102 愛しております
「あなた様は本当に、健気でお優しい方。わたくしはその純粋なお心を、守りとうございました」
「……はい」
「その無垢な心を傷付けず、太陽のような笑顔を曇らせることなく、ただ健やかに過ごして頂きたかった。わたくしはそれを、傍で見守ることができれば、それだけで……」
「……はい」
魔女としての望みも、ワルプルギスとしての目的も全て投げ打って、私のことだけを想ってくれたクロアさん。
その優しさはまるで母親のようで、包み込むような温もりを感じる。
彼女の根源的な想いは、そんな庇護からくるもの。
それはその手から、十分すぎるほど伝わってくる。
私の頰を撫でる指はあまりにも優しい。
「……ずっと、誰にも受け入れられず、誰にも求められず、わたくしには孤独しかありませんでした。そんな中で現れたあなた様は、わたくしにとって一筋の希望だったのです。純真無垢な心で私に寄り添い、楽しげに笑いながら駆け寄り、抱きついてくださるあなた様が、愛おしくて堪らなかった。わたくしの生涯で唯一、わたくしを求め、必要とし、この心を満たしてくださるのがあなた様だった。そんなあなた様を、わたくしはどうしても諦められなかった……離れることが、できなかったのです」
「………………」
七年前、この『魔女の森』で過ごした一ヶ月の間、クロアさんは沢山私のことを可愛がってくれた。
私はそんなクロアさんが大好きだったし、私だってずっと一緒にいたいと思っていた。
けれど私のそれは、当時の子供ながらの気持ちで、いろんなものを経た私は、それだけを考えることはできない。
でもクロアさんはあの時からずっとずっと、私のことを想い続けてくれていたんだ。
「ですが、あなた様にはわたくしよりも必要とするものがある、のですね。それはあまりにも受け入れ難く、悔しくて仕方ありません。認めることは、したくない。それでも、あなたがそれを望み、こうしてわたくしに抗うのならば……」
大粒の涙が溢れ、私の頬にボトリと落ちる。
私はそれをただ受け入れ、頰を包む手に自らの手を重ねた。
「わたくしは、あなた様を愛する者として、そのお心を受け入れるしかないのでしょうね。あなた様が、自らが信じる者と手を取り合い、わたくしを乗り越えていくのなら……それがどんなに受け入れられないものだとしても、飲み込む、しか……」
「…………」
私に掛けられる言葉はなかった。
彼女を拒絶し、打ち倒し、蔑ろにするのだから。
そんな相手に言葉を掛けるなんて、それは侮辱以外の何物でもなく、私の自己満足だ。
だから私は、ただ、向けられる言葉を受け入れた。
「あぁ……悲しゅうございます、口惜しゅうございます。それでも、これがわたくしが辿り着いた結果。力及ばぬ者の末路。わたくしには、あなた様を
そんなことはないと、言ってしまいそうになるのを堪える。
その代わりに添えた手に力を込めると、クロアさんは薄く微笑んで両の手で私の顔を包んだ。
とても柔らかく優しくて、弱々しくも温かいそんな手で。
「ごめんなさい、クロアさん。私には謝ることしかできない。私はクロアさんの望み通り、全てを投げ出してずっとあなたと一緒にいることはできない。それでも、私が全てを乗り越えて解決させて、ケリを付けられた時。そんな私でもクロアさんが受け入れていくれるのなら……私はまた、一緒に紅茶が飲みたいです。クロアさんが淹れてくれる、美味しい紅茶を」
「……はい。もちろんでございますとも」
クロアさんを拒んだ私は、彼女を慰めることはできないし、心を鎮めてあげることもできない。
だから私に言えることは、私自身が選んだ道の、その先のことだけ。
今はこうしてぶつかり合って、傷つけあってしまったけれど。
それでも私はクロアさんのことが好きだから。彼女を拒絶した私をまだ受け入れてくれるのならば、私はクロアさんとの未来を語りたい。
彼女の理想を叶えてあげることができなくても、それでも私たちがまた仲良く穏やかな時を過ごせるような、そんな未来を目指したいんだ。
それは私の独りよがりで、わがまま。ふざけるなと罵られてもおかしくない。
けれどクロアさんは大粒の涙を浮かべながら、うんうんと大きく頷いてくれた。
私の顔を優しく包み、撫で回して、何度も何度も頷いてくれた。
「姫様は本当にお優しい方。あなた様に出会えたことは、わたくしの人生の宝でございます。だからこそ、ずっとそのお側に寄り添っていたかった……」
クロアさんは微笑みながらそう弱々しく呟いた。
涙に蕩けた瞳で私を見つめ、そしてその目が隣の氷室さんへと向く。
「姫様はあなたを選んだ。わたくしではなく、あなたを。わたくしはそれを受け入れなければなりません。そう、受け入れなければならない。それが、姫様の選択なのですから」
私の頬を包む指に、力が入った。
「────しかし、やはりそんなこと…………そう、そうです。やはり────わたくしを受け入れてくださらなくても、あなただけは────! あなたにだけは姫様を渡したくは、ない。姫様は、わたくしが────!!!」
突如、弱々しかったクロアさんの瞳に力が戻った。
氷室さんに対する一方的な拒絶感が、彼女を奮起させ力を漲らせたようだった。
下半身を凍りつかせたまま、その体から黒々とした闇を吹き出す。
「あなたには、あなたにだけは、渡せない。姫様は、わたくしがお守りする────!」
「クロアさん……!」
途端に狂気を取り戻したクロアさんが、その熱烈な眼差しと共に吠えた。
その手を私の頭にぐるりと絡め、その混沌とした闇を覆いかぶせてくる。
密接していた私に、それをかわすことはできなくて。
「姫様! やはりあなた様は、わたくしが────」
痛烈な叫び。しかしその続きを聞くことはできなかった。
唐突に叫びは断裂し、クロアさんは大きく口を開けたまま、カッと目を見開いて固まった。
まるで、そこで時間が止まってしまったかのように。
何事かと、事態が受け入れられないままに彼女の顔から視線を下ろすと、そこには────
胸を突き破る黒々とした鋭い刃が見て取れた。
「やれやれ。君がアリスちゃんに手をあげるなんてね」
私がそれを認識した瞬間、呆れ返った声が静かに響いた。
それは確かめるまでもなくレイくんの声で、クロアさんの背後から聞こえるものだった。
レイくんが、屈み込んでいるクロアさんの背に乗り、その背中に闇のように黒い刃を突き立てていた。
「残念だよ、クロア」
レイくんはそう呟くと刃を引き抜き、静かに目を伏せクロアさんの背から飛び降りた。
その瞬間クロアさんの体から力が抜け、がくりと傾いた。
「クロアさん!!!」
ごぽっと口から血を吐いたクロアさんに、私は頭が真っ白になりかけながら叫んだ。
クロアさんは完全に血の気の失せた顔で、弱々しく血濡れた唇をパクパクさせる。
その手からは力が抜け、私の顔から滑り落ちる。
「いや……いやだよ、クロアさん!」
落ちかけた手を取り、強く呼びかける。
けれどクロアさんは私の声に応えることもできず、震える瞳をただ向けてくるだけ。
そうこうしている内にその胸の傷口からは血と共に夥しい闇が吹き出し、クロアさんの体をズブズブと包んでいった。
「ひめ、さ、ま……」
ゆっくりと唇を動かし、辛うじて声になった息をこぼす。
そこにもう力はなく、今にも消えそうな弱々しい霞のようだった。
彼女を包んだ闇が、その存在すらも闇に飲み込んでいく。
その形、姿をあやふやなものに溶かして、まるで元から存在しなかったみたいに。
朽ちた肉体が崩壊していくように、クロアさんの体は徐々に闇に溶け、形を失いだした。
「クロアさん! クロアさん!!!」
どんなに呼び掛けても、虚な瞳には響かない。
せっかく、これからを見つけられたと思ったのに。
いつの日かの夢を分かち合えたと思ったのに。
こんなのって…………。
溢れる涙を拭う余裕もなく、私は手を強く握って呼び掛けた。
死んで欲しくなくて、いなくなって欲しくなくて。
それでも私を見下ろすクロアさんの表情にもう生気はなく、同時に自らの終わりを悟ったかのように静かだった。
闇に崩れた体が、氷結の拘束を逃れて落ちてきた。
私はそれを受け止めようと手を伸ばす。
「ひめさま……わたくし、は…………」
けれど、私はそれを抱きとめることができなくて。
「あなた様を、あいして────」
私が腕を囲った瞬間、その体は霞となって、闇に溶けてしまった。
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