恋するスピカ

白川ゆい

さよならスピカ

 お昼を少し過ぎた時間のカフェ。私の前にはマスクをして帽子を深く被った怪しげな人物。ある意味目立っているような気がする。けれど彼には言えない。


「……で、別れたいって?」


 彼は飲んでいたアイスティーを少し乱暴にテーブルに置き、低い声でそう言った。こんな人の多いカフェで誰か、今大人気の若手俳優が別れ話をしていると想像するだろうか。しないだろうな。


「理由」


 彼は少し俺様である。テレビの中では爽やかに「僕」なんて言っているくせに。ちなみに私は彼と幼馴染なので彼の本性は全て知っている。

 ……いや、知っているつもりだった、と言ったほうが近いかもしれない。少し前、彼と前クールのドラマで共演していた美人女優さんとの熱愛報道が世間を騒がせた。その写真で彼は彼女に優しく笑いかけていた。私には一度も見せてくれたことのない顔だった。私たちの過ごしてきた長い長い年月を、彼女は一瞬で追い越したのだ。

 そう思うと全部が弾けた。忙しい彼と会えなくて寂しくても我慢しただとか、辛い時に連絡したくてもできなかっただとか、普通の女の子みたいに友達と恋バナができないだとか。彼の恋人でいるために我慢してきたことが、全部無駄だったように思えたのだ。


「綾人くんに私は必要ないから」

「あぁ?」

「私にも必要ない」

「……それ本気で言ってんのか」


 本気なわけ、ないじゃん。そう思い込もうとしてるだけだよ。なんでそんな怖い顔するの。


「……綾人くん、私の前では一回も幸せそうな顔で笑ってくれなかったね」

「……は?」

「近くにいるのに笑顔がテレビ越しにしか見れないなんて嫌なの。さよなら」


 涙が零れ落ちる前に立ち上がった。少しだけ期待して後ろを振り返ったけれど、やっぱり綾人くんは追いかけてこなかった。10年積み上げてきたものが、こんなに簡単に崩れるなんて。呆気なさすぎて涙も引いた。それから一ヶ月。綾人くんからの連絡もなく私は平和に過ごした。まぁ、元々彼から連絡が来ることはなかったので当然だ。それに、別れたんだし。思えば会う時は綾人くんが突然会いに来た時だけだったし、私が勇気を出して『会いたい』とメールしても返事すら来ないことがよくあった。来たとしても『忙しいから無理』だ。

 まぁ、芸能人と一般人の恋愛なんてこんなもんかとも思う。……いや、やっぱり綾人くんは例外。だってさすがに、仮にも『彼女』に対して冷たすぎでしょ。幼馴染として過ごした12年。恋人として過ごした10年。どっちも消えちゃうのは寂しいけれど、私が悩んで悩んで決めた結果だ。後悔なんて、しない。

 数日後。私は人生初の合コンに来ていた。


「あんたもいい加減彼氏作りなよ」


 と同僚が誘ってくれたのだ。

 綾人くんと付き合っていたことは周りに言っていなかったため、私は人生で一度も彼氏ができたことがないということになっている。綾人くんが芸能界に入る前も、異様に人気があったし綾人くんが隠したがったから誰にも言わなかった。学校で一緒にいられなくても、家は隣だし帰ってから誰にも知られずに会うことができた。もちろんキスもセックスもした。もし、もし彼氏ができたら当然その人とそういうこともするんだろう。……なんか違和感……

 合コンは順調に進んだ。初めてで緊張してはいたものの、綾人くんで免疫ができているのでイケメン相手だからと言って構えることもない。むしろ暴君な綾人くんの前にいるほうが構える。


「真琴ちゃん、可愛いのにどうして彼氏できなかったの?」


 隣に座った爽やか系イケメンくんにそう聞かれて、適当にごまかす。タイミングが悪くて、だとかもしかしたら性格悪いのかも?とか。彼はどうやら私を気に入ってくれたようで、「このあと二人で抜けない?」と誘ってくれた。でも、やっぱり綾人くんが頭にチラつく。

 二人で抜けたら、どこへ行くんだろう。考えなくてもわかる。きっとセックスするんだ。……綾人くんが、私を抱く時の顔や仕草はよく覚えている。いつもクールな目の端が赤くなって、私を珍しく必死で求めて……。まるで離さないって言っているかのように、ぎゅっと抱き締める。あんな風に他の人を抱くのかと思うと、やっぱり悲しいな……


「真琴ちゃん?」


 俯いてしまった私の顔を、イケメンくんが覗き込んでくる。どうして、なんで。他の人を好きになっちゃやだ。私を好きでいてよ。……なんて。今更遅いのに。


「……いいよ、抜けよう」


 そう、ニコリと笑って彼を見た。……はずだった。突然イケメンくんと私の間に腕が現れて、その腕がダンっ!と大きな音でテーブルが叩いた。ビクッと体を揺らしてその腕の主を見上げて、固まった。周りも同様に固まっている。それが、変装も何もしていない綾人くんだったから。突然現れた人気俳優に固まっているみんなを一瞥して、彼はギロリと私を睨む。ヒッと引きつった声を上げたけれど、もちろんそんな顔はみんなには見せない。ニコッと笑ってみんなのほうを向き、


「これ、貰っていくね」


 と私の腕を掴んで歩き出した。私が騒げば周りに綾人くんのことがバレると思ったからひたすら黙ってついていった。彼はお店の前に停めてあったタクシーに乗り込んだ。しかし、調教とは恐ろしいものである。とにかく彼に従うべきだと分かっていたので無駄な抵抗はしない。もし逆らおうものなら私には鬼より恐ろしい絶対零度の視線が降り注いだだろうから。

 タクシーの中でも綾人くんは何も言わなかった。ただ、頬杖をついて窓から景色を眺めている綾人くんは驚くほど綺麗で。私は必死で目を逸らした。この人はもう私の彼氏じゃない。これ以上好きになったって辛いだけ。そう言い聞かせて、とにかくどこかにタクシーが着くまで黙っていた。きっと何か返さなくてはならないものを返せと言われるのだ、と。期待しないように、必死で。タクシーが着いたのは高層マンションだった。慣れた手つきでオートロックを解除し入っていくのを見ると、きっと綾人くんのお家なのだろう。家賃高そう……

 ちなみに私は彼の家に来たことはない。会うのはいつも私の家だったし、きっとここは記者が張り付いているのだろう。あ、でも今日はいいのかな?よく分からないまま彼についていく。

 彼の部屋は14階で、私のほうを振り向かず一言も喋らない綾人くんに恐怖心を覚えながらも鍵を開けて中に入る彼を眺めていた。パタン、と私の目の前でドアが閉まる。入っていいのかな。それとも、ここで待っていたら綾人くんが私に返すものでも持ってくるのだろうか。

 しばらくそこで立ち尽くしていたら、ドアが開いた。彼はドアの前に立つ私を見て不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。


「……何してんの」

「えっと、入っていいのかな、って……」

「意味分かんねぇ。入る以外の選択肢あんの?ここまで来て」


 で、ですよねぇ……。

 彼の部屋は、生活感がなかった。まぁ、実家の部屋もこんな感じだったけど。潔癖性の綾人くんらしい部屋だ。必要最低限の物しか置かれていないそこで、私はまた立ち尽くす。何だか少し自分が惨めに思えてきた。合コンに乱入してきた元カレはソファーに座り寛いでいて。何も話がないなら帰りたい。


「な、何か、用だったのかな」

「……」

「それなら、実家に帰った時にでも……。実家なら流石にマスコミの人も来ないだろうし」

「……」

「あっ、でも忙しいから帰れないか……。うん、あの、頑張ってねお仕事」

「……」

「もう会わないかもしれないけど、応援してるし……」

「……」

「あ、もしかして口止めかな?大丈夫だよ、付き合ってたことも家も誰にも言わないし、連絡先だって消すし……」


 だから、だからお願い。涙が溢れる前に帰らせて。その時だった。タイミングよく電話が鳴った。テーブルの上に無造作に置かれた携帯のディスプレイには最近綾人くんと付き合っているという噂の女優さん。彼は携帯を見ると私のことを見もせずに通話ボタンを押した。そして、あの爽やかな声で話し出す。


「もしもし、うん、大丈夫」


 すごい変わり様だ。それにしてもどれだけ鬼畜なんだ。私の前で新しい彼女と電話で話すなんて。……まぁ、綾人くんにとっては私の気持ちなんてもうどうでもいいんだろうけど……。帰ろう。そう思って、楽しそうに電話で話す綾人くんに背を向けた。

 それにしてもすごい家だな。こっち寝室かな?見たこともない高級マンションにテンションが上がってキョロキョロしながら玄関に向かう。いいよね、二度と来ないんだしちょっとくらい見ても。私には縁のない世界なんだから。

 靴を履いて、ドアノブに手をかける。また合コン誘ってくれるかな。そして、新しい恋を見つけよう。よし、と気合を入れてドアを開けようとした時。後ろから伸びてきた手が私を捕まえて、無理やり振り向かされたのと同時、唇が塞がれた。


「んっ?!」


 驚いて目を見開く私の目に映ったのは、閉じられた綺麗な二重の瞼を縁取る長い睫毛。綾人くんが持っている携帯の向こうからは何か声が聞こえている。我に返って綾人くんの胸を押せば、その手は熱い手に握られキスが更に深くなる。

 ああ、やっぱり私。綾人くん以外の人とこんなことしたくない。

 唇を離すと、綾人くんは至近距離で私を見つめた。その目はいつもみたいにキツいものじゃなくて。戸惑っていると、私の目の前で彼は電話を耳に当てた。


「……悪い、取り込み中だから切る」


 向こうから女の人の高い声が聞こえた。綾人くんは嫌そうに顔を顰めて、続ける。


「もうあんたと仲良くする義理ないよな。ドラマも終わったし。あ、あと俺彼女いるからもうかけてこないでね。じゃ」


 電話を切ると、綾人くんはチィッと大きな大きな舌打ちをした。


「……お前は馬鹿だ」

「はっ?!」

「救いようのない馬鹿だ。何がもう会わないだ。もう会わない女のために合コンをぶち壊すほど暇じゃない」


 綾人くんは私の腕を掴んだ。と、思った次の瞬間には抱き上げられていた。お姫様抱っことかそんなロマンチックなものじゃない。肩に担がれていた。


「っ、ぎゃー!下ろして!」


 ジタバタ暴れても綾人くんは全く動じないし何も言わない。気付いた時にはまたふわっと体が浮いていて、ソファーに寝かされていた。覆い被さってくる綾人くんはセックスの時の顔。


「ちょ、ちょっと待って?!」

「……てめえ……いつまで我慢させる気だ……」


 え、我慢?我慢してたの?驚いて綾人くんを見ると、綾人くんはまたキスをしようとした。待って!話終わってない!


「わ、私たち、別れたよね……?」

「別れてない」

「で、でも彼女できたんじゃ……」

「俺は生まれてから22年間お前以外を彼女にしたことはない」


 で、でも……じゃあなんで……考えている間にも綾人くんは首筋に顔を埋めてくる。必死で胸を押しても、その手はまた熱い手に握られた。それ、嫌だ。流されてもいいかなって思っちゃうから。


「お前はいくつか勘違いをしている」


 耳元で、綾人くんは低い声で囁く。ゾクゾクと快感が背筋を駆け上る。


「まず、あれはただの共演者だ。どうでもいい」

「……」

「二つ目。俺たちは別れてない。この一ヶ月、お前とのことを事務所に認めさせるために説得していた。感謝しろ」

「……」

「三つ目。お前は俺がお前の前で幸せそうに笑わないと言っていたな。どうしてお前の前でまで猫を被らないといけないんだ。ふざけんな」


 話している間にも、綾人くんの手が服の中に入ってきて。思わずしがみつけば、綾人くんが満足げに笑うのが目の端に映った。


「俺が素でいられる唯一の場所を、なくすな。馬鹿が」


 そこまで罵倒しなくても……。でも、どうしよう。私に縋り付くように抱きつく綾人くんが、愛しくて仕方ない。


「……嘘だよ」

「……」

「綾人くんのこと必要ないなんて、嘘だからね」

「……当たり前だ馬鹿」


 綾人くんはふっと笑ってキスをくれた。

 それから綾人くんは私と付き合っていることを隠さず、堂々と私を家に呼んだ。もちろん週刊誌には撮られた。でも綾人くんの忙しさは変わらない。人気もそんなに落ちていない、らしい。


「あー……」


 綾人くんの家でご飯を作っていると、疲れ切った様子の彼が帰ってきてソファーに倒れこんだ。最近忙しかったもんね。


「綾人くん、ご飯食べる?」

「後でいい……」


 このまま寝てしまいそうだったから、毛布を掛けてあげた。そしてキッチンに戻ろうとしたら。


「……好きだ」


 ……え?いいい今何て言った?!慌てて綾人くんのところに戻るも、彼は既に目を瞑っていた。初めて言われたんだけど!!


「もう一回言って?」

「……いい子にしてたらな」


 ふっと笑った綾人くんが私を毛布の中に引きずり込む。綾人くんの温かい腕の中で、私も目を瞑ったのだった。

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