まつとしきかば
一宮 オウカ
【壱】
天正三年に父が死んだ。
父の死により、しをりの行く末は定められた。
父の名と血を継ぐ事が、己が生きている意味なのだと。
*
物心付く前に父を亡くしたしをりは、その後、家督を継いだ叔父に引き取られた。
母の貌も知らない。
主家の滅亡により、真田家は敵であった織田家の膝下に屈する事になったものの、本能寺の変で更に真田家は別の道を辿る。
従兄の一人が上杉家へ人質として送られたのはこの頃だった。
去っていく『兄』を泣きながら追いかけていこうとしたしをりを止めたのは、今一人の従兄で、何時まで経っても泣き止まないしをりの頭を優しく撫で続けてくれた。
「大丈夫。源二郎の事は心配しなくてもいいんだ。彼奴は強い奴だから、何処へ行こうがやっていける」
「でも……お兄様一人だけ可哀想。質なら、しをりが行くのに。どうして父上様はしをりを行かせてくれないの」
「しをり」
長兄であり叔父の嫡男として既に認められていた源三郎は、その頃、既に二十歳になっていたが、叔父や次兄と違って普段は穏やかで優しい、物静かな青年だった。
「そういう訳にはいかないよ。……しをりがいないと真田の家は潰れてしまう」
不思議な事を言うとその際は思っただけだったが、叔父や従兄にしてみれば、父の血筋こそを真田の正嫡として守りたいという思いが強かったのだろう。
実際、それから程なくしてー兄源三郎信幸が徳川との戦に出陣する前にーしをりは源三郎と祝言を挙げて、従兄の妻となった。
叔父であり舅となったひとの存念は分からなかったが、少なくとも夫は当時、死を覚悟していたのではないか、と思う。
父も又徳川、織田両軍との戦いで命を落としたのだとは、叔父や祖母から何度も言い聞かされて育ったから、しをりも叔父や兄兼夫の存念は充分承知していたが、主家や父の仇を討つより、舅や夫、家の子郎党等が無事戻って来る事こそがしをりの望みであり、日夜亡き父母に向かって祈り続けていた日々であった。
故に。
父や夫にとっては不本意であったのかもしれないが、実質的に天下を統一し、朝廷からも豊臣という姓を下賜された羽柴秀吉を頼り、真田家が本領安堵を果たした事、皆が無事生きて、しをりや祖母、姑の元へ戻って来た事が嬉しかった。
更に嬉しかったのは、源二郎が上田に戻って来た事だ。
再び故郷を離れて上方へ行かねばならないとは聞いていたが、それでも幼い頃から共に育った従兄の帰国は、しをりにとって余りに変化し揺さぶられ続けている真田家が僅かでも元に戻るような、そんな錯覚を覚えさせたのだ。
「ご無事でようございました。お兄様」
夫の許しを得て、久し振りに城下を案内するという理由で、源二郎と連れ立って外へ出る。
幼い頃から、嫡男としての務めに忙しかった源三郎よりも、源二郎の方が良くしをりの面倒を見てくれた為、共に寄り添って歩くだけで懐かしく楽しい。
源二郎はだが何処か暗く沈んだ笑みでしをりを見下ろした。
「お兄様は止めよ。今ではそなたが俺の姉上なのだぞ」
「あら」
「いや。俺も姉上に対してこのような口を聞いてはならぬなぁ」
従兄の声音に、以前は無かった冷ややかさを感じ取りはしたものの、しをりは気にせず笑みを返す。
他家ではきっと肩身の狭い、辛い思いをしたに違いない。
本来ならば己こそが質として取られねばならなかったのに、としをりは思い、改めて源二郎に対して済まないという気持ち、同情だけでなく感謝に近い思いを抱いた。
「次は源二郎様の番ですね。良いお嫁様をもらって、御子を作って、真田の御家を盛り立てていかねば」
「それを言うなら兄上としをり、いや姉上の方が先だ。日々励んで早く俺に甥っ子の顔を見せてくれ」
互いに擽ったい会話は早々に切り上げた。
源二郎への餞別にとしをりは幾つか反物を選び、更に夫や舅、姑にも手持ちの金子で見立てられないものかと熱心に市の露天を目を皿のようにして眺めていたが。
(あら)
退屈そうに己の背後に佇んでいた源二郎が、何時の間にか向かいの店で熱心に何かに見入っていると気が付いた。
こっそりと近付いていっても覚らない程、源二郎は品物選びに熱中していたらしい。
源二郎が眼前に二つ並べて睨んでいる櫛をしをりは眺め、この従兄でもこのような面があるのだと少し楽しくなった。
「こちらの方が良うございます」
「え」
決めかねているというより寧ろ途方に暮れているらしいと感じ、見かねてしをりは、飾りは少ないかもしれないがより丁寧な造りの方を指差した。
「あ、い、いや、しをり、俺は別にこのようなモノはっ」
「櫛は飾りではありませんもの。見かけだけでなく使い心地も考えて選んだ方が良いです」
滅多に無く動揺している従兄の代わりに、店主に選んだ櫛を包むよう命じた。
「しをり、いや、姉上、誤解するなよ。俺はこのようなモノ欲しい訳ではないのだ」
「ええ、そうでしょうとも。……でもきっと喜んでくれると思います」
「……」
笑顔で返してやると、源二郎はむっつりと黙り込んだ。
だがすぐに、それこそ兄妹として育った気安さ心やすさ故なのだろう、少し気弱そうな目をして聞いてきた。
「……本当に、喜ぶと思うか?このような安物で」
「無論ですわ!お兄様、いえ、源二郎様は女心をお分かりでない」
しをりは大真面目な顔を繕って言ってやる。
「図体のでかい武骨で野暮な殿御が、態々己の為に選んで贖って下さった贈り物を喜ばぬ女などおりませぬ」
「……武骨で野暮」
「ええ、そうでございます。でも其処が、源二郎様の良いところですわ」
面白く無さ気に呟くのにも、しをりは努めて明るく続けた。
「でも良かった。やはりそういう御方がおられるのですね、源二郎様には。何なら、御父上にお願いして、縁組を調えておいた方が宜しいのでは?……場合によっては奥方様もご一緒に」
「いや。そういう訳にはいかぬのだ」
「でも……一端羽柴様に臣従しては、不都合も生じるかもしれません」
武田家でもそうだったが、主君という者は己の都合が良いように臣下達を動かしたり結びつけたりする。
武家の人間である以上、思う相手と夫婦になれる、などという幸運は稀、いや殆ど無いと言って良いだろう。
しをり自身も、特に夫と恋仲であった訳ではない。
ただ己の場合は、見知らぬ相手ではなく、共に育ち互いの性格も呑み込んでおり親しみも持っている従兄との婚姻であったから、充分以上に幸せだと思っていたが。
(でも……お兄様は一途な方だから)
源二郎が舅や夫と異なり、未だ滅んだ主家に心を残している事をしをりは感じ取っている。
今の世ー織田家に続いて、その配下であった羽柴家が日の本を統一、支配しようとしているーは、源二郎にとって面白くない、忌々しくすら感じるもの、なのだろう。
思い人と一緒になる事で、少しでも従兄の世に対する不満憤懣が収まれば良い、としをりは思った。
「先ずは手柄を立てねば。全て、それから後の話だ」
「……」
「羽柴に仕える以上、出世せねば」
己に言い聞かせるように繰り返す源二郎が、やはり思い詰めた目付きをしているのを認め、しをりはこっそりと嘆息を吐いた。
「でも、出世より大切な事があると、お忘れにならないで」
「……ああ。分かってる」
源二郎が恥ずかしそうに、だが確かに嬉しそうに笑った顔がしをりの脳裏に焼き付いた。
以後、二度と見る事が無かった従兄の表情だった。
*
家族及び家中の者達との和やかで幸せな生活、というものは長くは続かなかった。
天正十八年に又も夫が、今度は徳川方の武将として戦へと出向いたのだ。
舅は不機嫌であったが、しをりは笑顔を心掛けて夫を送り出した。
しをり自身、徳川家に対して良い感情は抱いていないが、しかし徳川家の重臣達が夫を気に入り、何かと引き立ててくれているとは夫から聞いて知っている。
巨大な勢力に取り囲まれた小国の領主が生き残るには、強い者に靡く必要があるのだとは、舅が口惜しそうに何度も繰り返さなくともしをりも察していた。
(早くお戻りになられれば良い)
父の位牌に祈るのが夫と郎党等の無事であるのは、変わらない。
怖れた程に戦は長引かず、しかも夫は上野松井田城攻めで功を挙げ、大いに真田家の名を高らしめたと聞いた。
誇らしくも嬉しい事と、しをりは舅や姑、祖母等と喜び合った。
後は、皆が無事帰り、更には義弟の源二郎も望み通り手柄を挙げ身を立てる事が適えば言うことはない。
だが待ち望む夫の帰国よりも、与力として従う徳川家からの使者の方が先に上田に到着した。
徳川嫌いの舅は面白くなさそうではあるが、礼儀と武家の倣いー及び韜晦ーは充分に備えたひとである。
丁重に奥座敷へと使者を通し、人払いなどもさせていた為、しをりが茶を運びに行ったのだが。
「馬鹿な!左様な事、承伏出来る筈もない!」
珍しく声を荒げたー動揺しているらしいー舅に、しをりは慌てて、座敷へ急いだ。
舅が迂闊な振る舞いをする筈がないが、しかし万が一にも徳川家と事を構える事になってしまえば、夫や弟達の身は風前の灯火状態になってしまうだろう。
「失礼致しまする。お茶をお持ちしました」
口では何と言おうが、母や内室、しをりにも優しい舅だ。
おなごの顔を見るあるいは気配を感じれば、気色を和らげると承知しての幾分図々しい真似だった。
「姫。そなたは奥に控えておられよ」
だが舅は固いーしかも、しをりが嫁ぐ前のような、主筋である兄の娘に対するー口調で制してくるのに、しをりは目を丸くした。
思わず、使者の方へと目線を動かし、使者も又己を見ていると気付いて慌てて退く。
(何だろう。何か……私に関わる事?)
不安を覚えながら、しをりは舅の誡めに従って部屋へ戻った。
(まさか旦那様の身に何か?)
使者が城を出て行った後も舅は何も言わなかった。
しをりが問い糾そうとしても、「そなたは何も案ぜずとも良い」という一言で黙らされ、又、しをりも幼い頃より世話になっている舅を困らせたり、逆らう事など出来ない。
明らかに不機嫌で無愛想になっている舅とそれに比例して早い冬に向けて暗く憂鬱な空気が流れる城中に風穴を開けたのは、前触れ無く帰国した源二郎であった。
相変わらず源二郎は飄々としているが、何故か昔から家人等や小者達には人気がある。
源二郎の為に膳を用意しながら、どうやら義弟のお陰で舅の機嫌も少しだけ上向いたようだとしをりは安堵した。
だが一族揃っての夕餉の席で、しをりは己の見立てが間違っていた事に気付かされる。
盃を空ける間もなく、突然舅と義弟が口論を始めたのだ。
それが余りにも唐突でーしかも、同席する者達には理由など皆目見当が付かないものであるだけに、どうする事も出来ず皆、おろおろと当主と当主の次男の諍いを見守るだけだ。
「父上迄もが認めたのですか?!今迄の父上の御言葉は全て偽りだったのですか!何れは必ず我等の無念を晴らすと、伯父上や殿の仇を討つと仰せだったではないですか?!その為の隠忍自重ではなかったのか?!」
「煩い!儂だとて認めてなどおらぬわ!其の方の如き青二才に何が分かる!」
「ええ、分かりませぬ!私だけで充分でしょうに!これ以上の何が必要なのです?!」
「阿呆が!甘ったれた事を申すな!」
初めて聞く舅の怒声に姑が怯えた貌をしたのに気付いてしをりは慌てて姑の元へ行き、育ちが良い分おっとりと世間知らずな所がある姑の手を取った。
「其の方、小田原の武功の代わりにおなごを欲しがったそうではないか!恥ずかしいとは思わぬのか!武将たる者、城や国を所望するならまだしも、おなごなど、しかもあの成り上がり者の羽柴筑前如きに頭を下げるとは!」
「成り上がりだろうが、今は天下を治める関白殿下です!口が過ぎますぞ、父上!」
源二郎は強く父親を睨み付けた。
真田家の兄弟達が父親を尊敬しー怖れてすらいると知っているしをりも違和感と不安を募らせ、姑に一層身を寄せる。
母親代わりでもある姑は、逆にしをりの肩を優しく抱いてくれた。
「関白殿下のお声掛かりでの縁組みに何の不満があるのですか?!私だとて、真田の家の事を考えて動いているのです!」
「真田の事だと?!儂を誤魔化せると思うな、この、痴れ者めが!」
最早これ以上は耐え難いと感じた時に、唐突に父子の争いは終わった。
恐る恐るー姑と共にー様子を窺うと、二人はしをりや義母が同席しているのを憚ったらしい。
ちらと源二郎が己に向けて謝罪するような目を向けてきたのに、しをりはほっとして弱々しく微笑み返した。
「……とにかく私は反対です。真田の家は、しをりのものなのですから」
「当然だ!」
食膳も摂らずに席を立った源二郎の後を慌ててしをりは追った。
舅や姑が止める声も聞こえたが、先程の捨て台詞で、源二郎の怒りの原因が己であるとー少なくとも己が関わっている事なのだとー気付かされ、居ても立っても居られなかったのだ。
「源二郎様!」
逃げていくかと思った男は、しかし次の瞬間、立ち止まり、しをりを待っていてくれた。
先程の失言を後悔しているのだろうし、同時にしをりを誤魔化せないとも分かっているのだろう。
「如何したのです。御父上とあのように争われるなど、源二郎様らしくありません」
「ああ」
そのまま並んで歩いて、庭へ出た。
小さな山城であり、庭といってもすぐに塀と続き、城下も見渡せる。
「……徳川家が縁談を持ち込んで来たのだ」
「……」
しをりは源二郎を見上げ、彼の表情がひどく苦々しく歪んでいるのを見て取り俯いた。
「太閤殿下は御存知なのですか?……太閤殿下にお話すれば」
源二郎は太閤に仕えている。
幾ら徳川家といえども、太閤の臣下に無理矢理縁談を押し付ける訳にはいかない筈だとしをりは思ったのだが。
「違う。俺じゃない。……兄上だ」
「え」
源二郎が兄と呼ぶのは唯一人、しをりの夫でもある真田家の嫡男、信幸だ。
「それは……」
「兄上の事を随分気に入ってるらしい。その、舅になりたがってる男がな。で、何としてでも兄上を取り込もうと、己の娘を徳川大納言の養女として嫁がせる、という。……話にならぬ!」
「……」
しをりは源二郎の言葉ー更には先程の舅との口論ーを己の中で繰り返した。
納得すると共に、舅と義弟ーこの場合は寧ろ、叔父と従兄と考えるべきかもしれないーへの感謝の念を先ず覚える。
「私の為に、怒って下さったのね」
「しをり」
「御免なさい、源二郎様。でも、私……すごく、嬉しい」
しをりはそっと、ずっと拳の形で握りしめられたままの源二郎の手に己の手を当てた。
「源二郎様はやっぱり私のお兄様なのね。お父様も……私を大事に思っていて下さる」
「しをり」
「でも今頃きっと、旦那様は悩んで、苦しんでおられるのね。申し訳ないわ」
源二郎がむっと怒ったような顔をするのに、しをりは微笑んだ。
幼い頃から、自分の為でなく人の為ー父や兄、家の為ーに怒り、悲しむ人だったと思い出している。
「旦那様に文を書くわ。私からお話を受けて下さるよう、申し上げます」
「しをり!」
「良いのよ」
しをりは源二郎に、そして自分自身に言い聞かせるようにゆっくりと呟いた。
「私は真田の血を繋ぐ為に生きているの。御家の為なら何だってするわ。徳川の姫にお嫁に来て頂けるなんて光栄な事だもの。お受けしなくては」
「しかし」
「旦那様と離縁する事になっても、私は真田の人間で、お兄様達の妹なの。何も変わりはしないわ」
不服げな源二郎を促して屋内へ戻る。
そろそろ夜風は、身を切るように鋭く冷たい。
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