第7話 ドアの欠片

 九月二五日(月曜日)

 成田空港から自宅に帰った。ポストには郵便物が溜まっていた。マリは家に立ち寄ってくれなかった。やはりと思い、悲しかった。

 すぐマリに電話した。けれどもマリは電話を取らなかった。たいせつな電話だから必ずコールバックするように留守番電話に二回も吹き込んだけれど、マリはコールバックしなかった。

 三回目の留守番電話で、「一〇月末までにマリが家に帰らないなら、悲しいけれど離婚する。」と吹き込んだ。マリはすぐにコールバックしてきた。


「私のことを受け止めてくれると思っていたのに!」

「これほど重要な電話なのに、なぜ、すぐにコールバックしない!」

 ボクはマリに叫び、改めてこう言った。

「今後、不倫をしないことを一〇月末までに態度で示したならば、またやり直そう。でも、それが嫌ならば離婚しよう。」

「…わかった。」

「マリが好きな方を選んでいい。」


 僕は、自ら離婚を決めたくはなかった。マリの希望で別れるならば、もしマリが僕のところに戻り、ふたたび家族として暮らしたいと思ったときには、それを叶えてあげられるかもしれない。これが、僕にとって、マリに繋がる「ドアの欠片」だ。

 電話を切ったあと、マリが言っていた「受け止めてくれる」の意味を考えた。この言葉の意味は、僕がマリの不倫を容認することのようだった。つまりマリは、最後には不倫が容認されると思っていたのだ。これが、マリが僕にして欲しいことだったのだ。

 マリは、不倫していることを僕に気付いて欲しかったのだろう。だからこそマリは、錠剤を飲んで「自殺」してよいかと僕に聞き、マリの父母や妹や友人に不倫を告白したりしたのだ。


 九月二六日(火曜日)

 翌日、マリの母に電話した。

「マリにも言いましたが、一〇月末までにマリが家に帰ってこなければ、離婚しようとおもいます。」

「もっと待つことはできないの?一〇月末に何かあるの?」

「いえ、僕が決めたことです。もう、引き延ばしても同じですから。」

「…そう。」

 僕が不貞の証拠を突きつければ、有責配偶者のマリは、どれだけ離婚したくないといっても対抗できない。一〇月末までと期限を付けた理由のひとつは、不貞の証拠を持っていることを仄めかすためだ。


 そして、もう一つの理由は、早期にこの問題の決着をつけるためだ。三〇代後半という僕の年齢からいうと、再婚するならば可能な限り急いだ方がいい。ただし、この理由はマリやその親族には絶対に知られてはならない。


 九月三〇日(土曜日)

 マリをレストランに呼んで話をしたとき、旅行に誘った。

「どこかに旅行に行かないか。」

「別にいいけど、いつなの。」

「三週間後の金曜日から日曜日まで、金曜日に一日だけ休みをとれる?」

「うん。」

「マリにとっても気晴らしにはなるだろ。」

 僕と少しでも一緒にいれば、マリは、家族として暮らした七年間を思い出してくれるかもしれないと思ったからだ。このあと、マリと旅行代理店に行き、一〇月二〇日出発の旅行を予約した。僕が言い出したことだし、旅行代金は全額負担した。


 一〇月七日(土曜日)

 マリをレストランに呼んで話をした。

「もう不倫をしないと態度で示したならば、ちゃんと受け止めてあげる。」

「…、私がやったことを振り返ると、もう家には帰れない….」

「…、悲しいね。マリからこんな言葉を聞くのが悲しい。」

「…。」

「でも、一〇月末まで答えを待っているよ。」

 僕は、再来週の旅行に賭けた。マリの気持ちに何か変化があるかもしれないから。


 一〇月一三日(土曜日)

 この日も、マリをレストランに呼んで話をした。

「来週の金曜日から旅行だね。」

「うん。」

「そういえばお義母さんはどう言っているの。」

「ママは、『マリは家に帰った方がいい。』って言ってる。」

「そう。」

「それと『離婚した後は、きっと苦しいよ。』って言っているの。」

 マリの母は、別居直後には離婚しろと僕を責め立てていたのに、今ではそんなことを言っているのだと思った。


 一〇月二〇日(金曜日)

 マリと北海道に旅行に行った。飛行機を降りるとレンタカーを借りてドライブした。昼食に寿司屋に行くと、珍しくて美味しい寿司ネタがあった。そして高原のホテルに着いて綺麗な部屋を見ると、マリは喜んではしゃいでいた。こんな風に喜んでくれるのは嬉しかった。マリは、昔とおり優しかった。僕は、マリと最初に会ったときの気持ちを思い出して、今の状況を忘れていられた。もしかしたら、マリは僕のところに戻ると言ってくれるかもしれない。


 一〇月二一日(土曜日)

 旅行二日目、マリと一緒に郊外をドライブした。北海道はどこまで行っても信号も交差点もなかった。そして小樽に行き、昼食に海鮮のバーベキューを食べた。エビもカニもそこそこ美味かったが、見た目よりもあまり食べるところは多くないものだと思った。

 昼食後、運河沿いを歩き、観光客がいっぱい詰めかけている土産物屋にいくと、繊細なガラスのコップが売られていた。横をちらっと見ると、マリもそのガラスのコップをじっと見ているのに気付いた。これを買おうかと言おうとしたとき、ふと頭をよぎった。もしマリと離婚したならば、このコップはどうなるんだろうか。このコップを僕が持っていたとしたら、コップを見る度にマリのことを思い出してしまうだろう。マリが持っていたとしても、このコップを見る度に僕のことを思い出してしまうだろう。

 いや、そんなことはない、マリは帰ってくる筈だと思い返した。

「マリ、これ綺麗だね。買おうか?」

「…、要らない。」

 マリはそれだけ言うと土産物屋から出ていった。


 この日は、北海道の温泉地のホテルに泊まった。昨日とは違い、マリは薄いベールの向こうにいるように感じた。こちらの言葉が、なかなか届かないようでもどかしい。


 一〇月二二日(日曜日)

 旅行三日目、レンタカーで札幌の中をあちこち回った。もうこれで旅行が終わり、一〇日足らずで離婚か否かが決まるとおもうと気が重かった。千歳空港に着いて飛行機に乗った。夕方から夜に掛けてのフライトだったので、本州各都市の光が綺麗だった。どの都市の光なのかを、マリと一緒に考えた。

 羽田に近づくにつれ、マリと僕とは段々と無口になった。そして飛行機を降りて地元に戻ると、マリはさらに無口になった。マリに家に寄っていかないかと言ったのだけど、マリは目もあわせずに拒絶した。どうやら僕は、賭けに負けてしまったようだ。


 一〇月二八日(土曜日)

 一〇月末の期日まで、あと四日しかなくなってしまった。この日も、マリと映画を見たあと、最寄り駅のデパートで会って話をした。

「離婚したら、マリは誰かと再婚するだろ?」

「もう結婚はこりごりだから。」

「いや、多分マリは再婚すると思う。そしたら、もう『こんなこと』をしてはダメだよ。相手の人がとても悲しむから。」

「結婚はもうしないよ。こりごりだから。」

 マリは、もう結婚はこりごりだと繰り返し言っていた。でも、マリは再婚するだろうと思った。マリは安きに流れる性分だから、結婚のときの誓いも簡単に破って不貞をした。だから、いまの言葉とは関係なく、二年もたてば再婚しているだろう。そのとき、マリに同じ過ちを繰り返して欲しくはなかった。

 今月は、あっという間に過ぎ去ったように感じた。


 一〇月三〇日(月曜日)

 住民票が必要になったので、昼休みに抜け出して市役所に行った。当たり前だけれど、住民票には僕とマリの名前があり、マリが妻として記載されていた。その記載を僕はずっとずっと見つめた。明日は、マリと僕とが離婚するか否かが決まる日だ。僕は、この時間のまま、ずっと止まっていたならばいいと思った。


 一〇月三一日(火曜日)

 二三時から二四時に掛けて、携帯電話からマリ宛てにメールを送信した。メールを送信していないと気持ちが持たなかった。

「マリ、今ならまだ帰れるよ。」

「答えはどっちなの?」

「何か返事が欲しい。」

 何通もメールを打っていると、午前〇時を過ぎてしまった。もう、これでマリとの離婚が確定した。悲しかったけれどほっとした。これで決着したと思った。

「これでマリと僕との離婚が確定したから、次の手続きに入ります。都合のいい日を教えてください。」

この日、マリからは、何も返事はなかった。


 一一月一一日(土曜日)

 マリと、離婚のための打ち合わせを行った。先ずマリから家の鍵を受け取った。これでマリは家には入れなくなる。

 僕が予め連絡していた離婚条件は、マリが有責配偶者であることを認めること、マリが決めた慰謝料を僕に支払うこと、そして、財産分与が無いことだった。あの調査レポートは、とうとう最後までマリに見せなかった。調査レポートを見せたときのマリの表情を見たくなかったからだ。調査レポートを見せなくてもマリは有責配偶者であることを認めた。

 慰謝料はマリに決めさせた。これも僕にとって、「ドアの欠片」だ。マリが家族として僕のところに帰りたいと思っているならば、いくばくかの慰謝料を払い、かつ何らかの謝罪があるだろう。でも、マリは、僕の給与をマリ名義で預金したものを慰謝料として返すだけだと言った。つまり、マリ自身が稼いだお金で支払う慰謝料は実質的にはゼロだ。そしてマリは、何ら悪いことはしていないからと言って謝罪しなかった。

 それでも僕は、マリが決めた慰謝料の額に同意した。本当に欲しいのは金銭じゃなかったからだ。僕は本当にマリのことを好きだったし、この気持ちを金と引き換えるためにマリと争うのが嫌だった。それに、慰謝料を決めさせることでマリの考えも分かった。マリは、不倫を悪いことだとは思っておらず、当然に容認されるべきものだと思っていたということだ。

 マリは、財産分与が無いことにも同意した。配偶者は各自がそれぞれ財産を形成するべきだとでも思っているのだろう。マリは、法で定められた妻の権利について知らないようだし、財産分与や共有財産について、何も知識がないようだった。結婚に伴う同居の義務を知らなかったくらいだから当然だろう。当時は、年金分割制度が施行されていなかったから、年金分割については触れもしなかった。


 一一月一三日(月曜日)

 公証役場に行き、僕とマリが合意した内容で公正証書を作成した。この公正証書により、僕とマリとの間は法的に決着がつき、もう蒸し返されることはない。これにより、僕が再出発する上での障害を無くすことができた。マリにとっても同様であり、マリの主張通りに慰謝料は実質ゼロ、名目上は〇〇万円で確定した。


 …本当ノコトヲイウトネ、マリ、婚姻期間ニ作ッタ共有財産カラスルト、マリニハ、結構ナ額ノ財産分与ヲ受ケル権利ガアッタンダヨ。通常支払ウベキ額ノ慰謝料ト相殺シテモ、マダズット多イノダカラ。デモ、モウ手取リ足取リ教エタリハシナイヨ。コレカラ、マリハ、自分ノ力デ暮ラシテ行カナケレバイケナイノダカラ…。


 一一月二〇日(月曜日)

 マリと一緒に、離婚届を市役所に提出した。離婚届を提出したあとマリはこう言った。


「今後も友人としてなら会ってくれるよね。」

「もう会えない。」

 マリはひどく驚いた顔で僕を見た。僕は、この一月のあいだ、「ドアの欠片」を探していて、結果的にマリに優しくしすぎてしまったようだ。

「今後はマリに連絡しない。だからマリからも僕には連絡しないでくれ。」


 僕は、マリおよびその家族とは完全に縁を切りたかった。第一の理由は、再出発をする際にマリとの関係が残っているのは良くないためだ。一〇月の旅行でよく分かった。マリが会って欲しい理由は、家族としてではなく、何か他の理由だ。僕は、誰か他の人を家族として選び直すことにした。だから、もう「ドアの欠片」はいらない。

 そして、第二の理由は、マリへの愛情を消してしまったためだ。

 僕はマリのワガママを容認してきた。例えば料理を作らないマリの代わりに料理してきた。マリが引き起こしたトラブルに対処してきた。おそらくマリは、ワガママを容認してもらうことに慣れっこになってしまったのだろう。そして僕も、家族ならば多少のワガママはかまわないとも思っていた。

 そしてマリは、ヒロや出会い系の男たちと不貞していた。そして、僕が不貞を容認することを期待していた。マリにとっての不貞は、僕へのワガママのうちのひとつだったのだろう。そして、僕がマリの不貞相手に嫉妬していながらも、そのことを受け止めることを望んでいたようだ。それは、僕の愛情が無条件に得られるものだと思い込んでいたからだとおもう。もう一つ、マリは、自身のオンナとしての魅力に絶大な自信をもっていたこともあるだろう。

 でも、僕にとって結婚とは、「あなただけを好きでいます」という永遠の約束だ。その約束を破り、そして再び約束を守るつもりがない以上、マリはもう家族ではない。僕がマリに会うことは、もう永遠にない。その代わり、僕は離婚して会わなくなったことで、マリに自由をあげた。逆説的だが、これが僕からマリへの最後の愛情だ。マリは、もう貞操の義務に束縛されることはない。

 市役所の庁舎を出たときにマリに聞いた。


「僕以上にマリを大切にしてくれる人は、誰か見つかった?」


 マリは絶句して、首を横に振ってうつむいた。未だ、ちゃんとした交際相手がいないようだった。


「じゃあ、元気で。」


 それだけ言ってマリと別れた。マリからの返事はなかった。マリの横顔は、家族として一緒に暮らしていたときとは違う人のように見えた。


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