18 恐れているのは

「失礼致しました。大変お見苦しいところを……」


 奥から戻ってきたクロアさんはシュンとして恥ずかしそうに言った。

 もう泣き止んでいて普通の顔に戻っているけれど、目元はちょっぴり赤いままだ。


 私が気にしていないという風に首を横に振ると、クロアさんは安心したようにわずかに微笑んで見せた。

 そうした普段の仕草はとても落ち着いて大人っぽいから、時折見せる子供っぽさのギャップが物凄い。


 今のクロアさんを見ていたら、さっきまで子供のように泣きじゃくっていた人と同一人物とはなかなか思えなかった。


「あ、あの、クロアさん。私、用があってここに来たんです」


 普段の調子に戻ったクロアさんが、また私のすぐ側に腰掛けたところで私は切り出した。

 クロアさんは私にぴったりと体を寄せて、はいと優しく頷く。

 自然な動作で私の太もも辺りに乗せられたクロアさんの手が、とてもひんやり感じる。


「私、鍵を返してもらいに来ました。自分にかけられている封印を解きたいんです」


 私が言うと、クロアさんは困ったように眉を落とした。

 肩を落として残念そうに息を吐き、手が私の太ももを優しく撫でた。


「左様でございますか。ですが残念ながら、鍵は今ここにはございません。レイさんが、管理されておりますので」

「やっぱり、そうなんですね。そのレイくんはいつ帰ってくるですか?」

「それはわたくしにもわからないのです。お役に立てず、申し訳ありません」


 目を伏せて悲しそうに言うその表情は、嘘を言っているようには見えない。


「どこに行っているかは?」

「それもわかりかねます。基本的にレイさんは、自身の行動を伝えてはくださらないのです」


 なんともレイくんらしいと思いつつ、困ってしまった。

 いつかレイくんが帰ってくるまでここで待っている、というのは現実的じゃない。

 だからといって今からあてもなくレイくんを探しに行くというのも、なかなか無理のある話だ。

 今日はタイミングが悪かったと、また出直すしかないのかなぁ。


「姫様は、やはり全てを取り戻したいとお考えですか?」

「もちろんです。それに、それはワルプルギスも望んでいることでしょう?」

「それは、そうでございますね……」


 クロアさんは私から目をそらして、なんとも歯切れの悪い相槌を打った。

 私にぴったりとくっつく体が少しその重みを預けてくる。

 私の太ももを撫でる手は、なんだか絡みつくようだ。


「クロアさん……?」

「わたくしの、一個人としての意見を申し上げるのならば、あなた様はあなた様のままでいらした方が良いと思います」

「え?」


 控えめに恐る恐る言うクロアさんに、私は首を傾げざるを得なかった。


「勿論わたくしは、以前の姫様、本来の姫様のことも愛しく思っております。ですが、全てを忘れている今、無理に取り戻すことであなた様の純粋さが損なわれてしまうのではと……」

「そんなこと、言ったって……」


 ワルプルギスは私の力を欲しているはずなのに、どうしてそんなことを言うんだろう。

 まるで私の力なんてどうでもいいみたいな言い方だ。

 クロアさんが私のことを想ってくれていることはわかっているけれど、だからってその言い方は……。


「申し訳ございません。これはただのわたくしの我が儘。どうかお聞き流しください」

「えっと……どうしてクロアさんはそう思うんですか? ワルプルギスはみんな、私の力が一番欲しいんですよね?」

「……左様でございます。姫様の封印の解放、そしてその奥にある『始まりの力』の覚醒こそが、我らワルプルギスが望むもの。それはわたくしも同じでございます」


 クロアさんは少し言いにくそうにしながらも、私の問いかけに答えてくれる。

 けれど私の顔は見ずに、俯きながらポツポツと。


「わたくしも、リーダーや同志と共にその志を持っております。ですがわたくしの心のどこかで、それよりも姫様の御心を思う気持ちが……」

「私の、心?」

「はい。姫様は現在、あらゆるしがらみから解放されてご成長なされた。しかし記憶と力を取り戻すことで、あなた様は再び波乱の運命すらも取り戻してしまうのですから」


 クロアさんはゆっくりと顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見た。

 深く暗く黒々とした瞳を柔らかく潤ませて、とろんと甘い目で私を切に見つめてくる。


「でも、今ももう同じようなものですよね? 私の力を求めて魔法使いやワルプルギスがやって来て……」

「姫様ご自身に自覚があるかの違いでございます。今はまだ他人事のように思えることでしょう。しかしかつての記憶を取り戻し、その身に力が返り咲けば、もうそれはどうしようもなくあなた様ご自身の問題となるのです」


 クロアさんの言わんとしていることは、ぼんやりとしか理解できない。

 クロアさんは、私がかつてを取り戻すことで変わってしまうことを恐れているってことなのかな。

 かつての出来事を思い出して力を取り戻すことで、今の私に決定的な何かが起こるってこと?


 今の私は当時のことを人伝いで少し知っているだけ。

 力だって本当に必要な時、ほんの僅かに使えるだけ。

 けれど封印が解ければ、それらは私自身ものとして返ってくるわけで。


 全てを取り戻すことで、私の中の何かが変わる。

 何も知らずのほほんと生きてきた今の私が、真実と運命を思い出すことで、きっと何かが起きる。

 クロアさんが感じているのは、そういったことへの恐怖ってことなのかな。

 もしそうだとしたら、それは私が感じていたものと同じだ。


「クロアさん。私も、自分が変わっちゃうんじゃないかって怖かったんです。全てを取り戻したいと思う気持ちと同じくらい、それによって私の心が変わってしまうことが怖かった。でも、もう私は大丈夫なんです。私の心と繋がってくれている友達の心が、きっと今の私を導いてくれるから」


 かつての出来事や記憶が大切なものだということはわかってる。

 でも、今の私がここまで来てきた軌跡、そして周りの人たちと築いてきた関係も同じくらい大切だ。

 だから、かつての記憶や気持ちにただ飲み込まれてしまうのは嫌なんだ。

『始まりの力』というドルミーレの力にも。


 でも、今の私を必要としてくれている友達がいる。私のことを想ってくれる人たちがいる。

 この心と繋がるみんなの心が、きっと大きな渦から私を守ってくれるはずだから。

 そうすれば、私はただ飲み込まれるだけじゃなくて、自分の気持ちで全てを見渡せるはずだと信じてる。

 確固たる自分を保って、全てに向き合えると。


「だからクロアさん、私は大丈夫です。もちろん昔を思い出したら、今と全く同じではないかもしれませんけど。でも、今ここにいる私がまるっきり変わってしまうようなことには、きっとなりませんから」

「姫様……」


 ニッコリと笑みを向けると、クロアさんは少し頰を朱色に染めた。

 蒼白と言っていいほどに白い顔が、ほんのりピンクになる。

 けれどまだ不安は残るようで、眉を落としたまま視線を下げた。


「わたくしが恐れているのは…………いえ、姫様がお覚悟を決めていらっしゃるのであれば、無粋なことでございますね」


 小さな声で呟いて、クロアさんは自分自身を納得させるように独り言ちた。

 そして視線を私に戻すと、緩くふんわりとした笑みを浮かべた。


「姫様の御意志であれば、わたくしは多くを申しません。わたくしはいかなる姫様であろうとお慕い致します」

「あ、ありがとうございます…………?」


 慈しむような笑みで口にされた言葉は、愛の告白のような艶を持っていた。

 言葉こそ違えど、愛していますと同じ意味を含んでいるであろう言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。

 それは慈愛であり恋慕であり親愛であると、子供の私でもわかってしまったからだ。


 私の手を包み込むように握って、まるで母親のような母性溢れる笑顔を向けてくるクロアさん。

 どんな時も寄り添うと、見守ると、慈しむと、その笑顔は告げていた。

 その溢れんばかりの気持ちに、私はどうしていいかわからずドギマギすることしかできなかった。

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