72 今度は私が
「……私たちも、もう帰りましょう」
カノンさんとまくらちゃんの姿が完全に見えなくなってから少し、私はその沈んでいった暗闇を見つめていた。
そんな私の手をそっととって、氷室さんが控えめに声を上げた。
静かに向けられたそのスカイブルーの瞳は、どこか私の様子を伺うように揺れている。
氷室さんのひんやりとした手に触れられて、とても心地よかった。
冬の夜の寒さの中なのに、氷室さんの手のひんやりさは嫌なものを全く感じない。
むしろ心を落ち着かせる穏やかさを持っていて、触覚は冷たいけれど心はじんわりと温まる。
それはきっと、氷室さんが私のことを想ってくれているから。
そして私自身が氷室さんことを心から信用しているからだ。
長い前髪の隙間からそっと私に目を向けてくる氷室さん。
私はその手を握り返してニッコリと笑みを返した。
「そうだね、もう遅くなっちゃったし。でもごめん。私、まだちょっと用があって」
「…………?」
「透子ちゃんの様子を、見ておきたいんだ」
「…………」
首を傾げた氷室さんは、私の言葉に押し黙った。
氷室さんにとって透子ちゃんは、ただ一度顔を合わせた人に過ぎない。
けれど私にとってはとっても大きな存在だとわかってくれているんだ。
その瞳には僅かな憂いが窺えた。
「ごめんね、さっきからずっと待たせっぱなしで。少し顔を見ておきたいだけだからそんなに時間はかからないと思うし、待っててくれると嬉しいな。もちろん、嫌なら先に帰ってても……」
「────いいえ、待ってる」
私の尻すぼみな言葉に被せるように、氷室さんははっきりと応えた。
前髪の隙間から覗かせる瞳は凛と力強く、私の心を見透かしているように透き通っている。
「ありがとう。わがままばっかりでごめんね」
強くぎゅっと手を握って言うと、氷室さんは静かに首を横に振った。
その口元は僅かに笑みを浮かべていて、氷室さんの心からの行為であることが窺えた。
そんな私たちを見て、千鳥ちゃんが呆れたような溜息を吐く。
「……全くアンタたちは。────いいから早く行って来なさい。私が霰とお喋りでもして待ってるわ」
「うん。じゃあ、ちょっと行ってくるね」
ぽんと千鳥ちゃんに背中を押されて、私は足早に階段に向かった。
千鳥ちゃんと氷室さんが二人でお喋りしているという光景は、少し想像しにくいなぁなんて思いながら。
さっきまでいた三階、そして夜子さんがいつもいる四階を越えて五階まで昇る。
流石に上まで駆け足で昇る体力はなくて、途中からペースを落としてしまったけれど。
ボロボロで暗い階段を昇って、この廃ビルで唯一小綺麗な扉まで辿り着く。
その扉を潜ると、もう何度も目にした白い部屋が広がっていた。
ボロボロな廃ビルの中とは思えない、病院のような清潔感のある部屋。
その真ん中にあるベッドには、変わらず透子ちゃんが眠っていた。
レオとアリアに襲われている私を助けてくれて、その代わりに目覚めなくなってしまって人。
透子ちゃんは一昨日の時と同じように、微動だにせず静かに眠っていた。
まるでそういう作り物かのように、静かにベッドに横たわっている。
寝返りすら打っていないようで、ベッドには僅かなシワもなかった。
「透子ちゃん……」
そっとベッドに傍に歩み寄ってその名前を呼ぶ。
当然返事はない。僅かに上下する胸が呼吸をしていることだけを教えてくれる。
微かな呼吸音以外、この部屋には何の音もない。
白い肌は少しだけピンクがかっていて、顔色の良さが窺えた。
こうして見ると、本当に眠っているだけのように見える。
でも透子ちゃんはもう何日も目を覚まさない。
夜子さんは、もう肉体的なダメージはほぼ癒えたと言っていた。
だから後は透子ちゃんの精神的な問題。つまり心の問題だって。
「透子ちゃん。あなたは一体、どうしたらその身体に戻れるの?」
返答のない問いかけを口にする。
透子ちゃんが目覚めないのは、その身体から心から抜けているから。
そしてその抜けた心は、今私の中にいる。
先日夢の中で会った透子ちゃんはそう言っていた。
そして、身体に戻らず目を覚まさないのは自分の意思なんだって。
今の状態でやることがあるんだって。
透子ちゃんが一体何を考えていて、そして何をしようとしているのは私にはわからない。
でも、そのやることが終わったら、透子ちゃんは自分の身体に戻って目を覚ますことができるはずなんだ。
自分の身体から抜け出てしまった心を私の中で守ってあげることで、来たるべき時に戻してあげることができるはず。
透子ちゃんがしたいと持っていることを手伝ってあげることは、今の私にはできない。
透子ちゃんは決して多くを語ってはくれなかったから。
だから今の私にできるのは、その心を抱いて守ってあげることだ。
「今度は私が守るからね。いつか透子ちゃんが目を覚ませる時まで。そのやるべきことが終わるまで。でもできることなら、私は一刻も早く透子ちゃんが戻ってこられる手伝いをしたいなぁ」
そっと、その艶やかな黒髪の頭を撫でる。
もう傷は癒えてるとはいっても。目覚めないのは自分の意思だとしても。
でもやっぱり、透子ちゃんをこうしてしまったのは私だから。
私は透子ちゃんの為になることをしたい。
でも今の私には、何をすれば透子ちゃんの為になるのかわからない。
だから私は、必死に守ってくれた透子ちゃんの気持ちに応えるためにも、何にも囚われず自由に生きていこうと思う。
私の力を求める魔法使いやワルプルギスの思惑に囚われることなく、自分自身の意思で。
だって透子ちゃんは言っていた。
私たちはいつだって自由だって。だから自分の望みを、意思を貫けって。
だから私は、何にも囚われない自分自身の道を歩んでいこう。
それが、透子ちゃん気持ちを汲むことになるはずだから。
その為に今できることは、封印を解いて記憶と力を取り戻すことだ。
私の運命は、もう私だけものもじゃない。
いろんな人の繋がりで、守ってくれる人や支えてくれる人たちとの繋がりでできている。
もう目をそらしたり戸惑っている暇はない。
だってもう、運命は目の前まで来ているんだから。
鍵を持っているレイくんが言っていた言葉も、真剣に考えないといけない。
「もう少しだけ待っててね。私、頑張るから」
ベッドの中に手を滑り込ませ、穏やかに眠る透子ちゃんの手を握る。
熱を持ったその手の存在感が、私の気持ちを固くしてくれた。
情熱の炎を握るようなその手に、私は再会を誓った。
透子ちゃんが目を覚ました時は、もう一度顔を合わせる時は、完全な私で迎えよう。
全てを取り戻し、全てを思い出した私で透子ちゃんを抱きしめよう。
そう誓った。
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