2-1
荒れた一室の中を探索しているライオコブラは、思わずため息をついた。
「本当に食えそうなもんは根こそぎってか」
おそらく、机の上にあったであろう、床に散らばる壊れた水槽。破片の中にあるのは水の蒸発した跡と壊れたガラスとミニ水車、それと中にいた観賞魚や水草の食い残しだけだった。
人間の消化能力では厳しい生き物まで、食欲のままに喰らっている。もしかして食人鬼は、頭だけでなく消化器もおかしくなっているのだろうか。
今、ライオコブラが一番不安なのは、この衝動が伝染するのかだ。
なにしろ、食人鬼たちの衝動がウイルス由来なのか、それとも突然変異か、はたまた古代の呪いなのか。ぜんぜんわかっていない。
正直なところ、理由はどうでもいいが、対策を取らないまま、大切な血液袋がクソ不味い食人鬼になっても困る。それにクロスたちも頭がおかしくなっている以上、もし感染るものだった場合、ライオコブラとて他人事ではない。
放っていた右手のコブラが、テーブルの影ににあった気になるものをくわえて戻ってきた。
「ゾンビや吸血鬼とは違って、噛みつかれて感染る……ってえのは、どうなんだろうな。なにせ噛みつかれたら、そのまんまコレだもんなあー」
思わず、ライオコブラは苦笑する。
噛みつかれたら、傷つけられたら感染る。このいわば不死者のルールは、食人鬼には通用しまい。
なにせ、貪欲たる彼らには、食べ残すということがないのだから。
肉の欠片一つついてないかわりに、歯型がたくさんついた頭蓋骨を、ライオコブラは机の上に置いた。
◇
春菜はサバの味噌煮を開ける。白味噌の柔らかな香りと味が、ささくれがちな気持ちを落ち着かせてくれる。ご飯が欲しかったが、今、手元にあるのは缶詰入りのパンだけである。
パンとサバミソを口にし、空を仰ぐ。こうして腰掛けているリヤカーも、だいぶボロくなってきた。ここに来るまで、ずいぶんと荒く扱ってきた。
車もかくやの速度で走り、襲撃してくる食人鬼たちにしがみつかれ、時には直接リヤカーでぶん殴って。むしろ、あれだけの酷使で壊れなかっただけ、マシである。
気づけば、ずいぶんと山の方に来た。元々人口が少ないせいか、出てくる食人鬼の数も減っている。
実に平穏だ。少しだけ湿った風を浴びながら、春菜はそう思っていた。
理由の一つは、今、得意げにプレハブの事務所から出てきた怪人のおかげだろう。
「おーい、見つけたぜ。事務所の中がごちゃごちゃで、探すの大変だったけどよ」
プレハブでできた建設会社の事務所の中から出てきたライオコブラ。
右手のコブラが、手を振るかのように大きく動いている。
春菜は、呆れたように口を開く。
「呼んでくれれば、私も探すの手伝ったのに」
「おいおい、お前、メシの最中だっただろうが。今のお前にとって大事な仕事は、ちゃんと栄養を取って、血を美味くすることだ」
事務所から取ってきた目的の物、紙の束を春菜に渡しつつ、ライオコブラはこう答えた。
血液袋。ライオコブラに自分の血を与えるのが、今の春菜の役目である。
人権なき、下僕に近い境遇……だとは思う。そう言い切れないのは、ライオコブラの手厚い保護のせいだ。
ショッピングモールからここに至るまで、ライオコブラはリヤカーを引っ張り、食人鬼たちをなぎ倒し、更には缶詰まで調達してきてくれた。
おそらく、現状血をもらえる相手が春菜しかいないからこその手厚さなのだろうが、ここまで至れり尽くせりだと、血を与えることがむしろ軽く思えてきてしまう。
だからこそ、この程度の雑用は仕方ないだろう。これぐらいせねば、借りは返せない。
春菜は受け取った紙の束、この辺りの地図を一気にリヤカーの上に広げる。
目的はなくとも、周囲の地形を詳しく知らなければ食料調達もままならない。建築事務所ならば、細かい地図もあるだろう。事務所に寄ったのは、ライオコブラの発案であった。
「やっぱ、人間の手ってやつは器用だな。爪や蛇じゃ、紙をめくるなんて無理だからな」
ライオコブラは、左手の爪と右手のコブラを揺らし、高らかに笑った。
春菜は、じっと地図を確認する。まだ土地勘のある場所にいるはずなのに、紙の地図で見る近所は、まったく知らない場所に思えた。
「まだかよ。あんまのんびりしてると、日が暮れちまうぜ」
右手の蛇を遊ばせながら、ぼけーっとしているライオコブラ。自分の苦手なことは戦闘員もとい他人に全部任せる、亭主関白ならぬ怪人関白である。
「紙の地図なんて久々で……電波がつながれば、スマホですむのに」
春菜はバッテリー切れで動かぬスマホを取り出し、ため息をつく。
動かすための電気はどうにかできても、電波がなければ役立たずである。電波は既に、ショッピングモールにこもり始めて数日で途絶えていた。ひょっとしたら、まだ電気が生きている地域もあるのかもしれないが、いちいち調べてはいられない。
スマホで地名を検索すれば、勝手に地図も航空写真もオススメの店の情報も教えてくれる。きっとこれは、ものすごく便利なことだったのだろう。
大切さとは、無くなってから気づくものなのだ。
「スマホ? そんな薄い板みたいなので、何ができるんだ」
「えーっと、インターネット……は説明が面倒かな。世界中の人と電話ができて、いろいろな情報が集められて、たとえば地図も近所から世界地図まで、簡単に見られるんだ」
春菜は、昭和生まれ昭和育ちのライオコブラにわかるよう、慎重に言葉を選んでスマホの説明をした。
「マジかよ! ちょっと貸してくれ!」
驚き、寄ってくるライオコブラ。
「あいにく、これは人間用だから」
春菜はさっとスマホをポケットに戻した。
見える、コブラの毒液混じりの唾液でベトベトなスマホが。
見える、爪でタップされ、粉々に砕け散ったスマホが。
この悲しい予知を、実現するわけにはいかない。
地図に再び目を通した春菜はついに目的の場所周辺の地図を見つけ、改めてライオコブラに尋ねた。
「それで、山に行きたいってどういうこと?」
当て所なく、ショッピングモールから出た直後、ライオコブラが口にした行き先は観光地としても有名な東京郊外の山、その名も鷹頭山であった。
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