第3章 かず子
ある土曜の夜。
客は相変わらず、男ばかりであった。
昨今、風呂無しだとか、風呂が共同の社員寮だとか、そんな物件も数えるほどになった。従って女性客は、ほとんど来なかった。もっとも文治も、その方が気が楽であった。
一方で男湯の方は、文治が内装工事職人時代に世話になった桑原工務店の社長が、未だにひなた湯を贔屓にしてくれて、よく仕事帰りのワゴン車で、若い者たちを半ば強制的に連れて来てくれたりなどしたおかげで、客がひとりも来ない、ということは、ほぼ、なかった。
だが今週は、見たことのない若者の客がちらほらいた。
恐らくは先週の寒波で、水道管がダメになったのだろう。かず子が生きていた頃にも、こんな時があった。
やがて珍しく、女湯に若い客が現れた。若いと言っても、文治にとっては、ということで、学生風ではない。年の頃でいえば、いわゆるOL風の女性だ。
決して華のある女性ではなかった。痩せていて、地味であった。にもかかわらず、文治は一瞬、目を奪われてしまった。
若い頃のかず子に、面影が似ていたからである。
そのままポカーンとして、ずっと目で追い続けそうになった自分に気がつき、ハッと我に返った。
いかんいかん。
俺は今、ひなた湯の店主としてここに座っているのだ。それが、珍しく女性客が来たと言って、凝視などしてみろ。あっという間に「ひなた湯の番台のオヤジは」などと悪評が立ち、今はインターネットで、物凄い早さで噂が広まるのだと、息子の祐介も言っていたではないか。
絶対、見るなよ。
文治はそう自分に言い聞かせた。しかし、どうにも、かず子に似ていた、気がする。もう一度顔を見たい。ダメだ。店が潰れる。せっかくここまで続けてきたのに。でも見たい。
文治は葛藤した。悪い評判が立つことだけは避けたい。無視するより他にない。そこに選択の余地などあるわけがない。だが、そうして無視しようとすればするほど、最初に顔を見たときには「面影がある」程度に感じたはずが、今や文治の脳内では「そこにかず子の生き写しがいる」に膨らんでいて、番台から駆け下りて、振り返らせて確かめたい気持ちにすらなった。
いかんいかんいかん。そんなことをしたら、ひなた湯はおろか、俺の人生が終わってしまう。
何としても確かめたい気持ちを知ってか知らずか、女性客は文治から身を隠すように服を脱ぎ始めた。もしや、気付かれたのか。いかんいかん。本当にいかん。
冷静な判断力を失いつつあった文治は、狸寝入りを決め込むことにした。時折薄目を開けて、女性客の様子を確認しつつ。
やがて、女性客が洗い場に入って、誰もいない脱衣所の番台に座る文治は、すっかり気疲れしたのか、女性客が洗い場にいる間、番台に座りながらほんの一瞬、眠りに入っていた。
そして、夢を見た。
居間の炬燵に、湯飲茶碗が二客。向かって左手の位置にかず子が座っていて、籠に盛られたみかんを、二人で剥きながら食べている。
「文治さん。」
「なんだ。」
「人間はさ。どんなにツラいことがあっても、どんなに頭にきても、どんなにオドロクことがあっても、やがて、忘れるものよ。」
「辛いことはな。忘れるしかないからな。」
「そうじゃないのよ。努力はいらないの。忘れちゃうのヨ。」
「そうは言うが、お前の笑顔を、俺は忘れたくないぞ。それを想い出しては、また辛くなるんだぞ、俺は」
「まだ4年だもの。そうね、10年もしたら、楽しかったことだって、恥ずかしかったことだって、やがて、ぜーんぶ、忘れちゃうわよ。」
「そうか。じゃあ、10年も経って忘れちまう前に、お前のところへ行けたらいいなあ。」
「文治さんは文治さんの分生きて、それからゆっくり、いらっしゃいよ。待ってるわよ。あたしは。」
かず子は微笑んで、遠くを見ている。
小さな縁側に、茶色いもみじの葉が数枚、乾燥して丸まっている。それが風に吹かれて、揺りかごのように揺れている。
ハッと目覚めた。女性客はまだ洗い場にいたが、脱衣所へ向かってくるようだった。
いかん。文治は再び姿勢を整え、次にやや姿勢を崩し、狸寝入りをした。
人間、居眠りしているときというのは、目をバッチリつぶっているかというとそうでもなく、半開きで弛緩して、口なんかポカーンと開いているほうが、より本物っぽいものだ。文治は小学生のとき、明智小五郎に憧れて私立探偵になろうなどと思っていたほどで、個人訓練のたまものか、そういった観察力は、なかなか長けたところがあった。もっともその能力は、銭湯の番台にはまったく不要なものであったが、思いがけず今、役に立っているのかも知れなかった。
女性客は相変わらず、文治の視界を避けているようであった。
と、思いきや、突如全裸の彼女が、文治の視界に飛び込んできた。何事かと一瞬驚き、目を見開きそうになった。しかしすぐさま、彼女は引っ込んでしまった。
なんだ。今のは。
昔、かず子がよくしたように、俺をからかっているのか。それとも俺が、裸を見るのかどうか、試したのか。見た途端に、番町皿屋敷のお菊宜しく「見いぃたぁなあああ!」と、俺を陥れようとしているのではないか。とてもそういう女には見えぬが、昨今、人は見た目で判断出来ぬ。今、俺が激しく動揺したのも、バレてしまっただろうか。
いよいよいかん。もう、この女が出て行くまでは、目を開けるわけには行くまい。文治は心を鬼にして、なお一層、迫真の演技力で、狸寝入りを決め込んだ。
女はまだ帰らぬか。薄目越しに様子を伺う。どうやら服を着終わった女が動き始めた。文治は安堵しかけた。ところが女は、そろりそろりとこちらへ近づき、あろうことか文治の顔を覗き込んでいる。文治の身に緊張が走り、完全に目をつぶった。
この女、何ゆえ、俺の顔を覗き込んでおるのだ。やはり、さっきからチラチラ見ていたことを知っていて、今まさに自分を、奈落の底へと突き落とそうとしているのではないか、という恐怖。文治の体は戦慄し、カチカチに固まっていた。
すると突然、脱衣所の古い柱時計が8時の時報を知らせた。ガーン、ガーン。文治は心臓が破裂するかと思うほどたまげてしまい、緊張が一気に弛緩し、ついに目を見開いてしまった。その瞬間、女と目が合った。
生き写しというものではなかったが、女にはやはり、かず子の面影があった。何がそう思わせるのか。決して華やかではない顔つきもそうだが、物静かで、しかしその内面に何かを秘めた、あのお見合いの日のかず子と同じものを、文治は見てとったのだった。
しかし、あの時のかず子と決定的に違っていたのは、女は何か、ものすごく慌てていることであった。
しかし文治も文治で、傍目には冷静に見えたかも知れないが、ただ腰が抜けて動けなくなっていただけで、内面の慌てっぷりは女に負けていなかった。女の顔をしかと見た今、内面のモヤモヤを何か言葉にしようとするのだが、その口はアワアワするだけで、何らの言の葉も出てこない。
そうこうしているうち女は疾風の如き勢いで、ひなた湯から飛び出して行ってしまった。
危険を回避した安堵、女がいなくなった落胆、飲み込めない混沌。文治はヘナヘナとなり、ようやく絞り出すように
「ありがとうございました。」
と、力ない声を出すのがやっとであった。
脱衣所には、女のものと思わしきバスタオルが置き去りになっていた。
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