41 その名前は

 氷室さんが話しやすいように顔を離して、ついでに少し体も離す。

 それでも狭い浴槽の中ではどうしても体は触れ合う。

 両手をしっかりと繋ぐように握って、脚の間に氷室さんの小柄な体を感じながら、私は氷室さんが話し始めるのを待った。


 氷室さんは少し俯きながら、けれどその瞳は私の方を向いている。

 お湯から少し覗いている細い肩が小刻みに揺れているような気がした。

 励ますように手を握る指に少しだけ力を入れてみると、応えるように握り返してきた。


「…………私は、『まほうつかいの国』のとある貴族の家に、産まれた。国内でも有数の魔法使いの大家で、私はそこの、末娘だった」


 決心がついたのか、氷室さんは淡々と語り出した。

 迷っていた時と比べると、それはとても冷静な語り口だった。まるで他人の出来事を話すかのように。

 けれど元々氷室さんは冷淡な話し方をする子だし、努めて落ち着いて話そうとしている結果なのかもしれない。


「だから、氷室 霰という名前は、私の本当の名前では、ない。私の元の名前は────ヘイル・フリージア」

「ヘイル……」


 元の名前を口にするのが憚られたのか、言葉の間には少しの空白が流れた。

 けれど躊躇いつつも告げられたその名は、確かにロード・スクルドが言っていたものと同じだった。


「あの、特別な意味はないんだけど……氷室 霰の方が、氷室さんらしいって思うなぁ」


 率直な感想をポロリと溢してしまって、言ってからハッとする。ちょっとデリカシーのない発言だったかもしれない。

 氷室さんも少し驚いたように目を見開いた。

 けれどそれは嫌悪感のようなものではなく、単純な驚きによるもののようだった。


「昔のあなたも……同じようなことを言った」

「え、昔の私も……?」


 氷室さんは当時を思い出すように、ゆっくりと噛みしめるように呟いた。


「こちらの世界にやって来たばかり時、私はあなたと出会った。その時私が、もうその名は使えない名前だと言うと、あなたが私を、じゃあ霰ちゃんと呼ぶと……」

「え、じゃあ氷室さんの今の名前は、私がつけたの!? でも、そう考えると、霰はどこから……?」

「その日は、雪の降っている日だった。けれど朝方は少し霰が降っていたみたいで、あなたはそれを思い出して、私のイメージにぴったりで私らしいと……」

「我ながら安直だなぁ……」


 子供の頃とはいえストレートなネーミングに恥ずかしくなって、私は思わず苦笑いを溢した。

 確かに氷室さんはクールだし、その透き通るスカイブルーの瞳も相まって、氷や雪などの冬っぽいものを連想させる。

 だからって、朝に霰が降っていたから霰ちゃんって、昔の私はまったく……。


「でも私は、嬉しかった。初めてできた友達に、新しい名前をつけてもらえて。だから私は、この名前こそが本当の私だと……」

「そっか。氷室さんが気に入ってくれているのなら、いいんだけどさ」


 氷室さんは薄く笑みを浮かべて、噛みしめるように言う。

 過去の氷室さんに少しでも拠り所を作ってあげられたのなら、それは良かった。

 それにしても氷室さんの今の名前を私がつけたというのは、気恥ずかしくもあり、でもやっぱり嬉しかった。


 そう思った時だった。不意にズキリと心が痛んだ。

 心の奥底から止めどない不安と動揺が込み上がって来て、自分自身の感情と反してグラグラと心が揺れる。

 この感覚は、さっき公園で氷室さんの話を聞いていた時にもあった。


 これはきっと、私の中にいる私のものではない心の感情だ。

 私の過去の出来事に対して、私じゃない心が反応している。

 でもどうして、こんなに不安に駆られるんだろう。


「花園さん……?」

「ごめん、大丈夫。続けて」


 きっとあからさまに私の顔色が変わったんだろう。氷室さんが心配そうにこちらを窺ってきた。

 でも自分でもまったく説明のつかないこの感情のことを伝えるすべがなくて、私は笑顔を作って先を促した。

 氷室さんは少し訝しげにしながらも、またゆっくりと口を開いた。


「私の産まれた家、フリージア家は魔法使いの大家で、その当主は代々君主ロードの位を得て、魔女狩りを統べる一角に立っていた。だから……人一倍魔法使いであることに誇りを持っていて、穢れや不純を許さなかった。そんな中、私は『魔女ウィルス』に感染してしまった……」


 それはアリアから聞いた話と一致していた。

 彼女が耳にしていた噂というのは、やっぱり本当だったということだ。


「はじめ私は、家に閉じ込められた。外に出れば、他の魔法使いに魔女だと知られる。だから、家に居なさいと。暗い部屋に一人押し込められて、私は誰にも会えなかった」


 氷室さんは僅かに眉を寄せた。

 思い出したくない過去であることは明白だった。

 幼い子供が誰とも接することもなく閉じ込められたることの孤独と恐怖は、想像に難くない。

 考えて私も少し身がすくんでしまった。


「やがて私は、はじめからいなかったことにされてしまった。末の娘など産まれていなかったこと、にされた。魔法使いの家に魔女が出たという事実を、根底からなかったことにするために」

「そんなの、酷いよ……」


 思わず私が呟くと、氷室さんは少し口元を緩めた。

 諦めのような笑みに私は見えた。そういうものだと、仕方ないんだと言うように。


「それでも私の命を取らなかった理由は、私にはわからなかった。ただその時の私は、他の魔女のように殺してくれればいいのにと、思っていた」

「そんな……」

「隙間からの光以外、明かりもない暗く狭い部屋の中で……誰とも言葉を交わすことなく、ただ一人で押し込められている生活は、あまりにも酷だった、から……」


 私が悲鳴のような声を上げると、氷室さんはそう付け加えた。

 幼い子供が死んだ方がマシだと思うような生活を、氷室さんは送らされていたんだ。

 ずっと一人で怖い思いをしながら、寂しい思いをしながら、孤独と戦っていたんだ。


「そんな生活が一年程続いた時、私は唐突に外に出された。当時の当主だった父親の姿はそこにはなくて、私を外へと出したのは兄────だった」


 氷室さんは名前を口にしようとして、けれど躊躇って身震いした。

 でも兄というのがロード・スクルドを指しているだろうことは明白だった。


「一年ぶりに明るい所に出され、朦朧としている私を、兄は、痛めつけた。拷問のように、徹底的に、あらゆる魔法を使って」

「あの人、そんなことを……!」


 一見すれば人の良さそうな爽やかな好青年だ。

 王子様のような風体は、何も知らなければ清純さと潔白さを思わせる。

 けれど実の妹に対して、そんな非人道的な仕打ちをしていたなんて。

 まぁ、氷室さんを殺しに来た時のあの冷たい態度を鑑みれば、それは妥当ではあった。


「最後に私に、二度と家に関わるなと、名を捨て、別人として生きて死ねと、そう言って、異界の門へと私を放った」

「………………」

「そうして、私はこちらに流れ着いた。魔法で傷を癒して、何もわからないこの世界で一人、どうやって生きていこうか途方に暮れていた時。私は、あなたに出会った……」


 氷室は少し穏やかな表情で言った。

 けれど私の方は、ズキズキと心を締め付けられているような痛みに苛まれていた。

 心の奥底から湧き上がってくる別の心からの感情は相変わらずで、けれどそれと同時に私自身の心が悲しみに暮れていた。


 氷室さんが、私の大切な友達が、過去にそんな辛い日々を過ごしていたなんて。

 断片的なその話を聞いただけでも、語られた事実は重く苦しかった。

 自分のことのようにその時の気持ちや感情が想起できて、思わず涙がこみ上げてくる。


 私は躊躇うことなく氷室さんに飛びついた。飛びついて、思いっきり抱きしめた。

 狭い浴槽の中で激しく動いたものだから、バシャバシャとお湯が跳ねて辺りに飛び散る。

 不意な私の飛びつきに対応できなかった氷室さんは少しひっくり返りそうになって、更にお湯が大きく跳ねて二人してお湯をたっぷり被ってしまった。


「花園、さん……?」

「氷室さん……辛かったよね、寂しかったよね。氷室さんがそんな日々を乗り越えてきたなんて、知らなくて……。私、氷室さんにそんな酷い仕打ちをした人たちのこと、許せないよ……!」


『まほうつかいの国』ではそういうものだと言われても、魔法使いとはそういうものだと言われても、納得なんてできないし、どうしようもない怒りがこみ上げてくる。

 それも他でもない実の親や兄弟が氷室さんのことを苦しめていたなんて。想像するだけで煮えたぎるような思いだった。


「私がもう絶対に氷室さんを一人になんてしないよ。私がいつだって一緒にいてあげるから。ずっとずっと、私は氷室さんの味方だから……!」

「……ありがとう、花園さん。私も、あなたがいてくれれば……」


 力の限り抱きしめると、氷室さんも弱々しくも返すように腕を巻きつけてくれた。

 孤独と戦ってきた氷室さんを、愛されるはずの家族に虐げられてきた氷室さんを、救いたいと思った。

 過去に起きた出来事をなかったことにはできないけれど、それを塗りつぶすような日々を過ごさせてあげたいと思った。


 私自身の心の悲鳴と、別のところからやってくる痛烈な悲鳴が、私の中で共鳴してぐちゃぐちゃになっている。

 この気持ちは一体何なんだろう。ものすごく不安な気持ちにさせてくる。

 この強烈な不安と否定と動揺の悲鳴は、一体誰のもの……?

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