第14話【運命の石】


テムズ川から枝分かれした水の流れは、幾つもの湖と湿地帯を経て、港町ライ沖のド―バ―海峡に至る。


その細い流れの1つを辿り、私は村の入り口に着いた。水の流れが嫌いな私が歩くと、そこはたちどころに、氷河の道となる。滑るように、流れるように、氷の運河を進む。


やがて、暗い夜空の瞬きとは別に、人の暮らす村の集落の灯りが見えて来る。


英国の南西エセックスにその村はある。この温暖な地域にも、冬の寒波は容赦なく押し寄せる。しかし気節は春の終わりにさしかかっていた。


秋に種を蒔き、初夏に収穫する小麦は冬を越す冬小麦。春に種を蒔き、秋に収穫する冬を越さない春小麦。


村の外れは何処までも続く丘陵地帯。この国には山と呼べるような山はない。丘の裾野に広がる田園には稲穂がそよぎ、やがて収穫の時期を迎えるだろう。


ここに立てば七つ鐘のある教会塔に自然に目が向く。チェダー朝とジョ―ジア朝の時代から、何も変わらぬ煉瓦の建物や赤茶色の木造の民家が軒を列ねる。


店先の看板や、屋号の飾りもランタンも、何1つ変わらない。此処は英国で最古の村。


昔から私が治める領地であった。


そこだけ丸い敷石の緩やかな坂道を歩く。大通りはそのまま、町の中心に建つ聖メアリー教会に続いている。


途中サイマン アンド パイマンの店を通り過ぎる。最も古い店はここと海の入り口にあるマ―メイド インだ。


黒い木枠と白い漆喰の店の外観は、ハ―フティンバ―。古き良きチェダー式建築の名残りだった。店が流行ると、他の店もそれに習い、競うように軒先に花を飾り壁に蔦を這わせた。


私が通りを歩いても、領民は私に気がつく素振りも見せなかった。私は応身を持たぬ。私がそれと願わぬ限りは人の目に、この地の領主の姿は映ることは叶わない。


裸足の女が機嫌良く、裸足で通りを歩く姿を見たなら、さぞかし人目を惹いたことだろう。


私が此処に来た事を知らせるのは、いつであろうと季節外れの雪だけだった。


雪と北風は、慌てて私の前に無垢な雪の敷物を敷こうとする。私の足取りはそれよりも早く、前へ前へと進み続けた。


もしも私の姿が見える者が人にあれば、それは魔法使いや魔女の類いに違いない。それらの者達は、私を知る者故に、たとえ目にしても、素知らぬふりで素通りするのが習わしだ。


私は今こうして、誰にも気にせず、人が住む前から治めていた領土を歩く。目覚めの散歩と洒落こんでいる最中なのだから。


私の機嫌を損ねようとする愚か者は、あの孔雀ぐらいのものだろう。


聖メアリー教会の入り口の前で足が止まる。昔、此処には確か、腰掛けるのにちょうどいい石が1つ置かれていたっけ。


それは何の編鉄もない、ただの石だった。確か人の数え年で500年。


今から何世紀も前の話だ。どういう経緯でこの石塊がここに運ばれたのか、当時の私は知らなかった。


人はそれを【スクーンの石】とか【運命の石】と呼んでいた。


なんでも代々のスコットランド王が、この石の上で戴冠式を挙げたとされる、由緒正しき石らしい。


かつては聖地パレスチナにあって、聖ヤコブが頭に乗せたという伝承もある。私は聖ヤコブなる者が何者なのか、未だに知らないままだ。


運命の石の起原は500年頃。スコット人ファーガス モー マク エルクによってアイルランドから持ち込まれた。


ファーガスはキンタイア半島付近に上陸した後、ダルリアダ王国を建国。ファーガス1世となった。


以来この石は、スコットランド王家の至宝であり守護石とされた。


846年にケネス1世が、オールバ王国の王を兼ねるようになると、運命の石もダルリアダ王国の首都ダンスタフニッジより、新首都スクーンの宮殿に移された。


これ以降スクーンの石と呼ばれるようになった。…と石が私に教えてくれた。


多分石が話す事だ。人と口よりは確かな話に違いない。私は眠気をこらえ、石の話に耳を傾けた。


このスクーンなる石は、1296年にエドワード1世によって、イングランドに戦利品として奪い去られた。


この国と王室は、昔から喧嘩が大好きで、軍艦に兵士を詰め込んで、近隣諸国だけでなく未開未踏の地まで出向いては、戦いを仕掛けた。


そうして、勝利した王家の宝物殿から得た戦利品を、まるで勲章のようにロンドンにある博物館に、今も陳列しては悦に入っているらしい。


今も昔も、私にはどうでもいい事だ。人が私の領土を侵さぬ限り私は、人の生業になど、まったく興味がなかった。


大半の季節、私は深い森の凍りついた寝所で眠りにつき、たまに目覚めては領地を散策する。


その間も陽は沈み夜は明けた。季節になれば雪も降る。人の住むこの地の変わらぬ営みを見届け、店先の品揃えに可愛い物がないか覗き込み、満足したら寝所に帰る。ただそれだけだった。


私にとって、休むのに丁度いい、この長方形の石は、森にある岩や古木と何ら変わりない。文字通り、ただの石だった。


石の回りには漆を塗られ、乾燥させた木材が積まれていた。普段この辺りでは見かけない衛士や、騎兵隊の馬が繋がれている。なにやら物々しい雰囲気がした。


降りだした雪が地面を覆い始めると、制服を着た人間達の動きが、俄に慌ただしくなる。直ちに木材は担がれ、教会に運び込まれた。


そうして今度は、私の座る石を持ち上げようと、何人かの男達が石を囲んだ。石の重さは成人した男三人分より、もう少し重量があった。


ほんの僅かだけ、宙に浮いただけで、石は直ぐ地面に降ろされた。


直ぐに目の前に、何処からか運び込まれた細い丸太が並べられ、石はその上に乗せられて教会に運ばれた。


私はその間ずっと、石に腰掛けたままだった。教会の一番奥の壁際へと石は運ばれた。私の見ている前で、石のまわりで木材が組み立てられ、やがて1つの玉座が完成した。


作業していた者や、近くで見守っていた衛士達は、互いに何か早口で話していた。椅子の設置が済むと、安堵したように玉座を暫く眺めてから、それぞれの持ち場に戻っていった。


私はこの国の王や女王がそうであるように、ぽつんと1人玉座に残された


私はこれが領主である私のために用意された玉座だと、直ぐに理解した。まだ乾きたての漆や、膠は独特の香りが残ったまま。しかし気になるほどではない。


善きに計らえ。


尻に敷いた石も、ひんやり冷たく、座り心地が良かった。見えざるとも、人は昔から私の存在を敬い、崇めて来た。


古き信仰も、私が世に生れた歳月の長さべたら、ほんの瞬きにも満たない時間に過ぎない。


「ようやく社は我を崇めるものと気がついたか」


善きに計らえ。


私は満足して頷いた。散策を終えたら、速やかに寝所に戻るつもりでいた。


「暫く此処にいるのも悪くはない」


私はその日から、新しい私の王宮に住む事にした。王宮と言うには、少々手狭な気がしたが。


古いステンドグラスも、内装も悪いものではなかった。私は此処が気に入った。


運命の石が語る。私が知らぬ太古の物語は、何時しか子守唄のように浅い眠りへと誘った。


私が短い眠りの中を彷徨う間も、雪は夜通し降り続けた。目が覚めると教会の椅子も壁もすべて氷に覆われていた。


目の前に1人の少年が立っていた。


「ああ、これが人の言う天使とかいうやつか」


まだようよう眠りから覚めきらぬ。私の眼に映るものは少年の姿をしていた。


金糸の巻き毛と蒼を瞳に湛えた美しい顔が私の顔を覗き込んでいた。


石が夕べ教えてくれた。モロッコのシャウエンの青よりも、光の光源のようなタンザナイトよりも、少年の瞳は眩しく私には見えた。


「悪くはない目覚めだ」


私は呟いた。


「お姉さん、その椅子座ったらいけないんだよ」


少年は私に言った。


「お前には私の姿が見えるのかい?」


少年は私の言葉に不思議そうに首を傾げた。


「その椅子は、皇子様が座る特別な椅子だって、父さんが言ってたから」


「あんたの方が、私にはよっぽどそれらしく見えるがね」


「お姉さんは女王陛下?」


少年の言葉に私は黙って微笑んだ。


「この椅子に座りたいかい?」


「いいの!?」


少年の瞳が俄に輝くのを私は見て言った。


「なら私の子供になるかい?坊や」


夜通し絶え間なく、お喋りしていた運命の石は、その時沈黙したままだった。

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