悪い男

 次の日。結局タクシー呼んであげられなかったな。そう思いながら二日酔いのせいで痛む頭にうんざりする。駅から会社まで、すぐそこなのに何だか今日はとても遠く感じて。でも前に見慣れた後ろ姿を見つけて、何となく心が弾むのを感じた。


「三浦くん、おはよう」

「おはようございます」


 後ろから声をかけると、三浦くんは一瞬驚いた顔をして、けれどすぐにいつもの無表情に戻った。いつも通りの朝。周りの人にとってはそう、きっと三浦くんにとっても。でも私にとっては少し違う。とても嬉しい言葉を貰ったから。


「昨日はありがとう。助かった」

「いえ。ビールまで貰ってすみません」

「あれはお礼だから気にしないで」


 そんな会話をしているとすぐに会社に着く。私たちはそれとなく離れて部署に入った。変な噂を立てられるのも嫌だから。

 今までと何もかもが変わらない。私と三浦くんの間に会話はないし、二人とも淡々と仕事をこなし時折誰かと事務的な会話をして。そう、変わらない。私の心の中以外は。

 彼がとても優しいということを知った。クールで無口で無表情な彼の目がとても綺麗なことを知った。他にも色々な顔が見てみたい、なんて。いやいや彼は後輩なんだから、恋愛対象にしちゃダメでしょ。と、自分で自分にブレーキをかけている。


「あの、堀さん」

「っ、はい」


 仕事には集中しなくちゃ。私は今それを改めて感じていた。三浦くんに話しかけられて驚いた私は、デスクの上のコーヒーを資料の上にぶちまけてしまったのだ。

 ……残業決定。固まる私に三浦くんは相変わらず何も言わなかった。

 次々と周りの人が帰っていく中、三浦くんと私は淡々とPCに文字を打ち込んでいた。私が鈍臭いのがいけなかったのに、自分が突然話しかけたせいだと手伝いを申し出てくれた三浦くんには本当に償っても償いきれない。

 とうとう二人きりになった室内に沈黙が落ちる。集中集中集中、と頭の中で何度も繰り返していたら逆に集中できなくて苛立った。ほんと、何やってんだろ私。


「あの」

「っ、はい」

「こっち終わりました」

「そ、そっか。今日は本当にごめんね。手伝ってくれてありがとう。お疲れ様」

「……」


 笑顔を作って言えば、三浦くんはじっと私を見つめてくる。ど、どうしたんだろう?


「……お先です」

「う、うん、お疲れ様」


 けれどふいっと目を逸らして部屋を出て行く。一人残された私はようやく集中力を取り戻した。

 会社を出た頃には夜も遅い時間になっていたから、タクシーで帰ろうかと迷った。でもやっぱりお金がもったいないと駅に向かう。昼間は人で溢れたオフィス街も深夜は静まり返っている。怖いとは思わないようにした。駅まですぐだし、何かあっても走れば平気。と、思っていたのだけれど。

 後ろから誰かが尾けてくるのが分かった。たまたま深夜まで残業した日にこんなことって、運が悪すぎる。私が走ると後ろの足音も走る。駅に駆け込んで事なきを得たと思ったけれど、少し距離を置いたところにずっと誰かが立っているのが分かった。


 駅にはさすがに人がいる。でも自宅の最寄駅に着けば、そこからは一人で夜道を歩かなければならない。どうしよう。


 その時だった。握り締めていた携帯が震える。慌てて開けば、メッセージが来ていた。


『俺が会社出た時変な奴いたんですけど大丈夫ですか』


 私より30分ほど前に会社を出た三浦くんだった。助けてと言いたいけれど、今日迷惑をかけてしまった手前頼ることはできない。


『大丈夫』


 と返した。電車に乗り込み、男の人の気配に背を向ける。何かされたらどうしよう。人がいるとは言え疎らな電車内。深呼吸して、胸に手を当てる。大丈夫。駅に着いたら警察に行って、それから……


「堀さん」

「……っ!」


 驚きすぎて体が強張った。ひっと小さく悲鳴を上げた私の目に映ったのは。


「み、みうら、」

「全然大丈夫じゃないですよね」


 はぁ、と呆れたようなため息を吐いて三浦くんは私の背後に視線をやる。恐る恐る振り向けば、男の人が別の車両に移って行ったのが見えた。三浦くんは警戒を解いて私を見下ろす。


「な、なんで、」

「変な奴いたんで、大丈夫かなと思って近くのコンビニで時間潰してました」

「そ、そっか」

「コンビニから見てたら堀さんが尾けられてるの見えたんで」


 ということは、メールをくれた時はもう私の状況を知っていたと言うこと?結局迷惑をかけてしまったことが申し訳なくて、私は深い深いため息を吐いた。


「本当にごめんなさい。今日は迷惑をかけてばかりで」

「いえ」


 三浦くんはそれ以上言わず、ただ私の隣に立っていた。

 三浦くんの家は私の家の二駅向こうらしい。本当にありがとう、と頭を下げて駅に降りると、三浦くんも一緒に降りた。驚く私に三浦くんはまた呆れたようなため息を吐く。


「駅からも一人なんでしょう」


 と。先に歩き出してしまった三浦くんを慌てて追う。私の記憶が確かならば、今のが最終電車のはずだった。

 帰り道は至って平和だった。もう大丈夫だよ、と言ってもここまで来たから、と三浦くんは結局家まで送ってくれた。


「あの、本当にありがとう。終電なくなっちゃったのに……」

「いえ」

「あ、うちでよければ泊まる?一応お布団は……」

「堀さん」


 どうにか償いたい一心だった。明日も仕事だ、早く寝なきゃ。それなら家に帰るよりうちで寝たほうが……と。でも、まっすぐに私を見つめる三浦くんの目を見て自分がとんでもないことを言ったことに気付いた。


「俺が悪い男だったらどうするんですか」

「……っ」

「失礼します」


 目の前でドアが閉まる。嫌じゃない、なんて思っている私は本当にどうかしている。

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