ジュ・トゥ・ヴの時計
北村利明
第1話 切欠
僕は、ある合気道の道場で、未だ学生だったマリと知り合った。道場の忘年会で、マリと話をしたのが切欠だった。マリはワガママな性格だけど、美人で人目を惹くタイプだった。マリの周りにはいつも他の男たちがいた。マリはそんな男たちと喋るのが好きなようだった。
その翌週の合気道の稽古の後、思い切って、車で送ろうかとマリを誘った。マリが承諾してくれたので、車で家まで送った。マリの家は、合気道の道場として使っていた市民体育館から一時間弱で、僕の部屋まで帰ると二時間弱、けっこう遠かったけど頑張って毎回マリを送った。そして、いつしか僕は、マリと交際するようになった。
マリは、よくマリの家族の話をしていた。
「学生のときに妊娠してしまう子っているでしょ、それがうちの妹。」
「そう。でもちゃんと産んだから姪がいるんだよね。」
「高2のときに長期に休んで、こっそりと子供を産んだあとに学校に戻って卒業したの。でも、いまでも大変みたいだよ。」
「なぜ?」
「妹の嫁ぎ先は、お姑さんとの三世代同居で窮屈だから。」
「ふうん」
「だから、いま勤めに出ているの。そこで彼氏とか作ってるみたい。」
「いいの?それ」
「妹は、子供が大きくなったら自由にさせてもらうって言ってるんだけど、私はそういうのは嫌だな。」
「そういえば、うちのママ、妹があまり健康じゃなかったから、病院代を払うためにスナック勤めしてたんだ。」
「大変だったんだね。」
「そこで客のひとりといい仲になったらしいの。」
「なぜ、そんなことがわかるんだい。」
「その客からうちに電話が掛かってきたとき、『あなたの母親と関係をもっています。』と私に言ったから。」
「本当なのかな、それ。」
「わからない…。でも、私はママのそういうところが嫌なの。第一、パパがかわいそうじゃない。」
学生だったマリは、卒業すると少し遠方の就職先に赴任しなければならなかった。三月中旬にマリが専門学校を卒業すると、僕は、その勤務地の近くの温泉に行こうと誘った。マリの就職先の会社を見ておきたかったからだ。
僕は助手席にマリを載せてドライブし、マリの就職先の会社が見下ろせる丘の上まで来た。そこには早咲きの桜が咲いていた。
「マリ、来月には、ここに来るんだね。」
「そうなの、就職先を決めるのがリョウさんと会う前だったら、近くにしたんだけどな。」
「そんなに遠くないよ、飛行機で行くような距離でもないし。」
「でも、これからはリョウさんとは、なかなか会えなくなるね。」
それだけ言うと、マリは泣いていた。こんな風にマリが僕のために泣いてくれるとは思わなかった。
「大丈夫だよ、僕がここに来るから。」
「私は風俗に通う人や浮気する人は嫌い。そんな人にならないでね。浮気なんかしないでね。」
「浮気なんかしないよ。前の彼氏に浮気されたから気にしているの?」
マリが就職して遠くに赴任してしまうと、約束したように毎週末に三時間くらい掛けて会いにいった。青春十八切符を使ったときもあった。大変だったけれども、マリと一緒にいるだけで幸せな気分になった。いつかマリと結婚できればよいと考えていた。僕にとって結婚とは、「あなただけを好きでいます」という永遠の約束だ。マリと結婚して、僕だけをずっと好きでいて欲しかった。
マリが就職して一月後のゴールデンウィークにマリと会っていると、マリが体調を崩して倒れたので、医者に連れて行った。
「内視鏡検査を受けるようにって言われたんだ。」
「そうか、……、いや、内視鏡ってウドンくらいの太さのものを飲み込むだけだから。心配いらないよ。」
「そうなの?」
「でも、前日の夕方からは食事ができないからね。」
「リョウさんのうそつき、ウドンなんて太さじゃなかったじゃない!」
「ごめんよ、前日から怖がってもあれだからと思って。でも麻酔で痛くはなかったろ。」
「喉が苦しくて大変だったんだから。」
「検査の結果はどうだったの?」
「胃の中の写真を見せてもらったよ。なんだかあちこち真っ赤になってたんだ。」
たぶん、マリは胃潰瘍だったのだろう。マリは仕事が大変なせいだと言っていたが、それだけではなくムチャな酒の飲み方のせいもあると思う。マリは酒が好きで、飲みすぎると酔ってつぶれていたからだ。仕事のストレスを酒で紛らわしているようだった。なんだか、この仕事はマリには合ってないようだった。
それ以降、次第にマリの心が自分から離れていくような感触を感じた。そして、マリの口から「ハルオ」という同僚の名前を頻繁に聞くようになった。
「このあいだ、同僚のハルオにいろいろと仕事を助けてもらったんだ。ハルオってね、私よりも年下なんだけど、秘伝の格闘技をやってるんだって。」
「秘伝の格闘技ってどんなのだい。」
「私も型を教えてもらったんだ。リョウさんにも教えようか。」
「ボクは合気道だけで手いっぱいだからいいよ。」
「なーんだ面白くない。リョウさんって保守的なんだね。ねえねえ聞いて、ハルオったら、生まれたときから心臓が悪いので、いつまで生きられるか判らないんだって。」
「心臓奇形のことかな。」
「わかんないけど、ハルオがそう医者に言われたのは中学生のころだったみたい。でもハルオは、『心配するだろうから親には言わないでください。』って、口止めしたんだって。」
「未成年の子供が、医者が保護者に告知することに口止めできるのかなあ。」
「え、でもハルオはそう言ってたよ。自分ひとりで命に関わる病気を引き受けるなんて男らしいね。」
「そういう話っていつしているの?休憩時間?」
このときボクは、一緒に酒を飲んでいる同僚のハルオと浮気をしているのではないかと直感した。マリは、僕がハルオに嫉妬するのを期待しているようにも感じた。
その後も僕は、二週間に一回はマリに会いに行き、毎日マリに電話した。マリは、いつも仕事がつらいと言っていたし、夏が過ぎるころには限界だと言っていた。そのとき、マリを少し心理誘導してみたら、マリは、悪びれもせずに同僚のハルオとの浮気を自白した。
「うん、ゴールデンウィークの直前にハルオと部屋で一緒に飲んでいたときにキスされたんだ。」
「本当にそれだけ。」
「うん、それだけ」
ボクはマリに長い長いキスをしたあと、身体をやさしく愛撫した。
「キスのあと、こういうところを触られたらマリは弱いよね。」
「あんっ・・・。」
「マリはキスに弱いから、それだけで済むわけがないじゃない。ほら、こことか。」
「・・・」
「それにボクがハルオだったら、多分次はこうするから。」
「あっ」
「キスの後に愛撫されたのはここだね。」
「……………ん…。」
「ほら、もうこんなになってる。」
「………。」
「ハルオになんて言われたの。」
「あぁ……………。」
「もうこんなになってるじゃない。」
「そこ、そこにキスされたの。」
「ここにかい。」
「あんっ……。」
ボクか舌先をマリの身体に差し込むと、マリの身体から潤いとともに、その昂ぶりが伝わってきた。
「はぁ………。『フルコースが欲しいの?』って囁かれたの。」
やはりそうだったのかと思ったが、舌先を動かし続けた。
「あんっ……。だ、だから、『やれるもんならやってみな』って言ったの。」
「そう、そして次は?」
「すごくいっぱい愛されたの。」
体勢を変えてマリと身体を交える。マリの体内がいつもよりも熱い。
「こんな風にかい?」
「そ、そう、…はぁっ…………。……はぁっ…………。…………。」
そして、最後にマリは振り絞るように言った。
「ガマンできなくて……、大きな声で叫んじゃったの。」
そして、マリは身体を痙攣させて絶頂を迎えた。
翌日、マリはけろっとした顔でこういった。
「リョウさんとの仲は、こんなことでは変わらないと思ったから言ったんだよ。」
マリが浮気を自白した翌日、マリに電話した。
「マリ、なんでハルオとそんなことをしたんだい。」
「えっ…」
「つらい、心が苦しくてたまらない。完璧な避妊なんてありえないのに、ハルオとの間で子供でも出来たらどうするつもりだったの。」
「言うんじゃなかった…、ハルオとのことをリョウさんに言うんじゃなかった…。」
「マリ、こちらに戻ってきて一緒に暮らさないか。」
「えっ。」
「どうせ、もう仕事の方は限界なんだろう。」
「う…、うん。」
「マリ、先ず一年間は一緒に暮らしてみよう。そして、その間、ちゃんと僕の彼女でいられたならば、結婚しよう。」
マリと恋人として過ごした昨年の半年間がウソだとは思いたくなかった。だから、ハルオとのことが一度だけの過ちであることに賭けた。それに、マリにこれ以上無理をして欲しくなかった。
マリと一緒に暮らし始めると戸惑うことが多かった。マリと一緒に暮らし始めた翌日、仕事から帰るとマリは泣いていた。僕の仕事は残業か多くて帰宅時間は遅い。この日も帰宅時間は夜一〇時半だった。どうやらマリは、僕が誰か他の人と遊んできたと思っていたようだ。何を言っても納得しないので、翌日、職場に確認の電話をするようにいった。マリは、翌日に職場に確認の電話をすると、こんな時間まで本当に仕事をしているのねと言っていた。
次に戸惑ったのは家計のことだった。マリに僕の給与を渡して、次の給与支払日にいくらか残るように家計をやり繰りするように頼んだ。二人で暮らすには充分すぎる額だと思ったのだけど、最初の月は全く残らず、それどころか赤字だった。マリの家は、それほどお金持ちと言う訳ではないから、金銭観の違いという訳ではなさそうだ。単にマリは、お金の使い方が下手なようだった。僕は、翌月こそは計画的に使おうとマリに言った。
次の給与支払日が近づき、少ないながらもある程度の額は残りそうだった。すると、給与支払日の前日に、マリはブランドものの腕時計を買ってしまい、残額はゼロになってしまった。
「マリ、給与を残して貯金しないと、マリと僕との共同生活が立ち行かなくなるんだから。」
マリは不満そうだったけど判ってくれたのだろうか。でも、それ以降は、高価なものを勝手に買うことはなくなったようだった。
マリは料理が下手だ。平日は外食していたので、食費が大変だった。休日にはマリではなく僕が料理を作っていた。とはいっても、せいぜいパスタや中華料理くらいしか作れなかった。よくトマトパスタを作った。美味しいワインに合うからだ。
同棲していたときに、マリは何回も聞いた。
「なぜ私と別れようとしなかったの? いちどは浮気して裏切ってしまったのに。」
僕はいつもこう答えた。
「なぜ? 僕はマリが好きだからだけど。」
マリは、こうも言っていた。
「もしリョウさんが別れるといったとしても、どんなことをしてもリョウさんのもとに帰ってこようと思っていた。絶対にリョウさんと結婚したかったから。」
マリと結婚したのは、同棲し始めてから一年後、マリが二〇代前半、僕が三〇代前半のときだった。
宣誓の言葉は「死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」だった。これからずっとマリだけを好きでいられることがうれしかった。その反面、不安感もあった。また、マリが浮気しないだろうかと。
マリと結婚したとき、マリの中学時代の友達であるミキさんとサトコさんに会った。ミキさんは、ちょっと派手な顔つきで、性格も大人っぽかった。もうすぐ婚約者と結婚するのだそうだ。サトコさんは可愛らしいのだけど奥手なせいか、まだ彼氏がいなかった。マリ・ミキ・サトコの友達グループのうち、マリが最初に結婚したせいか、ミキさんとサトコさんに質問攻めにされた。その後、ミキさんとサトコさんは、結婚のお祝いに時計をくれた。その時計は夜八時になると、時報としてエリック・サティの「ジュ・トゥ・ヴ」を奏でていた。
結婚後は平穏な日々だった。結婚前のことがウソのようだった。マリは、浮気はもうしていないようだった。マリは、軽いアルバイトをしながら家事をやってくれた。料理はともかく、洗濯と掃除はちゃんとやってくれた。
ミキやサトコは、よく遊びに来てくれた。ミキ・マリ・サトコの三人は中学のときのことを色々と話してくれた。皆、これからもずっと友達でいようねと言っていた。僕は、彼女等が遊びにきてくれるときにケーキを買ってきて、彼女等が帰るときに車で送る役目だった。マリがミキさんやサトコさんに連絡したいからというので、マリのために携帯電話を契約した。ボク自身は必要性を感じなかったので契約しなかった。マリは携帯電話というアイテムが好きだった。
「私の携帯の着信は月に二〇〇件を超えるんだ。」
「ふうん。それって多いの。」
「普通じゃないくらい多いみたいよ。でね、着信数って面白いもので、私の体調と連動してるみたいなの。調子がいいときには沢山掛かってくるし、調子が悪い時にはあんまり掛かってこないの。不思議よね。」
マリと結婚してから一年後、ミキの結婚披露宴に招待された。白いドレスを着たミキさんは綺麗だった。次はサトコさんの番なのだろうけど、もう少し時間が掛かりそうだった。
僕は、相変わらず仕事量が多く、平日は残業で遅かった。マリも僕も温泉巡りが好きだったから、週末にはよく温泉に行った。二年に一回くらいは海外に行った。台北・ロンドン・ローマなどで現地の美味い食事を楽しんだ。僕は一人暮らしが長かったから、こんな風にマリと一緒に生活する日々が嬉しかった。そのころは社宅に暮らしていたが、いつかは新しい家に住みたかった。
マリは子供嫌いだった。バレンタインデーやクリスマスにマリがくれたカードには、「いつか子供が欲しいね。」と書かれていたが、「いつか」という言葉が取れることはなかった。僕は子供が欲しいとは思っていたが、無理は言えなかった。だから、マリと暮らした日々は、ずっと避妊していた。マリとこのまま一生仲良く過ごせれば、それで充分だとおもっていた。
マリと結婚してから五年後、小さな家を買った。この家で、ずっとマリと暮らせると思うとうれしかった。この家に住み始めたときに、引っ越し用の家電の段ボール箱は全部捨てて、マリと一緒に新しい家具とインテリアを見に行き、マリのドレッサーを買った。このまま、平穏な日々が続くはずだった。
同じ頃に、マリは、平日は会計事務所で働き、土曜日は簿記の専門学校に通うようになった。マリにとって少しは気晴らしになるかと思った。マリの給与はそれほど多くなかったので、家計には入れず、マリが好きなことに使ってもらった。一年くらいするとマリは、自分の貯金が百万円になったよと嬉しそうに言っていた。
家を買った直後に、マリの祖母のキヨさんは、脳梗塞で半身不随になって入院し、更に肺癌を併発した。キヨさんは、死を恐れて泣いていた。マリと一緒にターミナルケア病棟に見舞いにいくと、キヨさんは、「ありがとう、ありがとう。」といって泣いて喜んでくれた。僕は、そんなキヨさんがかわいそうに思えた。どんなに忙しくても週に一回は見舞に行き、キヨさんを抱き起してベッドの脇に座らせ、車椅子に乗せた。四月になると、キヨさんを乗せた車椅子を桜が見える窓まで押していった。たとえ病気でマリが寝たきりになったとしても、こんな風に見舞ったり、看病してやりたいと思った。
その後、マリの祖母のキヨさんは、数カ月ほどの闘病ののち、体力も免疫力も低下して食事もとれなくなって亡くなられた。どういう偶然か、キヨさんが亡くなられた瞬間に居合わせたのは、マリと僕の二人だけだった。
マリの祖母のキヨさんの死のあと、「そのこと」が顕在化するのは、もう暫く後のことになる。
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