最愛

白川ゆい

プロローグ

 人生とはこんなに苦いものだったでしょうか。


 半年前、親友の紹介でとても素敵な彼氏が出来ました。顔良し、性格よし、お金持ち、仕事できる、大人の余裕あり。こんなに完璧な人が私の彼氏になってくれるなんて、と夢見心地のまま瞬く間に半年が過ぎました。

 彼はとても優しくて、私を大切にしてくれました。深い関係になったのも、付き合い出して5ヶ月が経ってようやく。優しく慈しむような触れ方に、彼の愛情を感じたはずでした。

 仕事終わり、一人で寒い中歩いているとたまたま前を通りかかったホテルから一組の男女が出てきました。何気なく顔を上げて固まりました。何故ならその二人が、私の彼氏とその彼氏を紹介してくれた親友だったからです。

 嘘だと思いました。何度も目を擦りました。けれどやっぱり二人でした。

 二人は寄り添うようにぴったりとくっついて、私に気付くことなく歩いて行きます。今見たばかりの事実を信じたくない気持ちと、やっぱり彼のような完璧な人が私を好きになるわけがないという諦めのような気持ちと、いやでも二股をかけるような男は完璧なんかじゃないと怒りに似た気持ちと。色々な気持ちがごっちゃになって襲ってきました。


「っ、ビックリした……」


 気が付くと私は会社に戻っていました。一人残っていた後輩の三浦くんが突然戻ってきた私に驚きました。ここなら誰かがいると思った。今は一人になりたくなかった。

 いたのが三浦くんで少し安心しました。彼なら何も聞いてこないと思ったからです。いつも無表情で何事にも興味がなさそうな彼は私のことを気にする様子もなく仕事に戻ります。今はそれがありがたく、近くに誰かがいる気配に安心して私は声を押し殺して泣きました。

 一体どれくらいの時間が経ったのでしょう。コト、と私のデスクに何かが置かれる音がしました。その時には落ち着いていて涙も出ていなかったので(目は赤いままでしょうが)、少しだけ顔を上げました。そこにあったのは湯気を上げている私のお気に入りのマグカップでした。


「……俺、そろそろ帰りますけど」


 クールなテノールが耳に届きました。もちろん彼に縋るつもりはありません。私は頷き、マグカップを手に取りました。


「……ありがとう。私もすぐ帰るから。お疲れ様」


 彼は感情の読めないクールな目で私を見て、そのまま出て行きました。

 一人になった部屋で三浦くんが入れてくれた熱いコーヒーを飲んでいると、孤独と正反対の温かさでまた頭の中がぐちゃぐちゃになりました。明日からどうすればいいのだろう。いや、ただ一つの恋愛が終わっただけだ。私には仕事もあるし友人もいる。恋愛だけが私の全てではないのだから。平気。平気。全然平気。

 言い聞かせるように頷き、コーヒーを飲み干した時。私の隣に誰かが立つ気配がしました。その人を見上げて、今度は私が驚く番でした。


「ど、どうしたの?」

「……別に」


 三浦くんはいつもの無表情で私を見下ろした後、私の隣の席、つまり彼の席に座りました。もしかして、私が泣いていたからかな。冷たいように見えて優しいんだ。ふっと笑って、私はマグカップを撫でました。


「……少し、独り言言ってもいい?」

「……」


 彼は何も言いませんでしたが、私はそのまま続けました。彼氏と親友が浮気していたこと。むしろ私が二番目だったのかもしれないこと。何も知らなかった私は惨めだと、馬鹿だと、散々自分を罵りました。そうしないと、三浦くんにそう思われていることに耐えられそうになかったからです。

 三浦くんは一言も発しませんでした。ただじっと座っているだけでした。俯いていたせいで彼の脚だけが見えていました。

 その脚が一歩一歩、私にゆっくりと近付いてきました。彼の手がそっと、普段の彼から想像できないほど優しい仕草で私の頬に触れました。驚いてビクッと体を震わせて反射的に見上げました。


「……そんな男のために、泣く必要ないですよ」


 床に膝をついた彼の顔が目の前にあります。前髪に隠れた目は優しくて、小さな電気の光に煌めいています。素直に綺麗だと思いました。


「三浦、くんは、そんな男じゃ、ない?」


 そんなことを聞いたのは、どうしてか。自分でも分からないまま彼の答えを待っていると。彼がふっと笑いました。笑顔を見たのは初めてでした。


「さぁ?もしかしたら酷い男かも」


 私も笑いました。額をコツンとくっつけて、二人でクスクス笑いました。たったそれだけのことなのに、私の心は随分浮上したのです。それから、三浦くんが私の心の大部分を占めるようになりました。我ながら単純で嫌になります。でもこれが恋の始まりだということに、私はすぐに気付いたのです。

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