暗雲の兆しー参 ねむり病
※
文次郎のようすがおかしい。
ということに気が付いたのは、環奈が朝寝坊をしたときだった。
「もんじろ……?」
いつもならば起こしにくるはずの文次郎が来ない。階下にくだって寝床を覗くと、彼はいまだにすやすやと気持ちよさげにねむっていた。
もうすでに朝飯を食べ、散歩に行ってもおかしくないほどの時間なのに──である。
今日は日曜日。
光はまだ眠っているらしい。あわてて環奈は階段を駆け戻り、光のねむる部屋に飛び込んだ。
「光クンッ」
「おわァ」
客用布団にくるまった光の上にダイブする。案の定、彼は飛び起きた。
目の前におんなの影を見つけたために条件反射で伸びた手を、環奈と気付くやゆっくりと引っ込める。
「おはよう──情熱的に起こしてくれるんやね、環奈ちゃん」
「おはよう光クン。あんね、あのネ。大変なの。もんじろ、ぜんぜん起きないの」
「え、また?」
昨夜はあれから夕飯時に一度起き出して、眠気眼のままにご飯をかっこむとふたたび眠りについた。その時刻は午後七時ごろだったと考えると、すでに十時間は経過している。
犬はよく眠るとは聞くが──とはいえ寝すぎである。
とにかく起こしてみよう、とふたりは眉をひそめてうなずいた。
────。
あれから七時間。
もはや散歩での排泄も、朝飯すらもなにもせぬまま──ここまでぶっ通しで寝こけている。光は文次郎の腹を撫でた。
「病院行ってみよか。いきつけの動物病院ってある?」
「ウン。診察券とってくる!」
「日曜日も見てくれるかなァ」
「ダイジョブ!」
環奈が診察券を確認したらしい。さいわいなことに日曜日の診察もおこなっているとのこと。ふたりは光の車に乗ってすぐさま『石橋動物病院』へと向かった。
「こいつァ不思議なこともあるもんや」
老年の獣医、石橋重夫が眉を下げる。
文次郎を飼ってからおよそ五年、ふだんの体調不良も予防接種も、はたまた去勢手術だってこの石橋が担当してきた。そんな親交深い文次郎がなぞの眠りから覚まさないとなると、ただごとではない。
「いまだに飯もなんも食うとらんのか。おしっこもしてへんで──膀胱が膨れとるわい」
「どうすればいーい?」
「体調がわるいわけでもなさそうやし、起こしてやりゃあ問題あらへんねんけどなあ」
「ウーン……」
そういわれても、と環奈は肩を落とす。
この時間になるまでさんざんいろんなことを試してきたのだ。耳元で爆音を聞かせたり全身を撫でまわしたり、顔に水だってかけたのになおも起きる気配がなかったのだから。
「ほんならこれはどないや」
石橋が文次郎の腹をぽんぽん、とたたく。
そして大きな耳を指でつかむと口を寄せた。
「ようし文次郎~、だーいすきなお注射しよかァ」
ピク、と文次郎の耳がうごいた。
それから十秒ほど、おだやかだった寝顔がぴくぴくと険しく歪みだす。
環奈と光がごくりと息を呑むなか、やがて文次郎の瞳がうっすらとひらいたではないか。
「も、文次郎ッ」
と。
環奈が飛びついた拍子に文次郎はびっくりして、とうとう身体ごと飛び起きた。
「うわぁーんッ、よかった。よかった……」
「なんやずいぶんとお寝坊さんやないか文次郎、心配したで」
と、光も文次郎の顔を撫でまわす。
何事かと目を白黒させていた文次郎だが、ハッと石橋重夫の存在に気が付いた。そのとたんに逃げ出そうと診察台の上をじたばたと動きはじめる。
「ああよかったよかった。あれやな、原因がわからへん以上はまたいつぱったり眠ってしまうかもわからん。はようトイレさせて飯を食わせとけ。そんでまたなにかあったら、連れてきなさい」
「ウンッ」
瞳をうるませた環奈がうなずく。
すでに尿意をもよおしていた文次郎は、病院を出るなりたんまりと小便をした。その後まもなく排便もできたが、そのかたちのよい便を見るかぎりではどこがわるいというわけでもなさそうだ。
おまけに食事に関してのがめつさも健在のようで、道の端で持参したご飯をあげると一瞬でぺろりと平らげるほどだった。
「いったい、なんやったんやろね」
「ウン……どうしよ、またねむったまま起きなくなっちゃったら」
「そしたらまた、石橋さんに起こしてもらお。僕やったらいつでも病院連れてったるから」
「……うん。うん、ありがとう光クン」
「さあ帰ろ」
と、光は駐車場に停めた車のドアをあける。
食後の水を飲ませたのち、環奈も文次郎を抱えて後部座席に乗り込んだ。
車の揺れに耐性のない文次郎はクンクンと鼻を鳴らしていたが、満腹感のせいか、あるいはこの眠り病によるものか──いつのまにかふたたびぐっすりと寝入ってしまった。
「あれだけ寝たのに、また寝ちゃった……」
「とはいえむりやり寝かさへんっちゅうのもストレスやろうしね。とりあえずは排泄も飲食も出来たわけやし、もうちょっとようす見てみよう」
「ウン……」
こっくりとうなずく。
(この家には、いつだって──)
文次郎がいるから。
だから環奈はさみしくないのだというのに。
胸に走る焦燥感がくるしくて、環奈は腕のなかでぐっすりとねむる文次郎をいま一度ぎゅうと抱きしめた。
※
「はァ~もう最ッ高!」
三日目の夕食後。
松子が、宿泊部屋の布団の上をころがりながらさけんだ。
本日の自由行動で、堀江健太郎とともに坂上にある亀山社中跡地などの歴史的名所をめぐったなかで天にも昇るような出来事でもあったのだろう。詳細こそ口にはしないが、その表情や行動でだいたい察することができた。
風呂支度をする春菜が「ちょっとちょっと」と眉をひそめる。
「松子ォ。アンタがしあわせなんはわかるけどサ、そうでもない人もいてるんやから……そういうのはひとりになったときに存分に堪能してや!」
「だってみんなに聞いてほしいねんもん。きょうイヤなことあった人はホンマに申し訳ないッ、でもちょっと今日だけ我慢して! きいて!」
「……うちは、松子のそういうところが好きよ」
「私も」
春菜はともかくとして、本日実質的に恋をあきらめた京子も朗らかにわらってうなずいた。
なにがあったん、と興味のかけらもなさそうな声色でいったのは恵子である。ぐっと引き締まった腹筋をさらしたまま就寝前のトレーニングをはじめている。
「ウン、それがね。亀山社中に行く途中ってめっちゃ坂あんねんけどね、階段のぼるときは絶対あたしのうしろから来るのに、おりるときは絶対あたしの前に来るの! やばくない? スパダリってこういうことやろ。もう興奮しすぎて妊娠するかと思た」
「感性キモッ」
「なんでよ!」
春菜がケタケタとわらう。
フッ、フッ、と息を吐きながら背筋を鍛える恵子は、ちらと京子を見て「みんな」と息を切らしながらも口角をあげた。
「充実した、修学、旅行で、よかったねッ」
「春菜はぜんぜん充実してへんッ。あー好きな人ほしい!」
「ていうかさあ」
ようやく冷静になったらしい。
松子は転がることをやめて、上半身をむくりと起こした。
「恵子はけっきょくのところ──千堂のことどう思てんの?」
「千堂? なんで」
恵子が動きを止める。
エッ、と松子の頬がひきつった。
「えーと。いやほら、かわええとか言われとったし」
「えーッ。なにそれそんなに発展してたん! 春菜聞いてなーい」
「…………」
部屋の空気がわずかに冷える。
恵子の機嫌がわるくなった証拠だ。松子はあわてて「ごめんて」とわらった。
「でもさでもさ、千堂くんから告白されたら恵子はどうするん。付き合うのー?」
「無理」
「えっ」
息つくひまもないほどの即答だった。
お茶を飲んでいた京子は噎せるし、春菜は目を大きく見開いて絶句している。かろうじて言葉をつむげたのは松子くらいだった。
「なんでなんで、千堂めっちゃええやつやん」
「じゃあ松子が付き合えば?」
「な、なんでそういう話になんねん」
「恵子。もしかして好きな人いてるの……?」
息をととのえた京子が問う。
恵子の頭がぴくりと動いてゆっくりと京子に視線が向けられた。その眼が少し寂しそうな色を湛えているようにも見えて、京子がごくりと喉を鳴らす。
「べつに、そういうことやないけど」
「…………」
これ以上の詮索はよくない──。
と、敏感に察知した松子の「てかお風呂行かへん?」というひと言で、この話は打ち切りとなった。
(…………)
トレーニングを終えたら入る、といって部屋にひとり残った恵子。
わずかに開いた窓から入ってくる秋風が、トレーニングによって火照った肌を冷ましていく。サワサワと風に揺られる竹の音が心地よい。
男女の付き合いに興味はない。
だから、好きな人を問われたときに一瞬脳裏をよぎった顔だって、気のせいでしかない。
気のせいでしかないのだ。
「あっちィ……」
つぶやいて、火照った頬に垂れた汗をぐいとぬぐった。
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