信じる心

「センパーイ、今日飲みに行きませーん?」

「うん、いいよ。どこ行く?」

「最近できたバーがあるんですけど、そこがいいですー」


 火曜日、亜美ちゃんが誘ってくれたから仕事終わりに飲みに行くことになった。関くんとの関係は落ち着いている。最近ようやく関くんの隣にいることに慣れたというか、ドキドキはするけど緊張はしなくなった。


「センパーイ、友達誘いますー?あ、センパイ友達いないかー」


 キャハハと笑う亜美ちゃんはいつも通りだ。唇の端を引きつらせながら思いついた人にメールを送ってみる。……みやちゃんと……檜山さんだけじゃん……。悔しいけれど亜美ちゃんの言う通りで、私は小さくため息を吐いた。


「七瀬、亜美ちゃん、こっち」


 仕事終わり、亜美ちゃんと檜山さんと三人でバーに行けばみやちゃんが既に待っていた。照明が暗く落ち着いた音楽が流れるそのバーは大人の雰囲気で、隅のほうでは男女が体をくっつけてたまにキスをしたりしている。うわあ、すごい世界だな。そう思いながらみやちゃんの席に向かった。

 みやちゃんは知らない男の人にナンパされていたらしく、私たちが来たことに安堵したようだった。


「あ、友達?みんな可愛いね」

「そうですかー?ありがとうございまーす」


 そのみんなに自分が入っていないことは分かりきっているので、男の人と楽しそうに話す亜美ちゃんを置いてみやちゃんに檜山さんを紹介した。関くんにはもちろん連絡してある。飲み物を頼んで三人で話していると、亜美ちゃんと話している男の人の友達らしき男の人数人が来た。


「ね、一緒に飲もうよ」


 肩を突然抱かれビクッと体が強張る。離してください、とも言えず固まっていると、檜山さんがやんわりとその手を外してくれた。


「あ、もしかして男慣れしてない感じ?可愛いー!ね、俺が色々教えてあげようか?」

「けけけけけ結構です、私、心に決めた人がおりますので」


 必死で断ったつもりだったのに、その人は私の過剰な反応を面白がっているらしい。今度は手を握ってきた。


「へー、彼氏いるんだ!大人しそうなのにねー」


 ええ、ですから手を離してください。振り払おうとしても意外と強く握られている手は離れない。檜山さんとみやちゃんが離してあげてと強く言ってくれても離れなくて。嫌だ、と目に涙が浮かんだ時。


「……地味女のくせにこんな店来るからでしょ」


 後ろから聞こえた声に、私の体は違う意味で強張った。


「あ、根岸くんおかえり」


 え、今みやちゃんおかえりって言った?混乱していると、後ろから伸びてきた手が男の人の手を捻り上げる。


「お前みたいなクズが触っていい子じゃない」


 え、え、それどういう意味?根岸くんの言葉に驚いていると、根岸くんに睨み付けられた男の人は舌打ちをして。罵倒の言葉を繰り返しながらどこかへ行ってしまった。


「あっ、根岸さんこんばんはー」


 亜美ちゃんの変わり身の早さには毎度舌を巻くよ。苦笑いしていると、根岸くんが私に言った。


「言ったじゃん、あんたが他の男に触られるの嫌だって」


 根岸くんが私をまっすぐに見て言う。


「ふーん、俺も行くって言うからどういうことかと思ってたら、そういうことか」


 みやちゃんの呟きが嫌に耳に残った。

 気まずいまま始まった飲み会。楽しいはずの時間が気まずさと関くんへの罪悪感で潰れていく。もう会わないって言ったのに。こうやって根岸くんの隣でお酒を飲んでいる自分に嫌悪感。ずっと俯いているせいでみんなに心配をかけている気もする。私、何やってるんだろ……。


「七瀬ちゃん」

「っ、」


 かけられた声に大袈裟に反応してしまい、またみんなが静まり返る。ああ、もう……


「俺の気持ち、迷惑?」


 反射的に顔を上げたら、切なさを滲ませた瞳と目が合った。迷惑、じゃない。誰かに好意を向けられるのはとても嬉しい。でも、そのせいで関くんが不安になるのなら……


「……ごめん、私もう根岸くんとは会わない」

「……」

「私、関くんが好きなの。関くんと一緒にいたいの。だから……」

「その関くんが、今元カノと一緒にいたとしても?」

「へ……?」


 驚きの発言に、私は間抜けな声を出して固まってしまった。


「……俺も、ビックリした。最近海外勤務から帰ってきた女の子がいて。たまたまその子と話す機会があったから話してたら関くんの元カノだった。永森美優ちゃんって子なんだけど」


 ……美優ちゃん。確かに聞き覚えがある。関くんの実家で英佑くんが言っていた名前だ。


「え、でもなんで急に……?」

「連絡したら会うことになったって言ってたよ。ねぇ、いいの?あんたがそんなこと言ってても、関くんは元カノにフラフラしてる」

「っ、多分事情があるんだよ……」

「彼女がいるのに元カノに会う事情って何?関くんはあんたが不安になるようなこと、平気でやってんじゃん」

「……っ」


 何も言い返せなかった。悔しいけど、根岸くんの言う通りな気がして。何か事情があるはず。でも、不安にはなる。関くんに話を聞かなきゃ。そうだよ、話さなきゃ何も始まらない。私は関くんを、信じるの。まるで自分に言い聞かせるように、何度も何度も頭の中で繰り返した。


「……俺、諦めないよ」

「……っ」

「しつこくてごめん。でも、こんな風に誰かが欲しいって思ったの初めてだから。悪いけど俺は、あんたの隙に漬け込む」


 それだけ言って、根岸くんは去って行った。みやちゃんと檜山さんが「大丈夫?」と聞いてくれる中、亜美ちゃんは


「イケメンを振る地味女とか、見てて気分悪い」


 と舌打ちしながら言った。そ、そんなこと言われてもなぁ……と苦笑いしながら。さっきの言葉が頭の中をグルグル回っていた。


『関くんはあんたが不安になるようなこと、平気でやってんじゃん』


 違う、きっと。何か理由があるの。


「あの、今日はごめんね!私のせいで全然楽しくないよね、ほんと、私大丈夫だから、」

「七瀬。いいんだよ。不安な時は泣いたって」


 みやちゃんの温かい言葉と、手を握ってくれる手の温度に。私の涙腺が決壊した。違う、関くんを信じてないんじゃない。ただ、ちょっと不安なだけ。うん、大丈夫。だから……


「関くんは七瀬を裏切ったりしないよ」


 ちゃんと信じるから。今だけは泣かせて。


「っ、七瀬さん、おかえり」


 家に帰ると、リビングのソファーに座っていた関くんが弾かれたように立ち上がった。大丈夫。ちゃんと目の充血が引くまで待ってから帰ってきたし。関くんには泣いてたことバレないはず。大丈夫。


「ただいま。まだ起きてたんだ、もし待っててくれたならごめんね、ちょっと盛り上がりすぎちゃって……」

「七瀬さん」


 私の嘘を、関くんが遮る。無意識のうちに俯いていた私の体を、関くんの大きな体が包み込んで。……ダメ。泣きそう。泣いちゃダメ。絶対にダメ。


「……ごめん。俺、七瀬さんが不安になるようなことしたね」


 その言葉に涙腺は決壊した。違うの。確かに不安にはなった。元カノのことは名前しか聞いたことはないけれど、きっと私と違って上手に自然体で関くんと向き合ってたんだろうなって。私みたいに関くんに無理させたりしなかったんだろうなって。どうして私、今まで恋愛してこなかったんだろうなんて今更どうにもできないことばかり考えて。


「門倉からメールが来た。元カノと会ってたのかって。正直に言うと、確かに会ってた」

「……」

「でももちろん二人じゃない。実は高校の時の友達が結婚するんだけど、その余興の打ち合わせ。だから本当にやましいことなんてない」

「……」

「七瀬さんが不安になるならもう二度と会わない」


 その言葉に感じたのは、自分の不甲斐なさだった。前に私が同じ言葉を言った時、関くんが切なそうに顔を歪ませた理由が分かった。大丈夫だよって言ってあげるべきだ。だって会うのにちゃんと正当な理由があるのだから。私のことは気にしないでって言うべきなのに。私の口はどうしても動かなかった。お互いに無理をして、気を遣い合って。こんな状態で、関くんを幸せにすることなんてできるのかな。噛み合わないまま、私たちはただ抱き合っていた。

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