第3話 名読みの術師

 老婆に連れられ宿場に向かう。

 宿場の辺側には八百屋や肉屋、酒場などの商業棟が並んでいる。建屋の系統こそ国の歓楽街といった趣があるものの、そこには活気や賑わいが失われていた。八百屋の店主などは空の果物置き場に尻を乗せ、茫々と自身の足先を眺めているし、肉屋からは腐肉の異臭がつんと漂っている。酒場に至っては割れた酒瓶が店先に散乱している有様である。

 ケムリはそんな商業屋の並びを横目に流し見ながら、老婆の牛歩を追う。

 宿場も酷いものだった。外壁には猫一匹通れそうなほどの穴がぽっかりと開いており、見上げれば、開け放たれた二階部屋の窓から破れた窓掛けが覗いている。吊り看板は根元から折れて地面に落ち、砂埃にまみれながら街道の砂地と一体化している。ケムリはその看板を拾い上げ手の甲で砂を払う。塗料は削げ落ち、宿名は読み取れない。


「こちらへ」


 老婆が勘定机からケムリを呼ぶ。ケムリは看板を両手に抱えたまま、流砂した宿場の軒先を踏む。

「ここに名を」

 そう言って、老婆は宿泊名簿を指で突く。ケムリは怪訝に首を傾げた。

「もう廃業したのでは?」

「年寄りの道楽でね。客人の名は余さず残しておるもんで」

 ケムリはその白灰の瞳を見つめ、言葉の裏を読むように押し黙った。羽根筆で名を記すと、自分よりひとつ前に訪れた客人の欄に目が行く。日付には三年前の日時があった。黙殺し、名簿帳を老婆の手に触れさせる。


 老婆はたぐるように指を紙面に滑らせた。筆跡で生じたわずかな凹凸を人差し指でなぞり、『ケムリ』の字を読み解く。

 しばしの無音が机辺を包む。不思議な時間だった。老婆は必要以上の時と手間をかけ、指のなぞりで字を読んでいく。どうして名を読むだけの行為にそのような手間が要るのか、少女は薄らと気づきつつある。老婆が字から指を離したとき、ケムリは改まって口を開いた。


「お婆さんは、術使いなのですか?」


 老婆は「ふうむ」と漏らす。然りの意であろうと汲み取り、次の言を待つ。


「ケムリ」

「はい」


 老婆は今一度筆跡を摩る。

「こりゃあまいったね。その、見えんのよ。あんたの生のありかが」

「生のありか、ですか」

「名は体を現すけども、同時に人の出自から生育の過程、ここへやってくるまでの生い立ちを示すもんで。自分で言うのもなんだけど、わっしの名読みは必中でね。若い頃はこれを生業に随分と蓄財したもんだが、こんなことは初めてでね」


 老婆は言葉を切り、諦めたように名簿帳を放る。

「見えんでねえ、ケムリ。あんたの生まれも、過程も、何もかも。悪い娘でないってことだけは分かるのに、変だねえ。わっしも衰えたかねえ」


 老婆は幾度も首を傾げ、見えんでねえ、とぶつぶつ呟きながら勘定場の奥へと消えていく。

 ケムリは名簿帳に目を落とした。記された人々の名を黙読する。老婆の模倣で彼らの『生のありか』とやらを想像してみたが、当然少女にそのような能があるはずもなく、やがて嘆息交じりに名簿帳を閉じる。床に捨てられた布切れを見つけると、腰を下ろして拾い上げ、吊り看板の砂を念入りに落としていった。

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