104 泣いてはいられない

「あぁ…………そんな、そんな! クロアさん……!」


 抱きしめることの叶わなかった闇に腕を伸ばす。

 けれど当然何も掴むことなんてできなくて、ただくうをかき混ぜるだけだった。


 クロアさんが、消えてしまった。

 消えて無くなってしまった。

 闇に溶け、その形を崩し、跡形も無くなってしまった。


 今の今まで私の目の前にいて、その温もりを伝えてくれていた人が、もういない。


 全身の力がストンと抜け、私はその場にへたり込んだ。

 私は、クロアさんにいなくなって欲しかったわけじゃない。

 確かにとても強引で、話が通じない部分が多くて、私や氷室さんにとって脅威となったけれど。

 それでも私は、もっとクロアさんと沢山話したかった。

 納得いくまで、ちゃんと言葉を交わしたかった。


 今は刃を交え、戦いはしたけれど。

 私はクロアさんが好きだったから。


 だからどうしても、その喪失は私の心を掻き乱した。


 力なく項垂れ涙を流す私に、氷室さんがそっと寄り添ってくれる。

 言葉はなく、ただ静かに肩に手を乗せてくれるだけ。

 彼女にとっては私を害するただの敵でしかないクロアさん。

 それでも、悲しんでいる私に心を寄せてくれている。

 その心遣いが嬉しくもあり、でもどうしても悲しみが強く、氷室さんに気を向ける余裕がなかった。


「どうして……」


 自分のことで精一杯になりながら。

 溢れる涙を止めることができないまま。

 私は感情のままに口を開いた。


「どうして、クロアさんを殺したの!? ねぇ、レイくん!」


 目の前に萎らしく立つその黒尽くめの姿に、強く問いかける。

 私と氷室さんの攻撃は、クロアさんを追い詰めただけで致命傷ではなかった。

 彼女を絶命に追いやったのは、レイくんの刃で間違いない。


 私の問いかけに、レイくんは肩を落として息を吐いた。

 転臨の力の解放によってその頭から生えている兎の耳は、だらりと力なく垂れ下がっていた。


「クロアは僕らの目的ではなく、自身の利益を取った。そしてあまつさえ、君を我ものにしようと手を掛けた。ああするしか、なかったのさ」

「そんなこと言ったって! 別に殺さなくたって……ちゃんと、話せば……」

「無理だよアリスちゃん。本当に話してわかるのなら、ああはならない」

「っ…………!」


 静かに首を横に振るレイくんの言葉に、私は言い返すことができなかった。

 あの時クロアさんと私は、わかり合えたかのように思えた。

 けれど最後の最後でクロアさんは、氷室さんに対する敵意を忘れられず、私に手を伸ばしてきた。


 それは、なかったことにはできない明確な事実。

 もしそれを止められたとしても、また彼女はその激情を取り戻してしまうかもしれない。

 それほどまでに、私に対するクロアさんの執着は強かった。


「僕だって、できればこんなことはしたくなった。クロアは仲間で、僕個人の大切な友人でもある。けれど、やらなければならなかった。彼女の私利私欲で、君を傷付けられるわけにはいかなかったんだ。ごめんね」

「…………」


 とても悲しそうにそう項垂れては、何も言えない。

 何も気にしていない風に、敵だから、邪魔だから殺したまでだと言い切ってくれれば憎みようもあるのに。

 レイくんもまた苦渋の元に行ったのだと言われてしまっては、責めることなんてできなかった。


 だからきっと、責めるべきは私自身だ。

 もっと早く、もっと確実に彼女とわかり合えていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

 或いは、彼女の望みを聞き入れることができていれば……。


 いや、それはあり得ない仮定だ。

 彼女を否定した私に、そんなことを思う資格はない。

 私が責任を負うべきは、彼女と心を交わしきれなかったこと。

 感傷に浸って、しないと決めたことを今更嘆くのは彼女に対する侮辱だ。


「……ごめんなさい、クロアさん。私がもっとしっかりしていれば。もっと早く、ちゃんとあなたに向き合えていれば。クロアさん…………もう一度、クロアさんの紅茶が、飲みたかったなぁ」


 霞と散った暗闇を抱きしめ、別れの言葉を紡ぐ。

 思い出すのは、かつてこの森で何度も行ったお茶会。

 クロアさんが淹れてくれる華やかな香りの紅茶に、甘いお菓子の数々。

 楽しくお喋りしながら、ゆっくりと気ままに過ごした日々の記憶。


 あの日に戻れたらと思うのは、決してクロアさんだけじゃない。

 全く同じでなくとも、あのように楽しくテーブルを囲みたかったのは、私だって一緒だ。

 でももうそれは、どんな形でも叶わない。

 優雅に紅茶を淹れるクロアさんの姿を、もう見ることはできないんだ。


 クロアさんが望むものは、もう叶うべくもない。

 けれど、その想いに報いることができるとすれば。

 それは私が健やかに生き続けること。


 あらゆる困難を乗り越えて、何者にも屈することなく、私が私であり続けること。

 今の私が彼女の気持ちに応える為には、もうそうするしかない。


「…………」


 ぐいっと涙を拭って、私はよろめく足で立ち上がった。

 クロアさんは、私の笑顔が好きだと言ってくれた。

 ならいつもまでも泣いてなんていられない。

 もう会えないのは悲しくて悲しくて堪らないけれど、それで泣き続けてはクロアさんが悲しんでしまうだろうから。


 彼女の望み、それ全てに応えることはできないけれど。

 私は私なりに、彼女の想いに報いていこう。

 そう心に決めて、私は地面を強く踏みしめた。


「……やっぱり、君は強いね」


 そんな私を見て、レイくんが優しく微笑む。

 レイくんだって悲しいのを堪えているのに。

 寧ろ自らの手で彼女を殺めたレイくんの方が堪えていたっておかしくない。

 それでも私を気遣って笑みを浮かべるレイくんに、私は静かに頷いた。


「ごめんね氷室さん。沢山無理させて」

「私は、大丈夫」


 すぐに隣に顔を向けて、私は氷室さんの安否を確認した。

 とても濃い疲労を浮かべている氷室さんだけれど、大事は見受けられなかった。

 ただ散々クロアさんに痛めつけられたダメージは大きいようで、まだ体がふらついている。


「あなたが無事なら、それで。私のことは、気にしないで」

「そんなわけにいかないよ。私だって氷室さんのこと心配なんだから」


 淡々と自らを後回しにする氷室さん。

 私はそんな彼女をギュッと抱きしめて、強く治癒の魔法をかけた。

 大きな外傷がなくとも、その体に刻まれたダメージは大きいように見える。

 けれど私が注力して治癒をかけると、氷室さんの顔色はぐんと良くなった。


「────さて、それじゃあ行こうか、アリスちゃん」


 氷室さんが回復し、私たちが落ち着きを見せたところでレイくんがポツリと切り出した。

 その爽やかな顔に静かな瞳を浮かべて、そっと私に向けて手を差し伸べる。


「僕と一緒に神殿へ。そこにホワイトはいる」

「……うん」


 もう何度、この手を取れなかったことか。

 けれどもう断る理由はなく、そして邪魔するものもない。


「ホワイトを止めて、あの戦いをやめさせる。私はその為に、レイくんと一緒に行くよ」


 私は自らの決意を言葉にしてから、その手を強く握った。

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