛さを回りにぶつけてぶっ壊すなんてことが、ましてやそれを立場の違いのせいにして、他人のせいにするなんて、まっすぐじゃない、筋の通らないことだってくらい、わかるよっ!」

「……ふふ、ふふふふ、あはははははっ」

 気がつけば、静馬は笑っていた。

「……ふう。まいったな。最後の決戦のはずが、これじゃただの口げんかじゃないか」

 そして、ゆっくりと立ち上がり、郁真を見返す。

「――――確かに、僕がお前の代わりにあの地下牢に囚われていたらどうなっていたか……、わからない。お前の言うとおり、邪神を復活させようとしていたかもしれない。でも……」

 その瞳は、これまでにない強い光を放っている。

「実際、ここにいて、邪神を復活させようとしているのは、神代郁真。お前だ。……そして、もう一人の、僕。だからこそ――――」

 静馬が駆け出す。その腕には、紅香のそれよりも遥かに強大な炎が宿っている。それは、静馬自身すらも飲み込んでしまいそうなほどの、巨大な炎。

「僕が……僕自身が、お前を……止めて見せるッ!」

「馬鹿な、お前、それだけ邪神の力を解放して、なぜ――――っ!?」

 その炎が、神代静馬と、神代郁真。一人の人間として生まれるはずだった魂を、包み込んだ。

「ぐああああああああああッ!!」

 その絶叫は、静馬のものだったのか、郁真のものだったのか、静馬自身にもわからなかった。


「――――静馬っ!!」

 紅香は、炎の中を、その熱さもかまわず駆けぬける。

 やがて、その中心に倒れている静馬と、体中にやけどを負っている郁真の姿を見つけた。どちらも、ぴくりとも動かない。

「静馬……静馬ぁっ!!」

 涙を振りほどくようにして、紅香が静馬に駆け寄る。あわてて抱き起こそうとするが、彼の体に触れることすらできないのを、今さら思い出す。

「静馬……だめっ! 死んだらだめっ! そんなの、許さないんだから!」

 涙が再び彼女の頬から、静馬の頬へと落ちた。触れ合えないはずのそれが、静馬の顔を濡らしたように見えた。

「……………っ」

 それが合図であったかのように、静馬が、ゆっくりとその瞳を開く。

「……死なない、よ。ていうか、もう死んでるんだから……これ以上、死ねない、って……。ただ、ちょっと、疲れた、かな……」

「……ばか!」

 それ以上の言葉が出ず、紅香が泣き崩れる。

 ゆっくりと起き上がりながら、静馬は優しく紅香の頭を撫でた。

「……紅香! 静馬! どこにいるのですか!」

 突然、辺りに声が響き渡った。……雪乃だ。

「雪ちゃん! こっちこっち!」

 あわてて涙を拭うと、紅香は声のしたほうに向かって怒鳴り返す。

 すぐに、炎の合間から雪乃が顔を出した。

「よかった……ものすごい炎だったから、心配したのです。よかった……」

「それより、雪乃が来たってことは……」

 安堵した様子の雪乃に、静馬が立ち上がりながら言う。

「はい。煉獄の扉が開くのです。早くここを離れましょう」

 雪乃の言葉に、紅香と静馬がうなずく。体を引きずるようにしながらも、それぞれが炎の中から脱出しようとした、その時――――。

「……く、くくくくくくくっ……」

 不吉な笑い声が、背後から聞こえた。

 反射的に振り返った紅香の目に、ゆらゆらと陽炎のように立ち上がる、神代郁真の姿が映った。

 さらにその背後――――コンクリートの床が、徐々に紫色に染まっていく。まるで布に落ちた染みのように、それは円周状に広がっていく。

「そうか……煉獄の扉が、開くか……」

 とても、立っていられるようには見えないやけどの郁真が、しわがれた声でうめく。

「……そうなのです。これで、邪神も煉獄へ送り返すことができるのです」

 冷たく響く雪乃の声に、しかし郁真はまたも、くく、と笑い声を漏らした。

「……それは、逆だ。邪神は、煉獄へは帰れなくなる。これで、邪神は、完全、復活、する……んだ……」

「……どういうこと!?」

 問い詰める紅香に、視線を返すことなく、郁真は大きく腕を広げた。

「こういう……こと、さ……」

 そして、崩れ落ちるように、背後の――――もはや紫色の沼のようになっている、煉獄の入り口の中へ、倒れこんだ。その身体が、ずぶずぶと、底なし沼に入ったように、沈んでいく。

「煉獄の入り口を……俺、が、自ら……中から、閉じる。二度と、開くことの……ない、ようにな……」

「……なっ!? あなたまさか、初めからそのつもりで……っ」

 狼狽した様子で、雪乃が叫ぶ。体全体が、半ば沈みかけた郁真が、ぎょろりと、視線だけを雪乃に向けた。

「そうさ……邪神を封ずるには、煉獄へ送り返すか、神代のような特殊な血を持つ人間の肉体に封印するしかない……だが、煉獄の扉を完全に閉じてしまえば、送り返す術はもう、ない」

 郁真のその言葉に、紅香が息を飲む。

「しかし、邪神を封ずることができる神代の人間で、その肉体を持つものはここにはいない……つまり、こいつを封じること……は……もう……くくくくく、アハハハハハハハッ……」

 高笑いを残して、神代郁真の身体は、煉獄の底なし沼へと飲まれていった。

 その刹那。まるで沼のように大きく広がっていた煉獄への門は、一瞬にして閉じられた。

「……そん、な。どうすれば……」

 がくり、と雪乃が座り込む。

「これで……邪神を再封印するのは……不可能に……」

「……いや」

 絶望という言葉を背負った雪乃の声を、紅香が断ち切った。

「こいつを封印する方法なら……ひとつだけ、あるよ」

「……紅香?」

 呼びかける静馬に、紅香がゆっくりと振り返る。

「……お願い。静馬、雪ちゃん。最後に、私に……ちょっと、力を貸して」

 紅香のその言葉に、静馬が驚愕に目を見開く。

「紅香……まさか! まさか、君は……!」

「お願い。私の身体に……邪神を、封印して」


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