53 わからない

 残ったのは静寂だけ。

 周囲を埋め尽くしていた邪悪な気配は巨人の消滅と共に消え去って、静かな夜に戻った。


 私の胸には燃えるような温かさが灯って、これがきっと晴香の心を受け入れたってことなんだと思った。

 確かにここにある。これはきっと気持ちの問題だけではなくて、本当に私の心に晴香の心が寄り添ってくれているんだって、そう思った。


 晴香を失ったことは堪らなく悲しい。

 今だって受け入れきれなくて、心はぐちゃぐちゃになってしまそう。

 でも私の胸に灯ったこの温かさが、私の心を支えてくれているようだった。

 この胸に晴香を感じることができるから、私は辛うじて挫けずにいられる。


 それでもどうしようもない脱力感に襲われて、私はだらりと腕を垂らした。

 辛うじて握っている剣の切っ先を地面につけて、肩を下ろす。

 大切なものを失った喪失感と、その後に残った罪の塊との対面による絶望感と。

 そして自らの手で全てを終わらせた虚無感と。

 色んなものが押し寄せてきて、全身の力が抜けそうになった。


「花園さん……」


 そんな私を、氷室さんが後ろから抱きしめてくれた。

 華奢な体で力強く私の体を締め付けてくる。

 その儚さと力強さが、とても心強く感じられた。

 全てを預けて縋り付いてしまいたくなるほどに。


「私、ちゃんとできたかな」

「ええ。あなたは頑張った」

「晴香のこと、ちゃんと救ってあげられたのかな」

「きっと……」


 氷室さんの言葉とても優しくて、強張った私の心をほぐしてくれる。

 この優しさに甘えてしまいそうになるけれど、きっとそれではダメなんだ。

 今それに甘えることは、逃げになってしまうから。

 私は今起こったことを全てこの胸に刻まないといけない。

 私のために全てを賭した晴香の想いと、自分が犯した過ちを。


 善子さんも千鳥ちゃんも寄って来てきくれて、労わるような顔を向けてくれた。

 そんな友達の優しさに救われる部分もあるけれど。

 でも今は、責めて欲しい気がした。


 けれどきっと、みんなは私を責めはしない。

 だから私が、私だけは、今回の自分の選択の責任をしっかりと自分に課さないといけないんだ。

 この胸に晴香の心を抱き続けて、その想いに応えることで。


「アリスちゃん、あれを見てごらん」


 夜子さんが静かな声で言った。

 その声には先程までの張り詰めたものはなくなっていて、いつもと同じ穏やかなものに戻っている。

 夜子さんが指差す先、さっきまで巨人がいた所に、白く光る何かが浮かんでいた。

 よく目を凝らして見てみれば、それは真っ白な一輪のバラだった。


「あれは……?」

「あれこそが、晴香ちゃんがその身に封じ込めていた鍵だよ。君の記憶と力を封印する魔法を解く、ね」

「…………!」


 その言葉を聞いて私は飛び跳ねそうになった。

 私の封印を解く鍵。晴香が命を懸けて守ってくれていたもの。

 そして、その命を投げ打って私に渡してくれたものだ。

 鍵というから普通の鍵の形を想像していたけれど、でもあの白いバラがそうなんだ。


 私が歩みを進めると、氷室さんはそっとその腕を放した。

 付いて来ようとして、でも思い留まったようだった。


 私の封印を解く鍵。

 色んな人たちが私が力を取り戻すことを望んでいて、そしてその力を欲している。

 そんな色んな思惑に対抗するためには、やっぱり力を取り戻すことは避けられない。

 運命に抗うためには、その運命の力を使いこなさないといけないんだ。


「晴香。私、頑張るから。運命に、負けないから」


 今日この日まで、ずっと守ってきてくれた鍵。

 この数日間沢山のことがあって、私は色んなことを知って、乗り越えてきた。

 今ならきっと、それを受け止められるはずだから。

 忘れていた過去も、失った力も。そしてその意味も。

 だからきっと、晴香の願いに応えることができるはず。

 この力を持って、運命抗うことができるはずだから。


 淡く幻想的に輝く一輪の白いバラ。

 それはどこか神々しくもあって、触れることに少し勇気がいった。

 けれど、これを手にすればきっと沢山のことが変わるから。


 忘れていた過去を思い出すのは少し怖いけれど。

 取り戻すことで、自分の中の何かが変わってしまうかもしれないのが怖いけれど。

 でも、もう私に逃げている暇なんてない。

 この鍵を受け取ることが、晴香の想いに応えることになるんだから。

 私と友達と、そして全てを救うことになるんだから。

 私はもう、迷わない。


 そう心に決めて、私は白いバラに手を伸ばした────


「へぇ、これが鍵か」


 けれどそれは、レイくんによって遮られた。


「やあアリスちゃん。今日も可愛いね」


 レイくんは当たり前のように私の目の前に突如現れて、伸ばしていた私の手をぐいっと引き下げた。

 相変わらずの黒づくめの服装と、相変わらずの飄々とした涼やかな笑み。

 いつもと変わらぬ面持ちで、レイくんはサラッと言った。


「鍵は僕が預かるよ。アリスちゃんにはもうちょっとだけ早い」

「何を……」

「────レイ!」


 そう言ってレイくんは白いバラを手に取った。

 そしてその瞬間、怒声を上げた善子さんが光をまとって飛び込んできて、光の剣でレイくんに斬りかかった。

 しかしそれを難なくかわしたレイくんは、ひょいと飛び上がって、空中で優雅に浮かびながら私たちを見下ろす。


 まだダメージの残っている体で無理をしたであろう善子さんは、攻撃をかわされたところで呻き声を上げて崩れた。

 私はそんな善子さんに咄嗟に手を伸ばしながらも、上空のレイくんを見上げた。


「レイくん! それを返して!」

「悪いけどそれはできない相談だ」

「どうして!? レイくんだって私に力を取り戻してほしいって言ってたでしょ!? それがあれば、取り戻せるのに!」

「うーん。まぁ理由は色々あるけれど、今じゃないってとこかな」


 優雅に微笑むレイくん。私にはその言葉の意味がわからなかった。

 私が力を取り戻すこと、それそのものはみんなが望んでいることじゃないの?


「言っただろう? 僕は自分の手で君の扉の鍵を開けてあげたいのさ。それにふさわしい時は、今じゃない」

「そんなの知らないよ! それは晴香が命懸けで私に還してくれたものなの! お願い、返して!」


 私の懇願にも、レイくんはどこ吹く風。

 その意思を曲げるつもりはないようだった。

 その高い位置から私たちをぐるりと見渡して、楽しそうに微笑む。


「やあ真宵田 夜子。会うのは久し振りだねぇ。どうだい、僕にしてやられた気分は」

「不愉快だと言っておこう。それが君のような者の手に触れることは、極めて不愉快だとも」


 呑気に語りかけるレイくんと、不快感を露わにする夜子さん。

 二人は面識があるようだけれど、とても仲が良さそうには見えなかった。


「今ここで、君の息の根を止めてあげてもいいんだよ?」

「怖いねぇ。確かに君を怒らせたくはないけれど、でも僕にも僕の事情というものがある。これはもらっていかないとね。姫君の心の鍵を開くのは、この僕だ」

「…………!」


 レイくんの笑みに対して、夜子さんから激しい威圧が飛び出した。

 その瞬間、夜子さんの影から大量の影の猫が飛び出して、空を駆けてレイくんへと向かっていった。

 黒い波となって押し寄せた猫の群れが、一人空に浮かぶレイくんをあっさりと飲み込んだ。

 そう見えた。しかし。


「おっと怖い。鍵が壊れたらどうするんだい?」


 今いた所とは正反対の上空、後方からそんな飄々とした声が聞こえてきた。

 瞬間移動でもしたのか、はたまた今まで見ていたのは偽物だったのか。

 けれど遠くにいるレイくんの手には白いバラがあった。


「君こそこの鍵を慎重に扱うべきじゃないのかい? 手荒な真似は感心しないなぁ」

「……また一段とようだね。私としてはそっちの方が感心できないよ」

「それはまぁ、価値観の違いってやつさ」


 レイくんの言う通り鍵の破壊を危惧したのか、それとも何かを伺っているのか、夜子さんはそれ以上の攻撃を仕掛けようとはしなかった。

 そして夜子さんがそうすることによって、誰もレイくんに手を出すことができなくなる。

 そんな私たちを見て、レイくんは満足そうに微笑んだ。


 私は納得できなかった。我慢ならなかった。

 ダメージの残る体で膝を折る善子さんを労わりながらも、私は上空のレイくんを強く睨んだ。

『真理のつるぎ』を強く握り直して、レイくんに向けて構える。


「レイくん、お願い。それを返して。それは晴香の大切な想いだから。それだけは渡せないよ!」

「アリスちゃんのお願いは是非とも聞いてあげたいけれど、徒らに君の力を解放するわけにもいかないのさ。これも言っただろう? 物事には手順というものがあるのさ」

「知らないよそんなの! 返して! 私にはそれが必要なの! 私、レイくんとは戦いたくないよ!」

「時にはぶつかることも必要だと言ったのはアリスちゃんだよ? まぁ、君と戦いたくないのは僕も一緒だ」


 私の叫びにも、レイくんはやはり動じなかった。

 あくまで冷静に涼やかに飄々と、マイペースな笑みを浮かべている。


「悪いようにはしないよ。最終的に君に力を取り戻して欲しいのは同じさ。けれど今は良くない。然るべき時、僕が手ずからエスコートしよう」

「そんなの、私は望んでない! お願い、返して!」


 飄々とこちらの言葉をかわすレイくんの言動に怒りが募って、私は今にも飛びかかりそうになった。

 けれど私が地を蹴る前に、夜子さんが声を上げた。


「私から逃げられると思ってるのかい? 良い度胸だ」


 瞬間、夜子さんがまとう魔力が膨大に膨れ上がった。

 転臨による禍々しい気配と強烈な魔力が合わさって、大気を震わせるような圧力が充満した。


 そしてレイくんの真下の地面から、巨大な影な猫の頭が現れた。

 怪獣のような巨大な頭が地面からズズッと生えてきて、その塗り潰された黒い頭の口をパックリと開けてレイくんに喰らい付いて、一飲みだった。

 抵抗するそぶりも見せず、レイくんは呆気なく猫に飲み込まれた。


「逃げられるさ。僕はそういうの、得意なんだ」


 けれど、レイくんの声が平然と降り注いできた。

 巨大な猫に飲み込まれたはずなのに。

 そしてその声は、複数の方角から重なって聞こえてきた。


 見渡してみれば、空には何人ものレイくんがふわふわと漂っていた。

 分身とはまた違う。それは増殖と言った方が適切に思えた。

 それ程までに大量のレイくんが、皆一様に優雅な笑みで浮かんでいた。


「真宵田 夜子。君は確かに強いけれど、温床で胡座をかいていた君と、常に究極を求めてきた僕とではどうしても差が生まれてしまうと思わないかい?」

「……君は、本当にそれが、その方法が正しいと思っているのかい?」

「正しいかどうかは関係ないよ。この先にしか僕の求めるものはない。ただそだけの話さ」

は、君たちなんかがいくら足掻いたところで、君たちのことなんて歯牙にも掛けないよ」

「それはアリスちゃん次第さ」


 沢山のレイくんが笑った。

 余裕の笑みで、勝ち誇った笑みで。

 どれが本物なのか。はたまた本物なんていないのか。

 もう既にそんな見分けがつかないほどに、見分けがついても探しきれないほどに、レイくんは溢れかえっていた。


「今日の勝ちは僕がもらうよ。真宵田 夜子。君が何をしようとしてるかは知らないけれど、もアリスちゃんも、いずれ必ず僕のものになる」


 クツクツと笑うレイくんの声が響いた。

 それはいつもの爽やかさとは少し違って、どこか気味が悪かった。


「アリスちゃん。意地悪をしているようで心苦しくはあるけれど、これは全て君のためのさ。君と、僕のためなのさ。だからどうかわかってほしいな」

「わかんない! 私、レイくんがわからないよ!」


 友達だと言いながら、甘い言葉を囁きながら、優しくしながら、それでもレイくんは絶対に自分のスタンスを崩さない。

 私のためと言いながら、私の望むことはしてくれない。

 本当にレイくんのことを信じて良いのか、わからなくなる。


「今はわからなくても構わないよ。いつかわかる時が来る。僕が誰よりも君のことを想っているってことがね」

「そんなこと……!」


 そんなこと、私の心が決めることだ。


「大丈夫。アリスちゃんは僕を絶対切り捨てられない。優しいアリスちゃんは、友達を切り捨てられない。だから僕は、安心してるよ」

「……! 私だって、私だって……!」


 馬鹿にされているみたいで酷く腹が立った。

 もう色んな感情がごった返して、わけがわからなくなりそうだった。

 けれど、そんな私を見てレイくんたちは穏やかに微笑む。


「その豊かな心がその証さ。アリスちゃん。僕はそんな君を、心から愛しているよ」


 笑い声と共にそんな言葉を残して、沢山のレイくんたちがゆらゆらと揺らめいた。

 まるで蜃気楼が浮かんでいたように霞のごとく揺らめいて、そこにははじめから何もなかったかのように、沢山いたレイくんたちは跡形もなく消え去ってしまった。


 残ったのは暗い夜空だけ。

 私たちはまんまと、鍵を持っていかれてしまった。

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