彼の匂い
手を引かれて歩いた。三浦くんは早歩きで、たまに私を振り返った。もう涙は出ない。でも泣き腫らした目も崩れた化粧も他の人には見られたくなくて俯いた。
電車の中で、三浦くんはドアの前で私を隠すように立った。すぐ近くにいる彼は私の顔を覗き込んでふっと笑った。その顔が優しくて、距離が近くてくすぐったい。
「な、なに」
「別に」
「笑ったじゃん!」
帰宅ラッシュも遠に終わった時間、電車の中の人は疎らだ。でも誰も私たちを見ていない。本を読んでいる人、携帯に熱中している人、眠っている人、そして。
「化粧汚くなってるからあんま見ないで」
「確かに酷いですね」
「うっ……」
「でも、何でだろ。可愛く見えるんです」
顔のすぐ横の髪を1束、指に巻き付けて。三浦くんは表情も変えずそんな甘いことを言う。私が赤面しているのを見て笑って。
「堀さん」
「な、なに」
「目、閉じてください」
「だ、ダメだよ、電車の中で、私そういうの無理だから……」
「いいから」
親指が瞼を押して、優しく、でも強制的に目を閉じさせられる。じんわりと三浦くんの体温が腫れぼったい瞼に浸透して。
「気持ちい……」
「でしょ」
キスされる、なんて自意識過剰な誤解をしたことを恥ずかしいと思う暇もなく。三浦くんの体温が気持ちいい。
崇生くんにとって私は何なんだろう。ただ馬鹿にしたかっただけ?ありさと二人で、簡単に堕ちた私を裏で笑ってた?崇生くんへの恋愛感情はもうない。あるのは悔しさと不快感だけ。どんな理由があったとしても、私は絶対に崇生くんの気持ちを理解できない。
そんなことばかり考えて、荒んでいた気持ちが少しずつ落ち着いていく。私って相当馬鹿な女かもしれない。恋愛で痛い目に遭ったばかりなのに、また恋をしようとしている。
しばらくして、三浦くんの手が離れた。目を開けようとした時。
「待ってください」
反射的に開けようとしていた目をまた閉じる。次の瞬間、明らかに指ではない柔らかいものが瞼に触れた。ぴくんと揺れた体は既に包み込まれている。背の低い私は、細長い三浦くんに隠れてきっと周りから見えない。胸の辺りの服を掴んだら、さっきまで瞼に触れていた指が絡んだ。
「目、開けなかったら、次は口にしますよ」
三浦くんは悪い男だ。私に選択を委ねる。答えなんて、分かっているくせに。
「堀さん。俺、忠告はしましたからね」
きっと誰も見ていないのに、こんなにドキドキするのはどうしてだろう。掠めるように一瞬触れた唇が、もう一度重なる。決して深くはないのに、服越しじゃない剥き出しの部分が触れ合っているだけで心臓は甘く激しく高鳴る。
唇を離した時、未だ至近距離にあった三浦くんの顔を直視できなくて。吐息のかかる距離で、三浦くんが囁く。
「俺の部屋でいいですよね」
と。
三浦くんのマンションは駅から程近い場所にあった。すぐ近くにコンビニやスーパーがあって立地条件の良さに感心してしまう。私のアパートは駅からもスーパーからも遠いのにな。そんな話をすると、三浦くんがいつもの無表情で
「面倒だから多少家賃高くても歩かなくていいところがよかったんです」
と。三浦くんらしくて、見られないように笑ってしまった。
崇生くんはもう帰っただろうか。自分の部屋に帰るのは絶対に無理だ。友達の家も、こんな時間に行くのは迷惑だし。と、色々頭の中で言い訳をして。私は三浦くんの部屋に入った。
「お、お邪魔します……」
三浦くんはさっきまでの甘い雰囲気はどこへやら、普通に、いつも会社にいる時と同じように部屋に入って行った。私は緊張もあり、初めての部屋にどうしていいか分からずとりあえず三浦くんについていく。三浦くんの部屋は綺麗に片付いていて、と言うよりあまり物がなかった。
隣の部屋に入ってラフな格好に着替えてきた三浦くんは立ち尽くす私を見てハッとして、またその部屋に入って行った。そして戻ってきた彼の手にはシャツと楽そうなパンツが握られていた。
「すみません、こんなのしかなくて」
「あ、ありがとう……」
「いえ。何か飲みます?お酒は買ってこないとないけど」
「あー、ううん、いいや」
彼はそっちで着替えてくださいと隣の部屋を指差して、自分はキッチンに向かった。
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