第44話 レシピ本をつくりたい・10
「……メインが五つ、スープ系が三つ、デザートが二つ。これくらいのバランスでいいかしら」
「はい。いいと思います」
「あとはイラストね。写真があれば簡単なんだけど、あいにくこの世界にはないから。目の前で料理を作ってもらって、その工程と完成図をイラストにしてもらうことになると思うわ。大丈夫かしら?」
「はい、定休日や休みの日を使えば大丈夫だと思います」
「ハンバーグと野菜の煮物、クッキーは入れるとして、あとのレシピは」
「まだ考案中ですが、食堂で出して好評だった料理がいいかな、と思っています。葉パンケーキとかも好評でしたね」
そう言うと、由依は目を輝かせる。
「パンケーキ……。もう五年も食べてない。好きだったのに」
「……もしよかったら、今度お作りしましょうか?」
「ぜひ!」
それからはもとの世界の話や、食べたいものの話で盛り上がった。
「わたし、向こうでも喫茶店に勤めていたんです。大抵のものは作れると思います」
「本当に? 私は料理が苦手で……。琴子と知り合えて、本当に嬉しい」
そう言って琴子の手を握り締めた由依は、ふいに真顔になった。
「琴子、ありがとうね」
「え?」
「アドリアンを救ってくれて」
「いえ、わたしなんか何も。いつも助けてもらってばかりで」
慌てて首を振る琴子に、由依は笑顔を向ける。
「いいえ、彼を救ったのは間違いなくあなたよ。とても綺麗な顔をしているけど、いつだって生気のない人形のようだったアドリアンが、あなたと出逢って変わったもの。ジークもずっと気にしていたけれど、どうにもできなかった。それをあなたが変えてくれたの。本当に感謝しているわ」
「……そんな。アドリアンさんが過去を乗り越えることができたのは、アドリアンさん自身の力です。わたしはただ、少しお手伝いをしただけで」
「それでもお礼を言わせて。不幸にも異世界召喚に巻き込まれてしまったけれど、あなたがこの世界でしあわせになれるように、私も精一杯、力を尽くすわ」
由依はそう言ってくれた。でも琴子は、複雑な思いで首を振る。
「わたしは、もとの世界に帰らなくてはならないんです」
それがいつになるかわからない。
でも、この世界は琴子を招き入れたわけではない。いつどうなるかわからないのだ。それを伝えると、由依は悲しそうに唇を噛み締める。
「琴子、ごめんなさい……」
「由依さん?」
「もとの世界には帰れないの。こちらの世界に来ることはできても、向こうの世界に帰ることはできない。一方通行なの」
「え……」
突然聞かされた事実に、琴子は呆然として由依を見つめる。
「私も召喚されたとき、どうしてももとの世界に帰りたくて、色々と調べたわ。そこでわかったことは、帰る方法はないということだけ。過去にも何人か、この世界に来てしまった人がいる。でも、帰ることができた人はひとりもいないわ」
「……帰れない、んですか?」
「ええ。酷なことだけど、事実よ」
帰れない。
両親にも兄にも、もう二度と会えない。
大切だったレシピサイトにも、アクセスすることができないのだ。
そう思うと、涙が頬を伝う。
「ひどいことを言って、ごめんなさい」
由依が琴子を抱き締め、繰り返し謝罪してくれる。
「いえ、由依さんのせいではありませんから。ただ少し、驚いて。……まさか、帰ることができないなんて思わなかったので」
そう言ってみたものの、大切だったものがたくさんある。それを急に手放さなければならないと知って、心が激しく乱されていた。
「もっと気を遣って伝えるべきだったわ。琴子、部屋で少し休んだほうがいいわ。歩ける?」
「……はい。すみません」
由依は王城にある客間を用意してくれた。気持ちの落ち着くお茶を淹れてもらい、それを飲んで、勧められるまま休むことにした。由依は心配そうだったが、彼女も王妃として多くの責務がある。琴子が大丈夫だと笑顔を向けると、心配そうな顔をしながらも、またあとで顔を出すからと去って行った。
琴子はソファーに横たわり、目を閉じてゆっくりと気持ちの整理をする。
由依の言葉は衝撃的だったが、それでも少しだけ、覚悟はしていた。どうやってここに来たのかわからない以上、帰る方法もわからなかったのだから。
「泣いても仕方ないわ。だって、状況が変わるわけではないもの」
そう呟いて、目を開く。
こうなってしまったのは、誰が悪いわけでもない。もちろん、琴子のせいでもない。
ただ運が悪かっただけ。
この世界に来たときも思ったが、喫茶店が閉店し、レシピサイトも友人に託した今で、よかったと思うしかない。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃん。急にいなくなってごめんね。里衣ちゃん、結婚式に行けなくてごめん。沙織、レシピサイトを託したままでごめんなさい。できれば継続してくれたら嬉しいです」
届くはずのない言葉を口にする。
「よし、泣くのはもう終わり。この世界でどう生きていくか、それを考えなきゃ。まずはレシピ本を完成させて、それからは……」
この世界で生きる。
そう決めた途端、浮かんできたのはアドリアンの顔だった。この世界で生きていくことはできないと、彼の告白を断ったのは琴子のほうだ。今さら、振り向いてほしいなんて虫の良すぎる願い。でも、琴子は自分の気持ちを偽ったままだ。本当は愛していると、初めて人を好きになったのがあなただと、伝えることは許されるだろうか。
(アドリアンさん……)
失恋してもいい。ちゃんと伝えよう。
そう決意した琴子は、再び目を閉じる。
色々なことが一度に起こって、さすがに疲れていた。少しだけ休んだら、由依に礼を言って、アドリアンのもとに帰ろう。
(今度こそ、ちゃんと伝えるわ。私もあなたのことを愛してるって……)
ゆっくりと意識が途切れていく。
琴子は客間のソファーに横たわったまま、眠ってしまっていた。
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