働く理由はおいなりさん
第23話心の栄養いなり分
幸せというのは長くは続かない。
幸せは突然終わってしまうのだ。……いなりのように。
「嫌じゃー! 妾寂しくて死んじゃう! お留守番したくないのじゃー!」
玄関で、俺のリュックにしがみつき駄々をこねるいなり。
本日月曜日。
社会人である俺は会社に出勤しなければならないのだが、いなりにお留守番と告げるや否や、俺の着替えの妨害やドアを塞ぐなどなどあの手この手で遮る。
着替えの妨害時には俺の着る予定だったパーカーを奪い取ったので、だぼだぼのパーカーを着たいなりの腰元からちらちらと赤い紐が見え隠れしている。
それだけで前屈みになりそうなので妨害としては大成功だろう。
「俺もいなりと一緒に居たいけどさ」
「そうじゃそうじゃ! 妾うさぎのように寂しくて死んじゃうのじゃ」
「狐が何言ってんだ!」
いなりは自身をうさぎだのとのたまって、俺は思わずツッコミをいれた。
まあ、本当にさみしいのだろう。その気持ちはわかる。
俺もそうだから。
「むー、尋は妾をひとりぼっちにしても平気なのか?」
む、その言い方はずるい。あとその上目遣いもずるい。
目をウルウルさせて見つめるいなりに、俺の心は揺れ動いた。
や、休んでも構わないんじゃ……。い、いや、いかん。
惑わされた心を戒めて首をブンブンと横に降る。
「いなりをひとりぼっちにするのは心苦しいが、いなりと一緒に暮らすには仕事をしなければならない。ご飯を食べるにも服を買うにもお金がいる」
俺は諭すようにいなりに伝えるが、いなりは未だ不満そうで釈然としない顔をしている。
もう一押し必要か。
「ちゃんと待っていられるなら、いなりの為に俺が出来る事はなんでもしてあげるから!」
なんでもしてあげる。そう言った瞬間、いなりの耳がピンと立ち、反応を示した。
耳ざといな。
「ほ、本当か? 二言はないか?」
「ああ。出来る事ならな」
念押しするように確認するいなりに、出来る事ならすると約束する。
何をお願いする気だ? ちょっと顔が赤くなってるけど。
「だっ、だったら、その、ち、チューして欲しいのじゃ。朝と、夜と……」
いなりは人差し指同士をつつき合いながらもじもじと呟くように言う。
可愛すぎるだろうちの妻! と、思わず叫びたくなる気持ちを抑える。
冷静になれ。にっこりと微笑みかけ、もちろん。と告げるんだ。
俺は、カッコよく決められるよう脳内シュミレーションをして口を開いた。
「も、もも、もちろん」
しっかり噛んでにやけてしまうあたりカッコつかない。
だって動揺したしニヤけるくらい嬉しいんだもん。と誰に言う訳でもない言い訳を頭の中でぼやいて反省はしない。
「じゃ、じゃあ……」
いなりは目を瞑って唇を俺に向ける。
心臓の音がバスドラムのように部屋中に響き渡ってるような錯覚。
昨日もしたのに、未だ慣れない。
多分慣れる事はないんだろう、俺はずっといなりにドキドキしてしまう。
半ば緊張する自分に諦めつつ、覚悟を決めていなりの唇に自身の唇を押し付ける。
柔らかなその感触に俺の幸福指数は急上昇。
天にも登るとはこの事だろう。
「こ、これでいいか?」
「う、うむ! 尋分を補給したのじゃ!」
「なんだ、その尋分って」
「尋分は妾の栄養じゃ! なくてはならないものじゃ! ……だから、尋分不足になる前に早く帰ってきてね」
いなりの唇がもう一度近付いてきて、今度は俺が唇を奪われていく。
……俺もいなり分不足になる前に早く帰ろう。
心をパンパンに満たした充足感を胸に、俺はリュックを背負ってそう決意した。
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