胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

序ー壱 事始


 昔むかしの話だが ひとりの歌人がおったとか

 彼は晩年死の際に とある願いを胸に秘め

 百の歌人が遺した歌を 選びに選んで配置した

 紅葉みだれる小倉山

 その地で生まれた百人秀歌は 小倉百人一首 と伝わった


 恋も自然も人の世も すべて詠まれたこの歌集

 栄枯盛衰の常の世に 不滅の名作と謳われる

 百人一首の生み親は その名を藤原定家という


 ※

「おんなの子がおしえてくれたンよ」

 と、彼女は云った。

 真赤な着物の袖から覗く真白な手指が、虚空を指さしている。が、鬱蒼と茂る草木のなかに彼女が指し示すものはどこにもいない。

 ──昔から、彼女はすこし人とはちがった。

(いたい……)

 ぼくの左手がじくじく痛む。

 こぼれそうな涙が彼女の顔を見てさらにこみ上がった。

 しゃくりあげて、ぼくは彼女の腰に抱き着いた。

「怪我したのね。ダイジョブ、ダイジョブ」

 彼女の手がぼくの左手を包む。その拍子に、どくどくと湧き出ていた血が地面に落ちた。


 それは、突然のことであった。

 つむじ風が巻き起こったのである。

 いっせいに周囲の落ち葉が舞い上がり、細く立ち昇る旋風のなかに巻き込まれてゆく。


 このときぼくの視界は涙でゆがんでいたため、何が起きたのかはわからない。

 ただ、風の勢いでわずかに浮かんだぼくの身体を、彼女が庇うように抱きしめたことはわかった。

 風速に抗えず、ぼくたちはぎゅっと目をつぶる。


 ごうごうと耳元で唸る風。 

 その刹那、風の音にまぎれて聞こえたのは、獣の雄叫びだった。

 

 ぼくは好奇心に負けた。

 薄目をあけて彼女の肩越しから、見た。


 つむじ風を縦に切り裂くように地面から飛び出してきたもの。

 ──真っ黒い、獣のような影だった。


 影のなか、琥珀色のなにかがぎらりと光る。

 瞳、か?

 恐怖のあまりに喉がひきつる。

 それに気付いた彼女が、くるりとうしろを向いた。


「あ、──…………」


 彼女がなにかをつぶやいた瞬間。

 ぼくは意識を失った。


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