たからものー肆 言祝ぎ

 時刻はまもなく午後八時を迎えようとしていた。

 ノートパソコンを開いていた光は、環奈のベッドを背もたれにうつらうつらとうたた寝をしている。枕元には、幾度か寝がえりを打ちながらまどろむ文次郎の姿。

 長い睡眠を経てひらいた環奈の目に、一番に飛び込んできたのがその光景だった。

「……光クン、もんじろ」

 ぼそりとつぶやく。

 わずかに掠れた声が、長い昼寝を物語っていた。

 その声に反応した文次郎が飛び起きた。クンクンと鼻を鳴らして環奈の顔面をくまなく舐める。くすぐったいよ、と環奈がわらうと、こんどは光の肩が跳ねた。

「わ、寝てもうた──あれ」

「あははは、もんじろ……くすぐったい」

「か、環奈ちゃん!」

 あわてて文次郎をベッドからおろし、ずいと環奈を覗き込む。

 寝すぎたためか顔色はすこし青白くなっていたが、どうやら気分の悪さ等はなさそうだ。光はほう、と長い息を吐いた。

「や、やっと起きたァ」

「光クン──ゴメンね。心配かけちゃったのネ」

 と環奈は上半身をゆっくりと起こす。

「ええよ、もうええ。環奈ちゃんがぶじやったらもうなんでもええよ。具合はどう?」

「だ、ダイジョブ。もうすっかり……寝すぎちゃって頭いたいくらい。かんなどのくらい寝てたの?」

「んっと、六時間くらいかな。時間的に見たらたいしたことないように思えるけど、なにしても起きひんもんやから病気かと思っちゃったよ。よかった」

 ハチくんを呼んでくる、といって光が立ち上がったときである。

 環奈の部屋のドアが開いた。

 息を切らした八郎が中を覗いている。

「あっハチくんちょうどよかった。環奈ちゃんが」

「かんちゃんッ」

 聞く耳もなく、八郎が環奈の首に抱きついた。

 そのいきおいで頭を壁に打ちつけ、痛みに肩をふるわせた環奈だったが、八郎がそれ以上に肩をふるわせるものだからもはや痛みどころではなかった。

「はっちゃん、ゴメンね。心配かけちゃってゴメン」

「かんちゃ、……よかった。よかったァ──」

「…………」

 ──脳裏によぎる、虚像の八郎。

 やはりあれはただのまやかし。そんなこと、目を覚ませばすぐにわかることだったのに。環奈は申し訳なさといとしさでおもわず口角がゆるむ。

「あ、あの。はっちゃん」

「うん?」

「シュウくんは?」

「あ、下にいてるで。実はさっきしゅうと先生が目ェ覚ましたもんやから、きっとかんちゃんも目ェ覚ましたんちゃうやろかと思って見に来てん。呼んでこようか」

「ううん。……かんながいく」

「大丈夫?」

「ウン」

 固まった身体をほぐしながら、環奈はゆっくりとベッドをおりた。

 八郎と光に見守られながら一歩一歩階段をくだる。その先にある居間からふたりの話し声が聞こえてくると、環奈の心臓がどきんと大きく跳ねた。

「…………」

 そっと居間を覗く。

 なかには、ソファから身を起こして膝を立てた高村と、もうひとり──。


「シュウくん」


 ソファの前で首に手をやる柊介の姿。

 環奈はちいさな声で呼びかけた。

 が、その声は柊介に届いていたらしい。パッとこちらを見て、わずかに目を見開いている。

「あ。……起きた」

「……ウン、おきた」

「────」

 まだ寝起きのようすで、ぼんやりとこちらを見つめてくる。

 その柊介の視線がみょうに気恥ずかしくて、環奈はうつむきがちにソファへと近づいた。

 

 ええと、と高村はおもわず口元を隠す。

「それじゃあ俺はこれで帰るとしよう」

「あっ、あ。むっちゃん!」

 環奈が縋るように高村の袖をつかむ。

「ありがとう。ホントにホントに……ごめんなさい」

「それを言う相手は俺やなかろ。ま、さんざ寝飽きたかもしらんけど、今日はゆっくり休みなさい。業平や小町も今宵はたいへんよく頑張ってくれたから、また後日改めて礼を言うんやぞ。俺はすこし八郎と話をせなあかんから、これで」

「ウン──ありがとう」

 柊介もしっかり休みや、とあっさりわらって高村はさっさと居間をあとにした。


 残された環奈と柊介は一瞬視線を交わすが、しかし気恥ずかしさから互いにすぐ逸らしてしまった。環奈はこういうことを意識しないヤツだと思っていたために、柊介の気まずさもひとしおである。

「体調は?」

「だ、ダイジョブ」

「そう」

「…………」

 なぜだろう。

 いつもは真正面から見据えていた柊介の顔が、なぜだかどうして直視できない。うなじや耳が熱くなる。

「あの、」

「ひとつ聞いていい?」

「あっ。なぁに?」

 反射的にパッと顔をあげた。

 そして目を見開いた。なぜなら、顔をそむけている柊介の耳も赤かったからである。

「お前、チビやったときの記憶もあんの」

「チビ?」

 とは、虚像のことばにふるえていたときのことであろうか。環奈としては、自分の姿が小さかったという認識はないのだが、話を聞いてみるとどうやらそのときのことらしい。環奈はうなずいた。

「うわ……」

 と柊介がうなだれる。

 当然だ。熱烈な告白をしたようなものである。が、しかしそうなればもはや引くわけにはいかない。

 柊介は膝を立てて、そこに顔を埋めた。

「……夢でいったこと」

「…………」

「ぜんぶホンマのことやから」

「──うん」

「ハチ、お前のこと待ってたやろ」

「うん」

「ちゃんと、俺、みんなも、いるから」

 もう怖くないから。

 といって柊介は前髪をくしゃりとかきあげて、立ち上がる。

「…………シュウくん」

「帰る。光も連れてくわ」

「シュウくん」

「なに、ッ」

 がくんと体勢が崩れた。

 環奈が思いきり柊介の袖をひっぱったのだ。よろけた柊介の顔が下がったとき、環奈がその頬を両手でつつむ。

 りんごのような頬に、かつてないほどに瞳をうるませて彼女はいった。

「シャーペン」

「…………」


「かんなもシュウくんのシャーペンほしい──」


 と。

 それに対して気軽にことばを返せるほど、柊介の心に余裕はなかった。だから、およそ二分もかけてやっとこさ返した言葉は、

「は、はい」

 という色気のない回答ひとつだけ。


 修学旅行のカバンのなか、筆箱に入っていた青色のシャーペンを渡す柊介は気恥ずかしいやらなにやらで、一度だって彼女の顔を見ることはできなかった。


 ──。

 ────。

 その夜。

 

『逢ひみての のちのこころに くらぶれば

         昔はものを 思はざりけり』


 柊介の夢にてあらわれた。

 その言霊を蒐集すべくやってきた篁は、ひとりうれしそうにほくそ笑む。


「まったく──」

 見ているこっちがかゆくなる。

 どこかで聞いたことばをそのままつぶやいて、篁は和歌とともにふたりの幸せを言祝いだ。


※ ※ ※

 ──あなたと契りを結んでからのちの、

   わたしの恋しい心に比べたら

   昔の想いなど、

   無きに等しいものだった。──


 第四十三番 権中納言敦忠

  題知らず。

  恋しい人と想いを遂げた心の

  胸のせつなさによりて詠める。

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