1-10-7

「アスハルフ、と申したな」

「ええ」

「そなたは以前もこの帝都に、暮らしていたことがあるのか? それが何故、タンディアに?」


 それを正直に話してよいか、については、エスメルタは少々、躊躇した。ヴェルヴィオイが言うところの、『皇后が皇帝に内緒にした』部分の核心に迫るからである。


「その恩人に……売られたからでございます。出入りの業者から話を持ち掛けられたそうで、あたくしには歌という特技があるのだから、自分の下に止まり、誰にでも脚を開かねばならない仕事に就くよりも、芸を磨き、名を上げられれば客を選り好みすることも、それだけで身を立てることも叶うかもしれない、上級職を目指してはみないか、と。

 おかげで多額の借金を背負い込む破目になりましたが、それは年季が明けるよりもずっと早くに、陛下に肩代わりをして頂けましたし、そもそもタンディアで歌姫とならねば陛下とお逢いできなかったのですもの、そうしたことも含めて恩人と思っておりますわ」


「あれの母親は、つまり……、アスハルフの、花街の女であるということか? 遊女や娼婦とすべくそなたを育てた」


 確認をとりながらエクスカリュウトは、非常に複雑そうな表情をした。さもあらん。

 一応のこと言葉は選んだが、エスメルタの恩人ミレーヌは、美しく、計算高く、そしてあくどい夜の華である。


「……あたくしは、皇后陛下を誹謗するつもりはございませんのよ」


 遠回しにエスメルタは肯定した。自分を物品の如く売ったミレーヌにも、人を人とも思わないルドヴィニアにも、含むところがなかったとはいえないが、失言をしているのではないかという不安の方が先に立ち、意趣返しをしてやれたと思うほどの清々しさはなかった。



「わかっておるわ。あれの母親について知りたいだけだ。余に瓜二つの女かもしれぬであろう?」

「まあ陛下」


 そうくるとは予測していなかったエクスカリュウトの戯言に、エスメルタは鈴を振るうような声をあげて笑った。


「ヴィーは母親にはあまり似ていませんわ。同じなのは瞳の色だけ」

「ヴィー?」

「あの子、ではなくて、あの方を、ずっとそうやって呼んでいたものですから……。申し訳ありません。ご不快ですわよね」

「構わない。ヴィー、か……」


 その短い愛称を、甘露なもののように舌の上で転がして、いとおしんでいるようにエスメルタには聞こえた。


「ええ。みなそう呼んで、可愛がっていましたわ。バリアシ流に申しますと、天使のように綺麗で、悪魔のように手が掛かる子供でした。あたくしはヴィーのお気入りで、躾を受ける時間以外は、子守り仕事を最優先にと言い付けられていましたので……。他の娼婦見習いの子たちのように、姐さんたちの使い走りや、お客相手の給仕をしなくていいなどの特権もあって、ずいぶんと羨ましがられたものです」


「あれは女の好みが余と通じるようだな」

「お上手を申されますこと」


 エクスカリュウトの軽口を簡単に受け流し、エスメルタは過去のヴェルヴィオイの述懐に戻った。


「ヴィーがあたくしに懐いてくれていたのは、この髪と瞳の色がミレーヌに……、あの子の母親に、似ていたからだと思いますわ。人見知りをしない甘え上手な子で、常に誰かしらに構われてはいましたけれど、父親のいない、母一人子一人の家庭でしたから、本当は、仕事に追われてあまり傍にいてくれない、母親のことが恋しかったのでしょう」


「なるほど、あれはそなたに、母親の姿を重ねているというわけか」


 白金の髪、薄青の瞳――。エスメルタが纏う色彩から連想される女は、エクスカリュウトの中で、遠く懐かしい一つの面影へと収斂してゆく。それだけではない、初見からエスメルタに感じてならない慕わしさが、彼女がヴェルヴィオイの母親から吸収したものに起因していたとするならば……。



「……どなたを見ておいでですか?」

 エスメルタは咎めるように目を細めた。


「陛下も、あたくしの向こうに、時折誰かを透かし見ておいででしょう?」

「……かもしれぬな」

「お憎らしい方。嘘でも結構ですから否定して下さいまし」

「その、拗ねた顔が愛しいのだ、エスメルタ」


 宥めるような口づけを焦らしながら受け入れて、そのまま身体をまさぐられてゆきながら、エスメルタは口惜しげにエクスカリュウトを睨んだ。


「……女心を弄ぶのがお上手ですこと……。顔だけでなくそっくりですわ」

「ヴェルヴィオイにか?」

「他に誰がいまして? 本当に陛下の隠し子ではありませんの?」


 隠し子という表現に、エクスカリュウトは少し笑った。国家君主の常として、エクスカリュウトは世継ぎを欲している。もしも皇子が生まれていたならば、隠しておく必要などなかったのだ。


「ミレーヌという女を余は知らぬ。会ったことのない女の胎を孕ませることはできぬな」


 馬鹿なことをとでも言いたげに、エクスカリュウトはつるすべとした絹の寝衣越しに、エスメルタの下腹をなぞった。エスメルタの容姿も中身も好いてはいるが、結局のところは、淫乱な身体を味わうだけの妾を相手に、本音を明かす気はなかった。


「陛下は見聞を広くお持ちのようでいて、やはり禁裏にお住まいの御方。下世話な常識には通じていらっしゃらないようですわね」

「下世話な常識?」

「ええ、花街に生きる女の名が、信に足るものだとでもお思いですか……?」


 腰骨をくすぐり、内股に滑り下りてゆく愛撫に吐息を零しながら、エスメルタは挑発をするように会話を続ける。卑猥な台詞と喘ぎにまみれ、ただただ本能に溺れるだけの常とは違った、我慢比べのような焦れ焦れとした趣向を、エクスカリュウトも愉しんでいた。


「花街という場所を余は知らぬが、そなたの名もまた、偽りと申すか?」

「今のあたくしはエスメルタ……。それをあたくしの、最後の名にするもしないも、あなた様次第ですわ」

「言うてくれるな」


 皇帝の妾は、子を為さぬまま飽きられるか、疎まれるか、褥滑しとねすべりの歳を迎えれば臣下に下賜される。エクスカリュウトの後宮でも、そうして多くの女たちが入れ代わってきた。今この時は、後宮で最も時めいているエスメルタでさえも、明日は決して安泰ではないのだ。



「実の名は、何という? ヴェルヴィオイに呼ばせていたというマルタという名は、エスメルタの愛称ではないのか?」


「陛下が考えておられるのとは、逆で……。エスメルタは、あたくしを遊女として売りに出すにあたり、御店の主人が実名を派手にしてつけた源氏名です。生国ボーラウジアで、父母から贈られた名はメルティと申します。それをヴィーも他の人たちも、ゾライユ風にマルタ、と……。

 ですがミレーヌだけは……、母国語が通じ、ゾライユ語を教えてくれたミレーヌだけは、そういえば違和感なくメルティと呼んでくれておりました」


「そなたの母国語というのは?」

「ボーラウジア語……、悔しいですが、ロジェンター語の一方言と分類される言語です」

「そうか、メルティ」

「んんっ……! はい……」


 不意打ちで実の名を呼ばれながらの、弱いところへの刺激にのけ反り、堪らず啼いてしまったことを恥ずように、エスメルタは艶っぽく瞳を濡らしている。別の個所の潤みをも、期待させずにおれない色っぽさだった。


「面白い話を聞かせてくれた褒美をやろう。お前は今後、ヴェルヴィオイとどうしたい?」


「そう……ですね……、昔なじみの誼ですもの、皇后陛下のご機嫌を損ねぬ程度に、親しくさせて頂きたく思っております。もちろん陛下のお許しがあればのことですが……」


「過ぎたる友誼がないのであれば許そう。未成熟な子供といえど、あれもまた雄に違いあるまい」


「重々心得ておりますわ。あたくしの全ては陛下のものです。こんな風に、あたくしを乱しておられればおわかりになるでしょう……? どうか信じて下さいまし……」



*****



「妙な縁で、問題解決の糸口が見つかるものだ」

 久しぶりの義務感のない交接に、あれから時を忘れるほどの熱が入った。さんざんに抱き潰されたエスメルタが先に眠りに落ちた後、ひとりごちたエクスカリュウトは、卓上の呼び鈴を取り上げて腹心の侍従を召喚していた。



「スレイ、お前は花街に足を向けたことがあるか?」

「こんな夜中に、事後の寝所にまで呼びつけられるような職の私に、それを聞きますか?」


 呆れたように問いで答えるスタイレインに、エクスカリュウトもまた呆れを返した。


「覗き趣味を満たしておろうによう言うわ」

「私は趣味を仕事にしたのではなく、仕事を趣味にしたんです」


 堂々とそう言い切ったスタイレインは、寝台の上に身を起こし、裸身にガウンを打ち掛けたエクスカリュウトの隣で、すやすやと眠るエスメルタの、まろやか肩なや小さく開いた唇を、遠慮なく眺めている。

 後宮の女は貴賎を問わず、老いも若きもすべからく皇帝のものという認識があるために、懇ろにするような宮女も持たず、仕事一徹で独身を貫くスタイレインが女の肌に触れるのは、宴席の後、遊女を買う時くらいのものだ。


「わかった。しばらく夜間に暇をやるから、ファルネンケルに事情を話し、二、三の『犬』を借りて存分に遊んで参れ。費用は全てもってやるし外泊しても構わん」


「えらく太っ腹でございますね。どういった魂胆がおありなのです?」


「スレイに頼みたいのは人捜しだ。アスハルフ西街の花街に赴き、娼館の主人をしているミレーヌという名の女を尋ね当てて来て欲しい」


「ミレーヌ?」

「ヴェルヴィオイの母親だ」

「……は?」

「皇后の養子、ヴェルヴィオイの生母だと言うておる」

「………………は?」


 耳を疑うようなことを聞き、なかなか咀嚼できずにいるスタイレインに、エクスカリュウトはしかめつらしく続けた。


「スレイの目で、直に見定めてもらわねば意味をなさぬ。果たしてそれがクリスティナか否か、そなたにならば判別できるだろう」

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