【エルフィン ナイトの章】

第18話【荒地にて】



まず旅人が目指した目印は、ロッテンロウにあるグリニッジ天文台だった。


天文台の目の前に白く引かれた本初子午線。ここを跨げば間もなく、昼なお薄暗い埃と霧の都が見えて来る。



公園とは名ばかりの荒地の中央に建つ尖塔、オ―ルセインツ教会を抜けて、ブラックヒ―スから、モンペリエ通りに向かう。


どこの町にも必ずある教会は、地図を持たない旅人にはよい道標となる。


見渡す限り、この広大な荒地の中にある建物は教会だけだった。ロンドン近郊にあるこの町が、寂れているのかと言えばけしてそうではない。


黒々とした泥濘の土地は、教会周辺ですら、まるで整備が行き届いておらず、芝草の一本も生えていない。


そこだけが深く切り取られた、隠り世の入口のように見えた。


テムズ河沿岸にあるロンドンの植物や、芝生に比べ何故か昔から、この土地の植物の色は暗い黒色をおびていた。それがブラック匕ースという土地の由来だった。


かつてロンドンを中心に、黒死病が爆発的に流行した時代があった。


ペスト菌は鼠からダニや蚤を媒介して、やがて人間へと感染し、ロンドン市内の路上に夥しい数の屍の山を吐き出した。


遺体の処理に苦慮した英国政府は、この地に巨大な穴を掘り、集めた遺体を埋めた。歴史あるロンドンの街ならば、掘り返せば、遺体など幾らでも出て来る。


あのロンドン橋でさえ、橋の両側は墓で多くの屍が今も埋められていた。


そんな事には昔から慣れっこの市民や、この町の住人や政府でさえも、ペスト菌の感染者が埋めらたこの土地の上に、何かを建設するのは憚られたのだろう。


ぽつんと荒地に唯1つ立つ教会が、それを物語っていた。


その時代の国王チャールズ1世の王党派軍は、勃発した内戦に於て、王室に反旗を翻した議会派軍に悉く、敗北を喫した。


マーストン ムーアーの戦いに勝利し、武勲を上げた清教徒オリバークロムウェルの命により捕らえられ、軟禁されていた国王は後に処刑された。


この年英国王室は、クロムウェル等議会派議院の手により事実上廃止となった。


英国に王室なき時代。清教徒革命の余波を受け、フランスからスコットランドに亡命していたチャールズ2世は、スコットランド王室の後楯を受け、スクーンの石が嵌め込まれた玉座にて戴冠式を執り行い、王位を継承した。


後に英国に帰還し、王政復古を唱え、再び国王の座に就いた。


チャールズ2世は王位を取り戻してなお、父である国王を処刑したクロムウェル一派に復讐心をたぎらせた。


既に死亡して、ウェストミンスター教会の墓地に埋葬されていたクロムウェルと、残り2人の首謀者の遺体を墓から引摺り出し、裁判にかけた。反逆者として、遺体に死刑宣告を受けさせたのだ。


そしてクロムウェルは、新たに新設された悪名高きロンドンの処刑台、ワイバーンの木に最初に吊るされた罪人となった。


吊るされたクロムウェルの遺体は後に胴体から切り離された後、首はミンスターホールの屋根に4世紀半晒された。一説によると残された胴体は、このブラック 匕ースの土の下に、疫病患者の遺体と共に投げ込まれたという逸話が残されているが、それは定かではない。


ウェストミンスター教会には、今も空っぽになったままの、オリバー クロムウェルの墓が残されている。


ロンドンにあるワイバーンの処刑台と、ブラック匕ースの土地には、そうした浅からぬ因縁があった。


黒死病が蔓延した時代と前後して、ロンドンでは後にビッグ ファイヤと呼ばれる未曾有の大火災が起きている。


大火はロンドン市内を中心に、セントポール寺院をもまるごと焼き尽くした。


この歴史に残る大火災は、黒死病同様に、街を呑み込み多くの死者を出した。その遺体も総てここに埋められた。

それは歴史的事実である。


しかし英国民の間では、ロンドン大火災の火元となった原因についての噂が、昔も今も真しやかに囁かれて来た。


「ロンドン大火の首謀者は英国国王チャールズ2世様、御本人ではあるまいか」


いっこうに鎮静化の兆しを見せず、伝染病による死者は日々増大し、国益は衰頽の一途を辿った。


それに業を煮やした、新国王はロンドン全域に火を放つように命じた。


火元となったパン屋が、英国王室御用達の店であった事も、噂に拍車をかけた。


それも今となってただの流言であり、とうに廃れた噂に過ぎなかった。


そして大火以降、ロンドンは大きくその様相を変えた。それまでの木造の建物は姿を消し、石造りの建物が街を埋めつくすように次々と、焼跡に建てられた。


外敵であろうと、反逆者であろうと、易々とは王宮には侵入出来ぬよう、依然より曲がり角や、狭い路地が此処彼処にある。迷路のような都市が完成した。今なおその街の姿は変わっていない。


荒地に立つ教会には、大ロンドン建立の礎となった、死者たちへの鎮魂の意味が僅かでもあるのだろうか。


教会は何も語らず、静寂の中にあった。


旅人は足を止めることもなく、振り返ることもせず、荒地を通り過ぎる。


もとより、この国に生を受けた人間ではない。歴史にも、建物にも、人の噂にも一切興味がない。国籍すら持たない。


その男は目的のために、ただそこを通りすぎるだけの文字通りの旅人であった。


たとえ鉄騎兵の衣装を誇らしげに身に纏い、首から上が無惨に切り落とされた男がそこに立っていても。


黒死病に侵された老若男女や子供たち、焼けて爛れた皮膚の死者たちが荒地に溢れ、教会の屋根にまで群がり、ただ此方をじっと見ていたとしてもだ。


荒地の終わりには町と、その境い目となる、大きな森が見える。森の名前はルイシャム。


旅人の男はその名前だけ知っていた。


昼なお暗く、そこだけ剥がし損ねた夜の暗闇のような森。


昔から人の立ち入らない場所だった。


初めて土地を訪れた人間や旅人に、ブラック 匕ースの人間は必ず言った。


「森には入るな」


同じ言葉を子供のうちから、両親や祖父母から嫌というほど聞かされて、この土地の人は育つ。


「理由は?」


そう聞かれても、実際年寄りでさえ誰も理由を知る者はいなかった。


ルイシャム森の奥には、男の主の屋敷がある。そこには誰も立ち入れない。


主が決めた日からそうなっていた。主はこの土地の領主ではなかった。


このロンドンという土地を取り仕切る、領主のような者は他に存在していた。


彼の主は屋敷の所有者というだけで、実際はそこに住んではいない。そうした屋敷や土地を、英国の至るところに所有していた。しかし何処に住み着くこともしなかった。


いつも忙しく、こうしたいわくのある土地に建つ建物を探し、買い漁っていた。


主の所有する屋敷に立ち寄り、長旅の垢を落として、体を休めることも出来た。


しかし男は森に立ち寄ることもなく、行く先を急いだ。


男が目指すロンドンシティは、もう目と鼻の先にあった。





その日の正午、ロンドンは、いつも通り快晴とは言えない。スモッグの煤煙は郊外までは及ばず、秋晴れの快晴だった。


少なくとも、ここブラックヒースでは、雷や雨が降ったという観測記録は残されていない。にも関わらず。


「雷だ!雷が人に落ちたぞ!」


通りにいた人がそう叫ぶほどの爆音と、一瞬の眩い光に包まれた男が、俯せになって道に倒れている。


通行人に落雷が直撃した。避雷針ではなく通りを歩いていた人間を直撃した。


周りにいた人間は誰もがそう思った。


「あんた…大丈夫かい?」


これから街に行商に出かける仕度をした老婆が、男に駆け寄って声をかけた。


この辺りでは見かけない。旅人とおぼしき格好の男に、老婆は怖々声をかけた。


「おお、神様…なんてことだい」


男の服の端々が焦げて、体から白煙が出ている。


「かわいそうに…こりゃ助かる道理がねえ」


「なんて、ついてない」


「いや待て、あいつ雷に自分から突っ込んだぞ」


人々は道に横たわる不運な旅行者を、憐れみと好奇な目で見ていた。


「というか…なんか、急に駆け出したんだ」


そう説明する男もいた。


「俺には雷に打たれる前から、光って見えた…確かだ!この男の体光ったんだ」


群集は徐々に男の周りに集り始めていた。


「セージ…」


俯せの男の口から、そんな呻き声が漏れるのを老婆は聞いた。


「生きてる!?この人生きてるみたいだよ!」


「パ…セ…ジ」


「この人なんか言ってるよ」


「いいから医者を呼んでやれ!」


パッセージ…タイム。そう男は呟いた気がした。けれど老婆には男が何を言ってるのか理解出来なかった。


「いてて」


男はそう言って突然立ち上がった。


「ちくしょう…えげつねえもん仕掛けやがって…」


男はしきりに首を振り、何事もなかったかのように、服の土と埃を払っている。


「一体どんな化物飼ってやがるんだ」


なにもない虚空と、丘の上から見渡せるロンドンの街に目をやりながら、男は言った。よく見れば、まだ少年とも言えるようなあどけない顔をしていた。


「あんた…顔が」


老婆にそう言われ、男は白い歯を見せて笑った。


「これは生れつきだ!」

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