『EA』公認ファン

 エージさんはスエットのポケットに手を突っ込んでダルそうに歩いた。足が長いから歩幅も大きくて、ついていくのが大変。エージさんは私を振り向きもせずスタスタ歩く。

 この脱ぎ散らかした服は片付けなくていいのかな……?なんてよそ見してたから、エージさんが立ち止まって私を見てたことに気付かなかった。バスっ。


「い、痛い……」


 私は思いっきりエージさんにぶつかって鼻を打った。結構強くぶつかったのにエージさんはビクともせず、ただ無表情で私を見下ろしていた。


「す、すみませ「なにが」


 そ、即答……


「ぶつかって……」

「………」

「………」

「……あぁ」


 今度は遅いし!どうしたんだろう?まだ寝ぼけてるのかな?


「…好きだよ」

「へっ?」


 す、好きって……何が?!


「さっき、答えてなかったから。一番好き」


 ………


「もしかして、バナナのことですか?」

「うん」


 それ以外に何があるの?って顔でエージさんは私を見る。そうですよね………まさか私?!なんて少しだけ思った私がバカですよね。でもわざわざこのタイミングで言わなくてもいいのに!

 エージさんはまたスタスタ歩き出した。その時思った。エージさんはきっと……すごく、不思議な人。

 スタジオに戻ると、さっきと何ら変わらない光景が広がっていた。楓さんと莉奈はソファに座って話してて、翼さんと思われる人はまだ目を覚ましていないらしい。兄は翼さんが寝ているベッドの隣で椅子に座っていた。


「おう、英司」


 楓さんがエージさんに気づいて声をかける。エージさんは特に反応せずに一人がけのソファに座った。


「ハルちゃんも座りなよ」

「あ、はい…」


 楓さんの王子スマイルを見て私も楓さんと莉奈の向いのソファに座る。


「寝起きの英司はすごかったでしょ」


 楓さんは私を見てニヤリと笑った。そう言えば行く前にそう言われたけど、普通だったような気がする。特にすごいところは……


「え……」


 首を傾げる私を見て楓さんは目を丸くする。


「普通、だったの?」

「はい、たぶん」

「当たり前だろ」


 そこにエージさんが口を挟んできた。そして「テメェらは最悪だ」ウンザリした顔をする。


「な、何の話ですか……?」

「コイツ、寝起き悪くてさ、すげぇ暴れんだよ」

「え……!」

「だからみんなコイツ起こすの嫌いなの」


 ……って、そんな危険なのに私行かされたの?!やっぱり『お詫び』じゃないじゃん!!


「それは違う。起こし方が悪いんだよ!」


 エージさんが楓さんを睨みつけながら言う。エージさんによると、3人は耳元で大音量で音楽を鳴らしたり大音量でAVを見たりくすぐったりとにかくタチが悪いらしい。


「寝起きにんなことされたら暴れたくもなるし……」


 確かに。ちょっとエージさんがかわいそうな気がする……


「あ」

「え?」


 げんなりしていたエージさんがいきなり私に顔を近づけてくる。


「な、なんでしょう……?」

「陽乃が起こしてよ」


 ……はい?ポカーンとする私に、エージさんは繰り返す。


「これから陽乃が俺の目覚ましになって」


 これは、喜んでいいことなんだろうか?あの、憧れの『EA』のエージさんが私を必要としてくれている。エージさんの寝起き姿を見れるのは私だけ……だけど私明らか使われてるよね!それに私がいない時はどうするの?!まさかここに住めなんて……


「陽乃、ここに住めばいい」


 言っちゃったー!!


「それはダメ」


 ずっと黙っていた兄がいきなり口を開いた。


「ハルにはハルの生活があんだ。エージ、あんまハルを巻き込むな」

「ちっ」


 エージさんはあからさまに舌打ちをした。そんなエージさんの頭を兄はパシンと叩く。


「いてぇ」


 エージさんはかなり機嫌悪そうな低い声を出す。


「じゃ、じゃぁ!」


 なぜかそこで私は手を挙げてしまって


「私が来た時はエージさんの目覚ましやります!」


 そう宣言してしまっていた。


「ハル、別にお前が気つかわなくても……」

「陽乃」


 兄の言葉を遮ってエージさんが私を呼ぶ。その低くて甘い声に、私は腰が砕けてしまいそうになった。


「これから、俺の目覚ましはお前だ」


 そう言って微笑まれたらもう、私を好きに使ってくださいって思ってしまう。目覚ましでも何でもいい。エージさんのそばにいたくなる……。私はコクコクと勢いよく頷いた。それを見てエージさんが優しく笑う。


「エージってある意味楓よりタチ悪い気がする」

「あぁ、コイツに比べたら俺なんか可愛いもんだ」

「天然タラシは怖ぇな」


 そんな兄と楓さんの会話も耳に入らないくらい、私の頭の中はエージさんでいっぱいだった。


「翼起こして一曲やろう」


 エージさんのその言葉に、二人は立ち上がる。雰囲気が変わった。普段から『EA』に。


「おい、翼」


 兄がベッドの上の翼さんに声をかける。


「一曲やるらしい。だから起きろ」


 翼さんはダルそうに起き上がって……私と莉奈を見て一瞬ビクッとした。だけどすぐに目を逸らして立ち上がった。そして自分のポジションに向かう。……私と莉奈にできるだけ近づかないようにしながら。

 エージさんはもちろんボーカル。兄はドラム。カエデさんがギターで、ツバサさんがベース。

 そして奏でられた音楽は、あまり音楽を聞かない私でも聞いたことのあるかなり有名な歌手の有名な曲だった。みんな、もちろんだけど真剣な顔してた。だけどどこか楽しそうで、本当に音楽が好きなんだって思った。

 カエデさんのあの王子スマイルはどこにもなくて。だけど、王子スマイルよりギターを持っているカエデさんのほうが何倍もカッコいいと思った。

 ツバサさんは私の顔を見てぶっ倒れたなんとも失礼な人だけど、ベースを持っているツバサさんはやっぱりカッコよかった。眉間に寄ったシワも、なんとなくツバサさんらしくて魅力を感じる。

 兄は……私の見たことのない、兄だった。それは当たり前なんだけど。ドラム叩いてる兄を見るのは初めてだから。だけど、私はこんな兄を見たのは初めてだった。兄はいつもヘラヘラしてて、絶対に私に怒らなくて、いつも私の味方をしてくれて。特に努力するわけでもないのに何でもできて、そんな兄と比べられるのが嫌だった私に『ハルはハルのままでいい』って言ってくれた。


『俺にもコンプレックスはある。誰にも見せねぇだけでな』


 そう、苦しそうに笑ってた。いつも私のそばにいてくれる兄の、一生懸命なところ。私はすごく嬉しかったんだ。きっと、見せないだけで必死でドラム練習したんだろう。……最近まで兄がドラムしてることすらまったく知らなかった私だけど。兄の違う一面が見れたのが嬉しい。なんだかんだ言って、私は兄が大好きだから。

 そして、誰よりも何よりも輝いてたのはやっぱりエージさんだった。私の憧れの、エージさん。

 綺麗だと思った。色っぽい声も、マイクに絡む指も、首筋を流れる汗も、細められた目も。エージさんを形作るすべてを『美しい』と思った。


 曲が終わって、エージさんが驚いたように私を見て、兄に言われるまで気づかなかった。私は、泣いていた。無意識のうちに。やっぱり『EA』はすごいと思った。こんなに素敵な『音楽』を聞いて、涙が出ないわけないよ。

 エージさんが優しく微笑んで私の頭を撫でた。『すごい』って、泣きながら繰り返す私を見て、エージさんはただただ微笑んでいた。


「ハル、泣きすぎ」


 隣に座っている莉奈が苦笑いする。だけど私の涙は止まらなかった。


「今の、俺らの曲じゃないんだけど」


 そう言ってエージさんも苦笑いする。だけど、そんなの関係ない。


「私、エージさんの声が好きなんです。大好きなんです」

「うん」

「だから、生で聞いてもう感動とか全部超えちゃって」

「うん」

「もちろん、兄もカエデさんもツバサさんもすごくカッコよくて」

「うん」

「でも、エージさんが大好きなんです……」

「うん……」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。エージさんが大好きっていうのはもちろん『憧れ』って意味なんだけど。『すごく憧れてます』って言いたかったはずなんだけど胸がいっぱいな私に、もう言葉を選んでいる余裕なんてなかったんだ。フワッと甘い香りがして、すごく体が温かくなって。耳元で、エージさんの甘い声が聞こえた。


「ありがとう」


 それを聞いた瞬間、また涙が零れた。まさか、エージさんに抱きしめられるなんて夢にも思っていなかった私は容量オーバーの胸をどうしたらいいのかわからなくなった。


「うわーん!」


 小さい子供みたいに声をあげて泣く私の頭をエージさんが撫でる。私、何してるんだろう。みんな、どんな顔で、どんな気持ちで、私を見てんだろう。だけど止められなかった。エージさんの温もりと手が、心地よかったんだ………


***


 そこは、隠れ家的なお店だった。狭い路地にヒッソリと佇むそこは、ただの民家に見える。中に入ってやっと、そこが飲食店だとわかった。薄暗い店内は狭くて、4人席が4つ。その4人席は店の右端と左端に二つずつ並んでいた。店に入って真正面にカウンター席が4つあった。その店は『翔』と言った。


 私が落ち着いたあと、『EA』のメンバーは莉奈と私を『翔』に連れてきてくれた。


「ここ、俺らの秘密基地だから。誰にも教えちゃダメだよ?」


 『翔』に入る直前、楓さんが王子スマイルで言った。秘密基地に私と莉奈を連れてきてくれたのがすごく嬉しかった。店にはカウンターに一人と、右側の4人席に二人客がいるだけだった。


「こんちは」


 『EA』のメンバーはその人たちに挨拶した。


「あぁ、みんな来たんだ」

「はい、美沙子さんと正さんいますか?」

「奥にいるよ」


 たぶん、知り合いなんだろう。フランクな話し方で、お互いよく知ってるって感じだったから。


「美沙子さん、正さん」


 兄がカウンターから店の奥に向かって言った。他の3人は左側の4人席にすでに座っていた。どうしたらいいんだろう、って一瞬悩んだ時店の奥から足音が聞こえてきた。

 先に出てきたのは女の人で、たぶんこの人が美沙子さんなんだと思う。美沙子さんはたぶんうちのお母さんと同じぐらいの年齢。若い頃すごく綺麗だったんだろうな、って顔にはシワができていて少し驚いたように私と莉奈を見ていた。

 美沙子さんの後ろから出てきたのは、失礼だけど一言で言っちゃうと『丸い』って感じのすごく優しそうな男の人。きっと、この人が正さん。正さんは私と莉奈を見て


「みんなが女の子連れてくるなんてめずらしいね」


 笑顔でそう言った。


「あ、これ俺の妹の陽乃です」


 兄は私の頭に手を置いて二人にそう言った。私は急いで頭を下げた。


「それで隣にいるのが幼馴染の早坂莉奈ちゃん」


 莉奈も二人に頭を下げる。


「これからこの二人もよく来ると思うから、紹介しときます」

「よ、よろしくおねがいします!」


 私はそう言ってまた頭を下げた。


「陽乃ちゃんと莉奈ちゃんね。覚えた」


 二人がそう言って微笑んだのを見て、私たちは3人がいる席についた。奥に座るエージさんに手招きされて、私はその横に座る。私のエージさんと逆の隣には莉奈が座って莉奈の前に兄、私の前に楓さん、エージさんの前には翼さんが座っていた。

 席に座ったと同時に視線を感じてそれを辿ると、意外なことに翼さんがいた。


「……」

「……?」


 かなり目が合ってるのに何も言わない翼さん。何か言いたそうなのに……


「あ」


 私と翼さんが見つめあってるのに楓さんが気づいた。そして、楓さんが口を開く。


「もう大丈夫?」

「え?」

「さっき泣いてたけどもう大丈夫か?って翼が言ってる」


 驚いて楓さんから翼さんに視線を戻すと、翼さんは少し恥ずかしそうにそっぽを向いてた。


「はい、さっきはすみませんでした……」


 もう、思いだしただけで真っ赤になる。あんなに取り乱して子供みたいに泣いて……。エージさんにも、迷惑かけちゃったし。だけど、俯く私の耳に入ってきたのは意外な言葉だった。


「なんで謝んの?俺ら嬉しかったのに」

「え……」


 勢いよく顔を上げると、楓さんが王子スマイルで私を見ていた。翼さんは相変わらず恥ずかしそうにそっぽを向いていたけど。兄は余計なことを言って莉奈に殴られてたけど。エージさんは鼻歌歌ってたけど。……みんな自由すぎるだろ!みんなで喋ろうとかって意識はないわけ?!まぁ、言えないけどね。


「嬉しかったんだ。俺たちの音楽を泣くほど真剣に聞いてくれるのが。まぁ、歌は俺らのじゃねぇけど。だけどいくら歌がよくても、うまくなきゃ、感動しなきゃ泣かないでしょ?」


 楓さんの言葉に、私はブンブン頷いた。


「だから、あぁ、やっててよかったなって思った。ハルちゃんと莉奈ちゃんみたいなファンのために俺ら、やってたから」


 4人ともイケメンで。容姿が普通な私にとってはそれってすごい羨ましいことだけど。イケメンだからこそミーハーなファンもいて、音楽で勝負したいのにそれとは関係ないことで叩かれたりすることもあるんだ、って楓さんは言った。


「だから、君たちみたいなファンに会うと頑張ろうって思える」


 そう言われて、また泣きそうになった。


「また泣くのか?」


 隣からエージさんが声をかけてきた。今までこっちに興味示さなかったくせに!こんな時だけズルイ。


「泣きません!!」


 私はズーッと鼻水を吸って前を向いた。


「なぁんだ、また抱きしめてやろうかと思ったのに」


 それは……ちょっと惜しいけど。


「翼さん、ありがとうございます」


 私が言うと、翼さんは耳まで真っ赤になった。いい人ばっかりだ。私の大好きな『EA』。

 そのギターのカエデさんは穏やかで王子で、だけど『処女はめんどくさい』なんて言ってしまう女好き。

 ベースのツバサさんはさりげなく優しくて私のことを心配してくれて、だけど女の子が苦手で私の顔を見てぶっ倒れた失礼な人。

 ドラムの兄・リツはいつも私の味方で絶対私に怒らなくて、だけど全裸で私に近づいて自分のモノを見せつける変態で。

 ボーカルのエージさんは泣く私を抱きしめてくれて、だけどバナナが好きで不思議で天然タラシで自由で綺麗で美しくて、私の憧れの人。

 そんな『EA』との嵐のような日々が、今……始まった。

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