72 初めての感情
ファウストが森にやって来てから、私の生活は少しだけ変化した。
森の奥底でひっそりと暮らし、数日おきにホーリーとイヴに会って。
そんな細やかな日々を過ごしていた私に、ファウストと会うという新しい習慣が生まれた。
また来ると言った彼は、宣言通りその数日後に再び姿を現した。
それから大体二週間置きほどのペースで、彼はこの森にやってくるようになったのだった。
最初にファウストがやって来た理由である魔女の討伐の件は、彼が以前言っていた通り、彼自身による魔女の不在の証言によって取りやめになったらしい。
しかし私に対する悪評に関してはスムーズに取り払うことはできておらず、未だ魔物を始めとする厄災は私という魔女のせいのままだとか。
それに関してファウストは平謝りをして来たけれど、私は特に気にしていたなかった。
状況が悪くなったわけではないし、それに最初から、人間がそう簡単に考えを改めるとは思っていなかったから。
ファウストが尽力してくれたことは、彼の様子を見れば窺えることだし、私はそれだけで満足だった。
それに、魔女討伐という物騒な行為が無くなっただけでも僥倖だと思う。
ファウストが失敗しただけとされ、第二第三の軍勢が来たらどうしようかと思っていたから。
そうした動きが止められ、私の平穏な生活が守られるのであれば、今更悪評の有無なんて気にしない。
そんなことよりも、私はすっかりファウストの来訪を楽しみにしてしまうようになっていて、そんな外野の雑音なんて気にならなかった。
ホーリーとイヴの二人と過ごす時間は、もちろん今まで通り心落ち着く幸せな時間だけれど。
ただ、それとは少しだけ違う感覚で、私はファウストとの時間を楽しむようになっていた。
ファウストはいつも、森の草木を掻き分けて輝かしい笑顔を浮かべてやってくる。
あらゆる闇を払う光のように、その清純とした彼を見ると、私はいつだって心が晴れやかになってしまう。
森の中を散歩したり小屋の中でお茶を飲んで会話をするだけでも、まるで何か特別なことをしているかのように妙に華やかな気分になる。
彼は最初に会った時と全く変わらず、私をただの一人の女として扱ってくれる。
魔女と呼ばれている存在であることも、人間とは違い神秘の力を持っていることも、その全てを度外視して。
ファウストはただひたすらに私という存在だけを見て微笑み、そして語りかけてくれる。
彼の瞳に映ってるのは何者でもなく、『私』なんだと思わされることがたまらなく心地よかった。
そんな彼と過ごしていると、自然と私の心が解れていくのを感じた。
私は基本的にコミュニケーション能力が欠如しているけれど、それでも彼といると妙に砕けるようになっていると感じた。
二人の友人との時も、昔に比べれば大分柔軟になったと思うけれど、それとは少しベクトルが違うような気がする。
私はファウストに心を開きつつあり、そして委ねつつあるのだと、しばらくして気がついたのだった。
彼が私に微笑むことがとても嬉しい。その瞳に私が映っているのが喜ばしい。
彼の唇が私の名を紡ぎ、その大きな手が私の頬に触れることが心地良くて堪らない。
私自身が彼の存在に満たされ、そして包まれていくことに、どうしようもなく幸福感を覚えてしまう。
私がそれを自覚したのは、何回目の逢瀬のことだったか。
理由はわからない。やはりわからない。でもこれに、理由などきっと必要ないと思った。
顔を合わせ、言葉を交わし、触れ合い、想いを交わした。そうして心が、そう感じた。
理由なんて存在しない。だって結果が物語っているのだから。
初めて彼と目を合わせた瞬間から、きっとこうなることは決まっていたのかもしれない。
あの時の感覚、不思議な緊張と違和感は、それを本能が感じ取っていたからなんだろう。
彼が私に誠実だとか、他のヒトとは違うとか、そんなことは後付けの理由に過ぎない。
私は、彼が彼だから、こんな感情に埋め尽くされているんだろう。
ファウストが向けくる屈託のない笑顔や、恥じらうことのない甘い言葉。
それに隠すことのない熱烈な好意に当てられてしまったのだと、そう言い訳をしたい気持ちもあるけれど。
でもそれはきっと無粋なことで、私たちが育んできた想いに対して不誠実になってしまうだろう。
だから私は、生まれて初めて感じたこの感情に対して誤魔化さないことを決めた。
私は、ファウストという青年を愛してしまった。
そして彼も、私を愛してくれている。
ヒトを愛するということを、言葉の上ではわかっていても、私は全く実感として理解していなかった。
だからはじめは、彼に対する自分の感情がどういうものなのか判断がつかなかったけれど。
でも彼との出会いを重ねていくうちに、そんなことは心が勝手に感じ取り、そして私はその事実を受け入れざるを得なくなっていた。
気がつけば彼のことを考えている。会えない時が物寂しくてたまらない。
顔を合わせれば心が弾け、言葉を重ねて触れ合えば鼓動が波打つのを押さえられない。
私の心は完全にファウストに満ちていて、それは愛情に他ならなかった。
友人たちに向ける親愛、友情とはまた違った感情だ。
彼女たちが大切だとういう気持ちは微塵も変わってはいない。
けれど、彼女たちとはまた違った席にファウストは座り、私の心の多くを二人と同じように占めるようになった。
そんな私を、二人の友人はとても喜んでくれた。
私がヒトに心を開き、そして愛することができたのは素晴らしいことだと。
彼がやって来た時何度か二人も居合わせたことがあって、そこで二人の許可も得た。
なんでそんなものが必要なのかはわからなかったけれど、でも親愛なる友人たちに認めてもらえたことは、やはり嬉しいことだった。
この世界に生を受けて二十年以上の時が経ち、私は初めてヒトを愛することを知った。
世界によって生み出され、世界を変革するだけの力を持つ私が、神秘とは程遠い人間のたった一人に想いを馳せるなんて、世界規模で見たら失笑ものかもしれないけれど。
でもそんなことは私の知ったことではないし、私は飽くまでもヒトなのだから、ヒトとして彼を愛するのだと決めた。
世界のことも、そこに生きるヒトビトのことも、そして彼らが目指す幻想と神秘のことも、私にはどうでもいい。
私はただ一人のヒトとして、ここで愛する友人と、そして愛する人と生きていければそれでいい。
私という存在と力に求められた役目なんて、そんなことは私には関係ないから。
私は自分自身とその力を、愛するもののためだけに使いたい。
ファウストと出会って半年ほどが経とうとした頃には、私の解れた心からは、世界に対する一切が抜け落ちていた。
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