1-6-4
「……何を言っているんだ……?」
答えはあらぬ方向から返ってきた。
先ほどから『あれ』だの『これ』だのと、物のように呼ばれ続けてきたヴェルヴィオイは、今ここで取り沙汰されている、自分と皇后との養子話に完全に面食らっていた。
漏れ聞こえたヴェルヴィオイのつぶやきを、エクスカリュウトは無視しておこうとしたが、ルドヴィニアはさせなかった。
「――粗相があったようですわね。失礼を致しました、陛下」
「何の侘びか? ルドヴィニア」
「陛下の許可無く発言をした、ヴェルヴィオイに代わりましての侘びでございます。これの不調法を躾けるのは、養母となるわたくしの役目でございますから」
「母親か……」
そつのない返答に、エクスカリュウトは口元を皮肉げに歪めた。夫である彼自身が孕ませてやらぬ限り、ルドヴィニアは嫡子を持つことができないのだから。
代わりに愛玩するには、危険な香りが漂うヴェルヴィオイの姿をもう一度眺めやってから、その意志を確かめることもなく、突き放すような物言いでエクスカリュウトは承諾した。
「よかろう。だが、余の子はマルソフィリカだけだ。決して余の養子に迎えるわけではない。それを履き違えぬようにすることだ」
マルソフィリカ。それはヘルガフィラが腹を痛めた、エクスカリュウトの第一子であり愛娘の名前だ。ヘルガフィラが左側妃へと昇格を果たしたのは、名目だけの正妻であるルドヴィニアに代わって、実質的な本妻の役割を務めてきたことに加え、エクスカリュウトに最初の子を抱かせた功労に報いたものである。
マルソフィリカは今年十一歳。『狼心皇帝』エクスカリュウトの、目尻を緩く下げさせる愛くるしい皇女だが、ルドヴィニアにとっては、その名を耳にするだけでも辛いばかりの存在だ。
「承知しておりますわ。ありがとうございます、陛下」
心に刺さった棘を抜き取りながら、ルドヴィニアは努めて穏やかに微笑んだ。
「!!」
「言いたいことがあるなら後で聞こう。無意味な抗いをせずに今は黙っておれ」
勝手な取り決めに抗議をしかけたヴェルヴィオイは、ゼラルデに小声で諭されて口を閉ざした。これから自分が、何をどう訴えてみたところで、皇帝の決定は覆されぬものだと看取したのだ。
当事者であるヴェルヴィオイを置き去りにして、皇帝夫妻の駆け引きは続けられてゆく。エクスカリュウトは勿体をつけるようにゆっくりと言い足した。
「但し、条件がある」
「条件?」
仮面のように微笑を貼りつかせたまま、それは? とルドヴィニアは促す。
「これに付けたいという守役のことだ。そなたが挙げておる衛士ではいささか頼りない。それよりも、余の親衛隊の中に手頃な若者がおるのでな。代わりにそれを任ずるがよい」
そう言うと、ルドヴィニアの返答を待つことなく、エクスカリュウトは脇に控えた親衛隊士の一人に命じた。
「アミスターゼを、ここへ」
「はっ」
「アミスターゼ……? 知らぬ名ですわ。何故その者を推挙なさるのです?」
一礼をし、速やかに遣いに向かう親衛隊士を見送って、ルドヴィニアは夫に食い下がった。慎重に選んだ守役候補を、歯牙にも掛けず却下されてしまうのは、自分自身が軽んじられたようで大いに不服であった。
「そなたはこのような折でもないと、余の許に寄りつかぬからな……」
皇后の地位にあるにも係わらず、皇帝を守護する親衛隊の顔触れを、まるで把握していないらしいルドヴィニアに、エクスカリュウトは苦笑しながら続けた。
「アミスターゼはタンディアの出で、ファルネンケルに縁の者だ。弟妹を多く持つ長子の生まれであるからな、子守りには適任であろう」
異端のバリアシ教徒が正統派の迫害から逃れ来て、現地部族と交わり発展させたという、特異な歴史を持つ歓楽都市タンディアは、交易の要所であるズウェワと双璧を成す、ゾライユ帝国内で最も羽振りの良い土侯国の一つだ。
前身はそのタンディアで、土侯の幕僚に名を連ねていたファルネンケルは、文武双方に携われるようにと皇帝参与の職を与えられ、『狼心皇帝』の治世を支えてきた、エクスカリュウトの懐刀である。
エクスカリュウトの側近中の側近として、広く知られたこの参謀の名を、こうまであからさまに出されては、ルドヴィニアもはたと気付かざるを得ない。
ヴェルヴィオイを養子にしたいならば、その傍近くに、自分の息が掛かった監視を置け――と、エクスカリュウトは述べているのである。
*****
ややあって、同僚に連れられてきたアミスターゼは、皇帝夫妻を前にして丁重に畏まった。
「お召しに寄りまして、参上仕りました、陛下」
年の頃は、二十歳に差し掛かったばかりであろうか。その声も姿も、ルドヴィニアの予想を超えて若い。武人というよりもむしろ駆け出しの文官のような、もの静かで怜悧な印象を与える細面の青年である。
「こなたに我が后がおる。拝顔の栄に浴するのは初めてであろう、アミスターゼ。まずは挨拶をするのだな」
「はい」
大陸北西のバリアシ教圏から移住した異端者の、先祖返りの血が色濃く表れているのだろう。癖のない亜麻色の髪と、銀がかった灰色の瞳を持つうら若い親衛隊士は、皇帝からの突然の呼び出しに臆することもなく、片膝を付いていた身体を起こすと、ルドヴィニアに向けて流麗な仕草でお辞儀をしてみせた。
「お初に拝眉致します。アミスターゼと申します。お見知りおきを皇后陛下」
「我が声を聞き、我が目に触れることを許しましょう。よきに計らいなさい、アミスターゼ」
「恭悦至極に存じます」
気負うことも無く控え目に答えるアミスターゼを、ルドヴィニアは注意深く観察した。そこへ、
「いかがかな? 我が奥方お好みの、瀟洒な美形であろう」
と、揶揄するような口振りで、エクスカリュウトが感想を求めてくる。
「品の無い仰りようですこと……」
夫にそうは答えたものの、アミスターゼは確かに、ルドヴィニアの趣味に適合していた。
ゾライユの武人にありがちな、武勇や豪腕を誇る騒々しさが無く、一挙手一投足がしなやかに優美である。それでいて毅然とした表情からは、優男という侮りを寄せ付けぬような、芯の強さも感じられた。
「気に食わぬか? もしそうであれば、他の者に替えてやっても良いのだぞ」
誰にすげ替えられようと、皇帝の犬であるという、但し書きはつくだろう――。
ならばできるだけ目や耳に、邪魔にならない方がよい。夫の問いかけに答えて、ルドヴィニアはゆるりと
「いいえ、陛下ご推薦の若者ですもの、よい働きをすることと期待しておりますわ」
「では、アミスターゼで構わぬというのだな?」
鷹揚に見せながらも、強制するような目つきをしてエクスカリュウトは念を押した。
「勿論ですわ。偉大な陛下のお心遣いを、妻であるわたくしが疑う道理はございませんもの」
国家君主の警護に当たるのだ、皇帝の親衛隊には傑出した武人が数多く揃っている。ヴェルヴィオイの守役の適任者として、その中からアミスターゼを推挙してくれたのは夫の厚意である――。
本心からは思ってもいなくとも、ルドヴィニアは表面上、そう受け止めておかねばならない。
「その通りだ。我が奥方は御身のお立場を、よく理解しておいでのようだ」
エクスカリュウトはルドヴィニアを、ゾライユの皇后である以前に、未だロジェンターの王女であるとみなしている。表向きは友好を保っていても、エクスカリュウトにとってロジェンターは、憎悪を燃やし復讐を誓った潜在的な敵国なのだ。ちょっとやそっとのことでは消せない根深い猜疑心を、簡単に捨て去ることはできなかった。
口元だけでルドヴィニアに笑みかけてから、エクスカリュウトはアミスターゼに視線を流した。
「アミスターゼ」
「はい」
「余の親衛隊の任を解き、そちに新しい主君を与えよう。ヴェルヴィオイ、来よ」
「え――? 俺?」
エクスカリュウトに突然名を呼ばれ、ヴェルヴィオイは困惑した。
アミスターゼは、それまで気にも留めていなかった、赤い髪の少年を眺めやり、ゾライユ宮廷人の例に漏れずその見目に驚いたが、皇帝夫妻を前にしてぐっと口をつぐんだ。
「そなたの名であろう。もう一度呼ばわねばわからぬか?」
「聞こえたから、いいよ。その人の隣でいいの?」
「構わぬ。参れ」
ヴェルヴィオイの不敬な言い様に、周囲はみな冷や冷やとしたが、エクスカリュウトはむしろ面白がる風であった。
故意の侮辱に対しては敏感で、時に苛烈ですらある皇帝だが、礼節を知らない子供の言葉遣いに、いちいち目くじらを立てるほど狭量ではないのだ。
人々の視線を一身に浴びながら、ヴェルヴィオイはエクスカリュウトの前に進み出た。奇妙なものを眺める目つきで、自分を窺っているアミスターゼの隣に並ぶと、ヴェルヴィオイはその顔を見上げ、ひょいと肩をすくめた。
「お互い酷い災難だよね」
この言動に、ルドヴィニアを始めゼラルデも、宮女や衛士や侍従たちも肝を冷やしたが、エクスカリュウトは珍しく声をあげて笑った。
「陛下、失礼を承知でお伺い致しますが、この方は――?」
アミスターゼは唖然として、肩を揺すって笑い転げる皇帝と、不機嫌に眉を寄せている、皇帝に似た少年とを見比べた。
「これの名を、ヴェルヴィオイという。この度皇后が養子に迎えることになったのだが、かような通りの無作法者で難儀をさせられておるようだ。そこでアミスターゼ、そちをこれの守役に任命する。師のように兄の如くに、これを守りこれを導いて、一人前の男子と成す手助けをするように」
「左様でございますか」
笑い止んだエクスカリュウトの瞳は、深遠な輝きを放っていた。語られることのない言葉の狭間から、アミスターゼは皇帝の真意を汲み取った。
「他ならぬ皇帝陛下のご命とあらば、このアミスターゼ、至らぬ身ではございますが、お志に適いますよう誠心誠意お仕え申し上げましょう」
「……あんたよくそんなの、真面目に引き受ける気になれるよねえ……」
厳かに請け負うアミスターゼに、ヴェルヴィオイは深く呆れながら、うろんげな眼差しを投げかけた。
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