第五十五話 対峙
水泳を始めたきっかけは、親父から勧められてだった。まだ三歳だった俺は、よくわからずに同意した……と思う。さすがにそんな昔の頃の気持ちはよくわからない。とにかく地元のスイミングスクールに通うことになった。
そこに雪江がやってきたのは、数か月後のこと。幼稚園が一緒で母親同士が仲がよく、そのよしみであいつも通うことになったらしい。
それからスクールにはいつも一緒に行った。うちか向こうの親が車で送り迎えしてくれたから、その方が都合がよかったからだが。その時の話の内容なんて覚えてないけれど、いがみ合ってなかったことだけは確かだ。
そうして俺たちは、小学校卒業までそこに通い続けた。今にして思えば、俺は泳ぐのが好きだったのかもしれない。あの頃は辞める、という選択肢をただ思いつかなかったから惰性でやってたわけだけど。
周りのやつらよりも速かったことに満足してたのもあったかも。それは逆に、大会とかにもあんまり出なかったから、自分の実力に対する正しい認識ができていなかったともいえるが。
水泳もそうだが、小学校の俺はいわゆるできる方のやつだった。運動も勉強も。友達は大勢いたし、クラス委員なんかやって、中心人物の一人だった。……それはがむしゃらに毎日やってきたことの結果で、そうなりたいとは意識したことは一度もなかった。
だが結局はそれも一小学校――それもほんの百人にも満たない子どもたちの中での事実に過ぎない。別に特別なことじゃない。今ならそれがよくわかる。
中学生になってすぐのころから、雲行きが怪しくなる。お迎えテスト……初めて勉強において順位、というものを目にした。十番台だったかな。ちゃんとは覚えていない。はっきりしているのは、トップが剛だったことだけ。
俺とあいつは小学校一年で同じクラスになり、家が近いこともあってかなり仲良くしていた。――親友、そう呼べる存在かもしれない。そんな身近な奴が初のテストで一番を取った、という事実に少なからず動揺していた。
俺の通う中学には三つの小学校の出身者が混じっていた。すると、俺は段々と埋もれた存在になっていく。取り立てて、ずば抜けた何かを持っていたわけではないから。見た目のかっこよさ、面白さ、運動能力、賢さ……まあ一目置かれるパラメータはまだあるだろうけれど。俺はどれも平均的だった。
まあそれでも新しい友達も作り、そんな環境には次第に慣れていった。元々積極的に目立ったり、リーダーシップを取るのが好きだったわけじゃない。小さいグループの中で上手くやっていく。そういう点で小学校の時と変わったことは何もなかった。
部活は当然のように水泳部を選んだ。まだ泳ぎには自信があったし。そしてそこで学と出会った。あいつは本当にいい奴だ。ユニークで、いつもポジティブで、優しくて。俺と学はすぐに友人になった。水泳部で一番仲がいい奴と言っても過言じゃない。
それから勉強と水泳に追われる毎日が続いた。でも特に何の不満もなく、俺は日常を送っていた。本当はいくつか些細な綻びがいっぱいあった気がするけれど、そんなこと気づいてなかった。やがてくる挫折のことなんて、全く頭になった。
さて、初めての定期テスト。教師の脅しを真に受けて、俺はかなり勉強した。その結果は、学年五位だった。そして忘れもしない。剛は五教科満点。俺にはどんなにやっても絶対無理だ。直感的にそう思った。結果、勉強に対するモチベは下がる。
さらにもう一つ――
「俺、部活辞めるよ」
「は!? な、なんで、どうしてさ?」
事実を告げた時、友人はとても動揺していた。
「……全てがめんどくさくなった」
夏休み、お盆前だった。部内の記録会があった。それまでにも何度かタイムは計測していたけど、俺は同じ学年の中でも上の方だった、と思う。その時まで気にしたことがないからわからなかったけど。
しかし、あの時は違った。隣を泳ぐのが学で。泳いでいる最中にぐんぐんと差がつけられていくことが分かった。タイム差は悲惨。向こうは部内の誰よりも速かった。
その時にようやく俺は理解した。
だって、あいつらは絶対的な努力もしていたから。それも知っていた。才能と努力が合わさって、俺の親友たちのように素晴らしい業績が生まれる。それは俺では無理なことだ。
それでも二人から離れなかったのは、妬みがなかったから。単純に、あいつらのこの先が知りたいと思った。ある種の敬意を胸に抱いた。……まあそうなる前にかなりの喧嘩をしたんだけど。
肝心の水泳部の方だが、休み明けには退部届を出した。雪江に詰め寄られたのはその次の日のことだった。クラスが違うから、わざわざ放課後に俺の教室までやってきて。
うだるような昼間の暑さがようやく和らいで、俺たちはひっそりとした廊下で向かい合っていた。
「どうして部活辞めちゃうの、幸人?」
彼女はとても心配そうな顔をしていた。
「……飽きたからだよ」
「飽きたって、あんなに楽しそうにしてたじゃない!」
「別にいいだろ。俺がどうしたって、お前には関係ない。赤の他人だろ?」
「そんな言い方……」
「気付いたんだよ。俺には才能ないって。それなのに、今まで通り努力するの馬鹿らしいじゃん」
それが決別の言葉となった。以降、ほんの三週間前まであいつと俺は一切言葉を交わすことは無くなった。その時の雪江の顔は今でもよく覚えている。今にも泣き出しそうなくらいに顔を歪めて、その肩を震わせていた。
彼女に背を向けながら歩いていた時に、あることを決意した。普通に過ごそう、と。過度に頑張っても報われない。自分自身を低く見積もって、慎ましく生きていく。
*
「――それなのに、どうしてここ二日、よく絡んでくるんだ?」
放課後、掃除が終わった後。昨日のメンツが自然と集まり、勉強会を始めようとしたところ、こうして雪江に呼び出された。人目につかない場所――わざわざ一階の水飲み場まで降りてきた。
まるであの時みたいだな。違うのは、目の前にいる少女がこの期に及んでなお無表情のままで、何考えてるのかわからない、ということだけ。
昼休み、明城たちに昔の話をしたばかりだから、余計に勘ぐってちょっと緊張してしまう。向こうはそんなこと知るはずないのに。
明城と吉永には悪いことをしたと思う。つまらない話だった。よくある話。訊き終えた後、あの二人は微妙な表情をしていた。剛たちはすでに知ってるので、今さらどうということ反応はなかったけれど。
「最近の貴方の姿がとても滑稽に見えたからよ」
「喧嘩売ってるのか?」
「そのまんまの意味だけど。あなたが言ったんでしょ、努力なんてしても無駄だ、って。でも最近はテスト勉強に精を出してる」
「ああ言ったさ。でも人間、考え方を変えることもあるだろう?」
「そうね。そうかもしれない。人間、好きな人ができたら変わる、って言うものね?」
俺を前にした雪江にしては珍しくその表情が少し変わった。口元に薄い笑みをたたえ、挑発するようにこちらを細めで見上げてくる。
「どういう意味だよ」
「だからそのまんまだって。わたしは直情的なの。言葉に一々変な意味を持たせたりしない」
「俺が明城のことが好きだから頑張ってるって、言いたいのか」
「ご名答。認められたいんでしょ、彼女に」
雪江の瞳が大きく見開いた気がした。
ぴたりと自分の考えを言い当てられて俺は言葉を失った。それは相手が他でもないこいつだったから。三年以上絶縁状態だったのに、どうしてそんな見透かされているのか。
「あの子が見ているのはあなたじゃないあなただものね。本気じゃない頃はそれでもよかったんだろうけど、本気になってしまえば、それ以上に虚しいことはない」
そう。俺が明城のことを知れば知るほど、いや惹かれていくほど、前世の俺という存在は重くのしかかる。その苦しさを和らげようとした、というのは事実だ。
人間的に何か優れたところがあれば、あいつも俺自身のことを視界に入れる――好きになってくれると信じて。そうでもしないと、あの無償の好意に気が狂いそうになると思った。
「昨日彼女に訊いたわ。『もし幸人があなたの前世の恋人じゃなかったらどうする』って? そしたら彼女は――」
「聞きたくない!」
つい俺は叫んでしまっていた。それは反射のようなものだった。その続きを耳にしたら、きっと俺は立ち上がれなくなる。
答えの予想はついていた。だが、それは俺があえて考えないようにしていることでもあった。それは自分と彼女の関係の前提にあるもので――ふと脳裏に、あいつが男子を冷たくあしらう姿が浮かぶ。
「必死ね。そんなに好きなんだ、彼女のこと。だからこそ、自分が彼女に好かれることはない、って一番あなたが自覚してるものね」
「……そうだよ。俺は、顔も頭も運動神経も、性格だってよくない。金持ちでもない」
彼女が俺を好きなのは、前世というアドバンテージを貰っているだけだ。自分にもどうしようもできない点で言えば、特別な才能ともいえる。
皮肉な話だ。自分には何の才能もないと思ったら、そんな立派な人物の生まれ変わりだったとは。……今でも完全に信じているわけではないけれど。
だからこそ、それに類するものを探していた。結果いきついた答えが、自分自身を磨き上げることだった。彼女に相応しい人間になりたいと思った。あいつの好意を真正面から受け止めたかった。
「でもさ、それってとっても疲れない?」
「好きな人のために努力するっていうのは、普通のことだろ。よくある話だ」
「だから、自分は大丈夫だって? それは本当に相手のことを好きな場合に限るわよ」
ふん、と雪江は鼻を鳴らした。そして、どこか小ばかにするような表情で首を左右に振る。わかってない、みたいな反応だ。深い呆れが伝わってくる。
「……何が直情的だ。十分回りくどいじゃないか」
「――じゃあ、端的に言うわ。わたしが幸人のこと好きだ、って言ったらどうする?」
雪江の瞳が妖しげに光った。口角が微かに上がっている。こちらを見つめる姿はどこか悪戯っぽく、しかしそれでいて、とても真剣なように見えた。
そのどこか異様な雰囲気に、俺はただただ当惑するばかりだった――
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