1-7-2

 劇的な一日は、それでも緩やかに終わりを告げようとしていた。

 入浴と歯磨きを済ませて、ヴェルヴィオイは着崩した寝衣の肩にガウンを掛け、暖炉の前に据えられた椅子にもたれかかっている。その寝支度の仕上げとして、しっとりと濡れて絡む頭髪に指先を入れて、一人の宮女が優しく解しながら乾かしてやっていた。


 宮女は名を、ヨデリーンという。拉致されてきたヴェルヴィオイが皇宮で目覚めた折に、ゼラルデに呼ばれてやってきた宮女たちの中で、最も年嵩であった女だ。

 ヴェルヴィオイの世話には、ゼラルデの統制下にある皇后付きの宮女たちが交替で当たっている。ゼラルデに任されて、その束ねをしているヨデリーンは、ルドヴィニアの立后時にロジェンターから派遣されてきた宮女の一人であり、ヴェルヴィオイよりも十ばかり年長であった。


「ヨデル」

「はい、何でございましょう?」

 周囲に人がいないと、ヴェルヴィオイはヨデリーンを愛称で呼ぶようになっていた。年上好みのヴェルヴィオイは、溌剌とした若さが売りの歳の近い娘たちよりも、楚々としていながらもおっとりとした色気を滲ませた、ヨデリーンを一番気に入っていた。


「あんたの手は、すごく気持ちいいよねえ……」

 ヴェルヴィオイは身体を捻ってヨデリーンを振り返り、椅子の背もたれに腕を掛けてその上に顎をのせた。

 望むままに愛撫を与えられて、ごろごろと喉を鳴らす大きな猫のように、ヴェルヴィオイはきつい水色の目を和らげて、とろりとした表情を浮かべている。

 ヴェルヴィオイの髪が早く乾くように、暖かな空気を含ませていた自分の指先が、不意に淫らな動きをしているように感じられて、ヨデリーンは思わず手を止めていた。


「不実なお口で、そのようなお戯れをおっしゃっても、たぶらかされはしませんわ」

「本気なのになあ」

 夜毎の火遊びを遠まわしに咎められて、ヴェルヴィオイは至極残念そうに、上目遣いでヨデリーンを見上げた。


「今日はあんまり、良い日じゃなかったからね。いい子いい子ってされて、慰められている気分」

「まあ」

 拗ねたような口振りに母性をくすぐられて、ヨデリーンはくすりと笑んだ。

 ゼラルデから厳重注意を言い渡されてはいるが、この情感豊かで綺麗な少年を、甘やかすことにやぶさかではない。


「何かお気に召さないことでもございましたか? あなた様がルドヴィニア様のご養子になられると決まって、わたくしどもはみな感無量でございますのに」

 ヴェルヴィオイの希望通りに、そっと髪を撫で付けてやりながら、ヨデリーンは穏やかに尋ねた。


「どうしてそれが嬉しいのさ?」

 ヴェルヴィオイにとっては、正にそのことこそが大いなる不服である。他でもない自分自身の人生を、他人の思わくにより歪められてゆくようでめっぽう我慢がならない。


「皇后陛下を御義母おはは君とおできになるなんて、この上なく名誉なことですわ。ヴェルヴィオイ様はお喜びではいらっしゃいませんの?」

 たとえ名家の子女であっても、通常ではまず考えられない異色の立身である。ましてヴェルヴィオイは、今日の日までは市井の臣だ。どれだけ感激しても足りないのではないかとヨデリーンは思う。だが――。


「とんでもない。こんな不自由で窮屈なところに、ずっと居なくちゃならないなんてぞっとするよ」

 ヴェルヴィオイは不本意さを隠そうともしない。花街育ちの彼にとって、宮廷やそこに住まう人々の権力志向は、全く未知のものなのだ。


「いましばらくお行儀良くなさったら、もう少しご自由にはなれますわ」

「それが面倒なんだけどなあ……」

 生活態度の改善と、行動の自由を天秤に掛けて、愚痴るヴェルヴィオイである。



「皇帝陛下のご寵愛やお子様の存在は、後宮の女性の権勢に大きな影響を及ぼします。ルドヴィニア様はお子様をお持ちで無く、ずっとお寂しくお過ごしでいらっしゃいましたから、どうかお力になって差し上げて下さいませ」


 ゼラルデのように偏執的ではないが、ヨデリーンもまたルドヴィニアに忠実な宮女である。それは素直に聞き入れてもいいかと思わせるような、思い遣り深い真情の込められた頼み事であった。


「変なこと言うね。皇后陛下っていうのは、この国で一番偉い女の人なんじゃないの?」

 しかし、そう簡単に頷いてやることはできずに、ヴェルヴィオイは不思議そうに問いかけた。

 ヨデリーンの物言いからは、ゾライユの後宮にはまるで、皇后ルドヴィニアの風上に立つ女がいるかのように感じられたのだ。


「建前では勿論そうなのですが、この後宮で実際に、最も大きなお顔をなさっているのは、左側妃のヘルガフィラ様でございます。ズウェワ土侯様のご息女で、宰相閣下と御縁続きであられるというのもありますが、唯お一人の皇女殿下のご生母でいらっしゃるのは、やはりなによりの強みですわ」


 歯に衣着せぬ言い方で、ヨデリーンははっきりと言った。

 子の無い皇后ルドヴィニアの立場は、実際かなり微妙なものである。

 ルドヴィニアはロジェンターとの和約の象徴であり、エクスカリュウトがその維持を望む限りは粗略に扱われることはない。後宮の女たちも勿論皇帝に倣い、表面上は礼節を欠かさぬ風でいる。


 しかし、一人の男を巡っての女と女の戦いに優劣を付ける時、皇帝の寝所に呼ばれることのないルドヴィニアは、心理的に下手に置かれる負け犬でしかない。重い背景を持つ正室である分だけ、女たちによる嘲りの度合いは強いともいえる。


「へえ、それじゃあ皇帝陛下のご寵愛とやらも、その人の方に傾いているわけ?」

「いいえ、皇女殿下のことは、目に入れても痛くないような可愛がりようをなさっておいでですが、皇帝陛下はエスメルタ様とおっしゃる歌姫上がりのご愛妾に、今は特別な寵を授けておいででいらっしゃいます」


 歌姫とは、歌を芸にする遊女のことだ。姫は姫でも、部族や家の代表者として後宮に納められた本物の姫君たちとは違い、エスメルタという愛妾は、エクスカリュウトに相当気に入られて、後宮入りをしたのだと考えられるだろう。


 皇帝の正室が皇后ルドヴィニア。第二位の妃が左側妃ヘルガフィラ。第三位の右側妃は現在空位であり、もしも皇后と左側妃以外の女性が皇太子を上げれば、最後の妃の座を与えられるのではないかと囁かれていること。

 皇帝の愛人にも格があって、後宮に個室を賜っている女性を『妾』と呼称し、それに仕える宮女などで、寝所に呼ばれるだけの女を『情人』と呼んで区別をつけること。

 皇帝の寵が深ければ、『情人』は『妾』へ格上げされるためしもあること。等々――。

 後宮の女の序列と、エクスカリュウトの派手な女性関係を、主要な幾つかの名を挙げながら、ヨデリーンは一通り解説してくれた。



「ふうん。男盛りの皇帝陛下は、その日の気分で美女をとっかえひっかえして、毎晩せっせと励んでいるんだ。金ぴかの玉座に座っていたら、色んな欲に取り付かれた人たちが、いくらでも擦り寄ってきてくるもんね」

「……平たく申し上げればそういうことになりますわ」


 身も蓋もないヴェルヴィオイの感想にヨデリーンは苦笑した。取り囲む女たちの質は違っていても、ヴェルヴィオイの夜の生活もまた、皇帝とさして変わりがないのではないかとも思う。


「だけどそんなこと、俺にばらしちゃって叱られない?」

「わたくしがお話し差し上げなくとも、嫌でもそのうちにお耳に入ってくることですわ。それに……」


 ヴェルヴィオイの身を案じるようにそっと額を寄せ、ヨデリーンはほとんど唇の動きだけで囁いた。


「左側妃殿下を始め皇帝陛下のお妾の方々には、充分お気を付けになって頂きたいのです。殊に左側妃殿下には……、皇帝陛下の他のお子様やご寵姫を、次々とお手にかけられたのではないかという、黒い噂もございますから」

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