第28話 充実した異世界での日々・10
「……そう、ですか」
自分の子どもを殺そうとした人が、普通に暮らしているということが信じられない。でも事件が公になっていない以上、罪を裁くことはできないのか。
「お父様は」
「父も今は引退して、地方で暮らしている。息災だと思う」
それは、被害者であるはずのアドリアンを残して、他の家族は地方で何事もなく生活しているということなのか。
「アドリアンさん、マリアさんと知り合う前や、お店に来ない日はお食事はどうしているんですか?」
マリアが、姉が亡くなってからきちんと食事をしていないと心配していたことを思い出す。
「マリアの姉は、かなり昔から俺の世話をしてくれていた人でね。その人が、ずっと食事を作ってくれていた」
その人が、アドリアンが食べられるものを、色々と考えて作ってくれていたのだろう。スープだけでも、ポタージュのようにたくさんの野菜を使って作れば栄養もとれる。
「だが彼女が亡くなってからは、決まった時間に食事をする習慣はなくなっていたな」
それからは、必要だと感じたら町に立ち寄って、なるべく量産されているような質素なパンやスープなどを購入していたらしい。そして今も、マリアの店に立ち寄らない日もそうしているようだ。
人にはそれぞれ事情がある。
部外者である琴子が、それに憤りを感じるのは間違っているのかもしれない。それでもひとりで過去のトラウマに苦しんでいるアドリアンを、放って置けないと強く思う。
彼のために、何かできることはないだろうか。
「……琴子?」
真剣な表情で考え込んでいる琴子に、アドリアンがそっと声を掛ける。
その呼び声に反応して顔を上げると、彼に肩を抱かれたままだったことに気が付いた。慌てて離れようとしたが、アドリアンは手を離そうとせず、さらに近くに引き寄せられる。
(あ、あれ。近いんですけど!)
さすがに誰もが認めるだろうイケメンに抱き寄せられて、平静を保てる自信はない。
「アドリアンさん」
名前を呼んで、離してほしいと意思表示してみるものの、紳士であるはずの彼が、琴子の肩を抱いたまま離れようとしない。その手を無理に引き離すこともできなくて、ただ息を潜めていた。
抱かれているのではなく、縋られているようだ。そう思った途端、どきどきとしていた胸の鼓動が落ち着いていく。思わず人の温もりに縋りたくなるくらい、彼は孤独だったのだ。
「大丈夫ですよ」
いつしか琴子は、優しい声でそう囁いていた。
「わたしは、アドリアンさんの味方です。わたしを助けてくれたアドリアンさんを、今度はわたしが助けてあげます」
そうして、彼のために何ができるのか、必死に考えていた。
(手の込んだ料理が食べられないのは、母親が作ってくれた料理に毒が入っていたから。だとしたら、どうすれば安心できるかな?)
目の前で料理をしてみせればいいのだろうか。
材料を用意して目の前に並べ、そこで料理したものなら、安心するのではないか。
「買い物からだと大変だし、そこは生産者の顔が見える市場で、直接購入したものだけを使えばいいのかな」
突然ひとりごとを言い出した琴子に、アドリアンは首を傾げる。
「どうした?」
「それなら安心できるかも。あ、でもそれよりも」
いいことを思いついた。そう呟いて、アドリアンを見つめる。
「いっそ作ってみるのはどうですか?」
「作る?」
「はい。わたしと一緒に料理を作ってみませんか? 自分で作ったものなら、安心じゃないかなって」
そんな琴子の提案に、アドリアンは驚いた様子だった。
彼のような階級の人間にとっては、よほど趣味ではない限り、自分で料理をするという考えはないだろう。でも自分で作ったものなら、毒が混入しているかもしれないと心配する必要もない。
「どうですか? だめ、でしょうか?」
でも彼にとって、料理そのものが母を、そして母の仕打ちを思い出してしまうものかもしれない。
アドリアンは迷うように目を伏せる。それを見てまた暴走してしまったことに気が付き、琴子は慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい。わたし、また暴走してしまって……」
「いや。琴子が真剣に俺のことを考えてくれているのは、よくわかった。……このままでもかまわないと思っていたが、マリアも琴子も、そして亡くなったミリアも、心配してくれていた。俺も、もっと自分自身と戦うべきなのかもしれない」
そう言ったアドリアンの目には、強い光が宿っていた。
過去のトラウマと戦うのは、容易なことではない。まして彼は、自身の母親から殺されかけたのだ。それでも前に進もうとするアドリアンは、騎士団長の身分にふさわしく、強靱な心を持っているのだろう。
「だが、料理など一度もしたことがない。俺にできるだろうか」
「そこは、わたしに任せてください。マリアおばさんほどじゃないですが、少しは自信があります!」
そう言って胸を張り、琴子は笑顔を見せる。
「頑張りましょう。わたしも一緒に戦いますから。ひとりじゃないですよ」
アドリアンはそんな琴子を眩しそうな目で見つめ、力強く頷く。
「ああ、よろしく頼む」
マリアに助かると言われたときと同じような高揚が、琴子の胸にわき上がる。
見知らぬ世界に迷い込んでしまった、異物のような自分の存在。
それが認められたような、この世界に存在することを許してもらえたような、そんな気持ちになっていた。
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