兄の幸せ

 キャンプから帰った日は、無理やりエージさんの家に連れて来られた。いつでもどこでもピンクなオーラを振りまくエージさんだったけど、私は疲れてそれどころじゃなかった。それほど、キャンプでは色んなことがあった。エージさんと別れ話したり。……結局元に戻ったけど。翼さんに告白されたり。……結局勘違いだったけど。エージさんと楓さんの、『傷』に触れたり。兄は……別にいいや。エージさんのピンク攻撃を回避するのにもかなり体力を使った。拗ねてしまったエージさんの機嫌を治すのにもかなり体力を使った。だけど、私が本当に疲れているのを見てエージさんは諦めてくれたみたいだった。

 私が寝るまでずっと、頭を撫でてくれた。いつもドSなエージさんが優しいとなんだか胸がいっぱいになって。私はエージさんにギュッとしがみついた。するとエージさんは


「今日は甘えただな、わんころ」


 と嬉しそうに言った。もう犬でも何でもいいや。今はこの優しい腕の中でぐっすり眠りたい。

 次の日、起きたのは昼間だった。お昼ご飯は『翔』に行くことにした。準備して、手を繋いで『翔』に向かう。

 私はもうすぐ新学期が始まるとか、昨日のドラマ見るの忘れたとか、一人でいっぱい喋った。エージさんは、特に何も言わずに相づちを打つ。いつも、こんな感じ。

特にエージさんが話すことはないけど、寂しくなかった。エージさんがちゃんと私の話を聞いてくれてるのはわかってたから。エージさんは、私が言ったことはどんなに小さなことでもちゃんと覚えてくれてた。言った私自身が忘れてたことも、エージさんはしっかり覚えていた。

 あんたとエージさんじゃ元々の頭の作りが違うって莉奈に言われたけれど、確かにそれもあるのかもしれないけれど。エージさんは、私以外の言葉はすぐに忘れちゃうから。と言うより、ちゃんと聞いていないから。エージさんの気持ちを確認できる瞬間。

 だから私はエージさんといる時は、いつもよりいっぱい喋った。元々お喋りな私が更に喋るから、凄まじいことになっていたけれど。それでもエージさんは聞いてくれた。たまに、少しだけ優しい笑みを浮かべて。

 エージさんは、自分のことをあまり話さなかった。だから私はエージさん以外からエージさんのことを聞いた。コンビニで楓さんと一緒に深夜バイトをしていることとか、実は大学で幼児教育を勉強してることとか、私は全部ファンの子が話してあたるのを聞いて知った。

 でも私は特に気にしていなかった。エージさんはきっと、聞けば答えてくれる。私が聞かないから言わないだけ。今度エージさんに質問攻めしてみようかなぁと思ってたら、『翔』に着いた。

 昼すぎの『翔』は人がまばらで、私とエージさんはカウンター席に座っていつも通りチーズハンバーグを頼んだ。

 カウンター席には女の人が座ってて、その人はものすごく綺麗な人だった。世の中にはこんなに綺麗な人がいるもんなんだなぁ。……あ、なんか悲しくなってきた。


「今日は2人?」


 美沙子さんが笑顔で尋ねてきた。


「はい」

「昨日の夜翼と楓が来たの。昨日キャンプから帰って来たのね。楽しかった?」

「はい、すごく疲れましたけど」

「2人ともハルちゃんに迷惑かけたって言ってたわ」


 ……いえ、一番大変だったのは隣にいる人です。そう思ったけれど、もちろん怖いから言わなかった。


「陽乃、お前今何考えた」


 ……ば、バレてる。


「いや、あの」

「陽乃ちゃん?」


 急に綺麗な女の人が私の名前を呼んだ。その人は大きな瞳に驚きの色を浮かべていて。


「はい……?」


 とりあえず返事をしてみた。知ってる人だっけ?


「律の、妹さんの……?」


 その人は確かにそう言った。声が震えていて、しかもその声が小さかったからよく聞き取れなかったけれど。この人は、確かに兄を『律』と呼んだ。


「そうです、けど……」

「そう、あなたが……」


 女の人はそう言ったきり何も言わなくなった。誰なんだろう。兄とどういう関係なんだろう。困惑する私に救いの手を差し伸べたのは、美沙子さんだった。


「この娘は、律の高校の時の先生。たまにここに来てくれるのよ。希ちゃんって言うの」

「……っ」


 その名前は、聞いたことがあった。キャンプに行く日にここで聞いて、兄が動揺しまくっていた名前。……何かあると思った。ただの教師と生徒ではない、何かが。


「兄とは、どういう関係ですか?」


 希さんの大きな瞳が揺れた。


「……何でもない。ただの元教師と生徒よ」


 そんなわけない。それだけなら、そんな悲しい顔しない。


「律は、いつもあなたの話をしてた。ハルは俺にとっては天使だ、俺がアイツを守るんだって……一度あなたに会ってみたかったの」


 あぁ、きっとこの人は兄のことが好きなんだと思った。でも兄は、その気持ちに応えなかった。


「律にとって大事なものは、あなた以外にないのね」


 この人の目には、明らかに私に対する羨望の気持ちが見えた。兄に想われたかった。兄に大事にされたかった。でも私のせいでそれは叶わなかった。そんな気持ちが見えたけれど、決して口には出さなかった。それは大人だからなのか、女のプライドからなのか。

 私は何も言えなかった。私が何か言ったところで、何も変わらない。逆にまた嫌な思いをさせてしまう。どうしようどうしよう。考えすぎて頭が爆発しそうになった時だった。


「こんにちはーっと」


 タイミングがいいのか悪いのか、兄が入ってきた。その後ろには莉奈と里依ちゃん。とんでもなく最悪なパターンな気がする。そして、兄は希さんを見た瞬間に固まった。本当に、『石になった』っていう言葉ががっちり当てはまる状態。そんな兄を見て、思ったんだ。きっと兄にとっても希さんは『ただの教師』じゃなかった。


「りっくん……」


 私は兄の腕を掴んだ。未だ固まっていた兄は希さんが立ちあがったことで、元に戻った。


「ごめんなさい」


 兄はじっと希さんを見据える。どうして謝ったんだろう。ねぇ、兄何か言ってあげないと。希さん泣きそうだよ……っ

 そう思った瞬間、兄は言葉を発した。でも兄の声は私が期待してたものとは違う、冷たいものだった。


「なんでいるんすか、センセ」


 ……こんな兄の声、聞いたことない。兄が人にこんなに冷たい瞳を向けるところ、見たことない。でも、それは逆に。兄がそれだけ、希さんを特別な目で見てるからだと思う。兄の動揺が、隣に立っているだけで伝わってきた。


「……さよなら、言いたくて」


 兄がゴクリと唾を飲み込む音が、異様に大きく聞こえた。


「私、結婚することにした」

「……」

「律にはいろいろ助けてもらったから……ちゃんと報告したくて」

「……」

「もう、一生会えないけど……一生、忘れない」

「……」

「さよなら」


 希さんは、涙を目にいっぱい浮かべながら『翔』を出て行った。

 扉が閉まる音がした。でもやっぱり兄は動かなくて。……いや、動けなかったって言うほうが正しいかもしれない。

 私今まで、兄は兄だとしか思ってなかった。当たり前なんだけど。それ以外に見る必要ないんだけど。

 私、見たことなかったんだ。兄が『男』の顔してるのを。エージさんが、私に見せてくれるような顔。翼さんが、莉奈のことを話す時に見せるような顔。楓さんが、椿さんを想っている時に見せるような顔。……今、まさに兄はそんな顔してた。

 兄と希さんの間に何があったかなんて、私は知らない。でも、それだけは確かだった。兄が『女』として見ているのは、希さんだけだった。


「……りっくん」


 今兄を動かせるのは、きっと私だけだ。私が兄を縛っていた。だからその鎖を解くのは……私にしか、できない。

 私、やっとわかったんだ。兄の気持ち。やっと理解できたんだ。兄の、幸せを。


「希さん、追いかけて」


 私がそう言うと、兄は目を見開いて私を見た。だけど次の瞬間にはヘラッと笑った。


「いーのいーの。ハルは気にすんな」


 もう、そうやって、自分の気持ちを隠さなくていいんだよ?兄。


「追いかけなきゃ、もうりっくんって呼んでやんない」

「へ?」

「りっくんのこと、大嫌いになってやる」

「ちょ、待っ……」

「エージさんの足元にも及ばない、ダメ男だこのやろー!!」

「ハルー!!行きます!行きますから嫌いにならないでー!」


 兄は泣きそうな顔で言った。あと一押しで、廃人になりそうな勢いだった。


「りっくん……。私ずっとりっくんのそばにいる」


 どうなったって、大好きな兄には変わりない。


「私ずっと、兄のそばでバカみたいに笑ってる」


 いつもいつも、私をそばで支え続けてくれた人。


「兄が幸せなら、私も幸せ」


 だからこれからは


「りっくんも自分の幸せ、追いかけよ?」

「……っ、行ってくる!」


 兄は『翔』を飛び出して行った。エージさんが、私の頭を撫でてくれた。その手が『よくやった』って言ってくれてる気がして、涙が出そうになった。

 里依ちゃんも、涙目だった。私は結果的に、兄を応援して、里依ちゃんの気持ちを無視した状態になったわけで。だけど里依ちゃんを鼻をずびずび鳴らしながら言った。


「感動したよー。律くんとハルちゃんの兄妹愛素敵!」

「り、里依ちゃん……」

「英司兄ちゃんももっと私を大切にしてよ」

「俺シスコンじゃねえし」

「そういう意味じゃねぇだろちょっとは空気読めよ」


 ……里依ちゃんキャラ変わってますけど。でも気付いてしまった。里依ちゃんが、誰も見てないところですっごく悲しそうな顔してること。私に気を使わせないようにしてくれてるんだろう。……なんていい娘なんだ。

 私は里依ちゃんのところまで行って、里依ちゃんをギュッと抱き締めて泣いた。私の気持ちが伝わったのか、里依ちゃんも私をギュッと抱き締め返して大泣きしてた。莉奈は私と里依ちゃんの頭を撫でて微笑んで。エージさんはたまにちょっかいを出してきた。

 子どもみたいに声をあげてわんわん泣いたから、傍から見たらすごいことになってたんだろうけど。でも今日ぐらい思い切り泣いてやろうと思った。

 今日は、兄から自立した記念日。兄を、解放してあげられた日。後でそう言ったら、エージさんに『お前はいつも泣いてんだろ』って言われた。……そこには触れないでほしかった。

 翼さんも登場した。今日は『翔』をお手伝いする予定だったらしい。


「うおっ!なんだこれ!」


 翼さんは私と里依ちゃんを見て目を丸くした。


「ハル、お前顔すご……」

「うるさぁい!」


 なんで!なんで翼さん、同じ言葉里依ちゃんには言わないの?!里依ちゃんのほうが泣いてるのに~!ちょっとだけ体を離して里依ちゃんの顔を見た。


「……」


 可愛いんですけど!顔グチャグチャでもものすごく可愛いんですけど!なんかもう違う意味で泣きたくなってきたんですけど!


「どうしたの?ハルちゃん」

「ううん、何でもないよ」

「お前可愛いなぁ」

「ギャー!」


 今ペロッて!エージさんに頬舐められたんですけど!


「しょっぱ」

「涙ですから当たり前です!」


 さっきまでちょっとしんみりしてたっていうか、ピリピリしてたのに。なにこの落差。私の人生これでいいのかってたまに思うけど。エージさんたちに出会う前より、確実に幸せ。


「……エージさん」

「ん?」

「ありがとうございます」

「チューしていい?」

「ダメです」


 兄、エージさんに出会わせてくれてありがとう。いつかエージさんが言っていた言葉を思い出す。


『律は俺らみたいなバカを救うために俺たちを出会わせたんだ』


 私たちが出会ったことで、兄も救えたなら、それは私とエージさんが出会った、最高の理由になる。兄は私のせいで、感情を隠すことに慣れたんだと思う。だからそれを、さらけ出す場所が必要なんだ。


「陽乃、お前やっぱ最高に可愛いよ」


 そう言ったエージさんはニヤリと笑っていて。私が真っ赤になるように、わざと言ってるんだと思う。意地悪で、だけど最高に愛しい私の大切な人。

 兄は、優しくていつも頼りになる、私の大切な人。

 大切な人は一人じゃなくて、しかも色んな意味があるって知った夏休み。私は少しだけ、大人になれた気がした。

 兄と希さんがその後どうなったのか、私は知らない。……気になったけれど。本当にものすごく、気になって気になって仕方なかったけれど聞けなかった。その日兄は家に帰って来なかった。希さんと一緒にいたのかと思いきや、楓さんの家に泊まったらしい。どうなったのか楓さんに聞いたけど、王子スマイルでかわされた。

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