51 心の行方

「────────!!! ────────!!!」


 見上げるほどの巨体の、その頭部にある裂け目がカパッと大きく開いて、この世の終わりのような奇声が発せられた。

 声とは呼べない、叫びとも呼べない、地獄の底から這い上がってきたような身の毛のよだつ音だ。

 その身を形成する肉を溶かし、また組み上げながら、その巨人は呻きのような叫びを上げた。


「あれが……晴香……!?」

「違うよ。あれは飽くまで晴香ちゃんだったものだ。もう晴香ちゃんじゃない」


 膝が折れそうになるのを必死で堪えて、吐きそうになるのをぐっと堪えて、そのおぞましい姿を見上げる。

 夜子さんもまた苦々しい目つきでそれを見上げて、静かに言った。


「『魔女ウィルス』に食い潰され、その肉体の全てを書き換えられ、乗っ取られた結果があれだよ。全ての細胞が書き換えられた魔女の肉体は一度爆散する事で崩壊し、粉々になった肉が集い再生する事で新たな形に再誕しようとするんだ」

「もしかして、転臨……?」

「まさか。あんなのと一緒にしてほしくないなぁ。確かに道筋は似ているけれど、結果は天と地の差だよ」


 夜子さんは忌々しげに言った。

 確かにこの巨人は転臨した魔女と同じような醜悪さを感じるけれど、こちらの方がより理解のし難い気持ち悪さがある。


「転臨とは死した後も尚その心と意思を貫き、肉体の支配権を奪い返した者が至る場所さ。ウィルスに食い潰された後も耐え抜ける強度と自我を持つ者の結果だ。肉体が書き換わり人間ではなくなっても、それでも自らの意思で動くことができる。けれどあれは、言わば暴走のようなもの。『魔女ウィルス』の書き換えに肉体が耐えきれず、劣化と再生を繰り返すだけの意味のない怪物だ。感染者である魔女は死に至り、されど肉を乗っ取った『魔女ウィルス』もその弱い肉体では用を成せない。これほど無意味なものはない」


 確かに、あれには意思のようなものを感じなかった。

 ただそこにあるだけ。形を作ったはいいものの、何をすることもできないでいるような。

 何かになろうとして、でもなれなくて。壊れる身体とそれを取り繕う回復力がお互いの邪魔をしている。

 崩壊と再生を繰り返すだけの無駄なサイクル。

 見るに耐えない惨状だった。


「肉体を乗っ取った『魔女ウィルス』が、しかしその肉体に馴染めずに有り余る力の行き場をなくした結果があの状態だ。ウィルスは乗っ取った肉の増殖を図るけれど、自身の力に耐えられず肉を破壊し、しかし本能がそれを修復する。それを繰り返すことしかできない粗悪品だ。そしてなんとか形を成そうと周囲の魔力を吸収しようとする。けれど元々適合していないが故の結果であるあれは、いずれ自壊し、さっきとは比べ物にならない惨事を引き起こす。あのサイズのものが爆散したらどうなるか、想像するのは簡単だろう?」


 夜子さんの説明はきちんと耳に入っているのに、けれどそれについて深く考えることができなかった。

 晴香は死んだ。確かに死んだ。完膚なきまでに、跡形もなく。

 けれど死して尚、こんな形の化け物にされてしまうなんて。

 その体を、肉を、こんな無残な使い方で死んだ後も蹂躙されているなんて。


 夜子さんと千鳥ちゃんが言っていた。

 死ぬ時も苦しいし、死んだ後も苦しいと。

 夜子さんはあれはもう晴香ではないと言っていたけれど、でも自分の身体があんな使われ方をしたら、苦しくないわけがない。


 私は、なんてことを……。

 この結果を知らなかったとはいえ、夜子さんたちは散々忠告をしてくれた。

 それなのに、私は。


 脚の力が抜けてしまって、私はその場にへたり込んでしまった。

 身体中が震えてどうしようもなかった。


「ごめんなさい晴香……私、私……!」


 心が締め付けられて、押し潰されてしましそうだった。

 大好きな友達を失った悲しみ、自分が犯した過ちの後悔。

 色んなことが重なって、もう何が何だかわからない。


「アリスちゃん。君が彼女のことを想うのなら、救ってやらないといけないよ」

「っ…………」

「でも、あんなのどうすればいいんですか?」


 善子さんが私に代わって夜子さんに尋ねた。


「周囲の魔力を吸収するってことは、魔法による攻撃は効かないということですか?」

「基本的にそうなるね。しかし放っておいたら大惨事だ。だから対処法としては、あれが許容できないほどの圧倒的な魔力量で、吸収も再生もする間を与えずに消し飛ばす、といったところかな」


 夜子さんの言葉に、全員苦い顔をした。

 力の塊のようなあれを、崩壊と再生を繰り返しているあれを完膚無きまでに消し飛ばすのは、決して容易なことじゃない。


「簡単なことじゃあないけれど、もうやるしかないのさ。それに、晴香ちゃんは死んでしまったけれど、その肉体は『魔女ウィルス』の元生かされているから、鍵がまだ解放されていない。どちらにしろ、あれは殺さなきゃいけないんだよ」

「鍵……」


 鍵。そうだ。

 晴香が命がけで守ってくれていたもの。

 それを私はまだ受け取っていない。

 私がその鍵を受け取らなければ、晴香が死んだ意味がない。


「────────!!!」


 巨人がまた音を上げた。きっとそれに意味はない。

 けれど、それは晴香が上げている悲鳴のような気がして、私の心に突き刺さった。


 その姿を見れば見るほど、その声を聞けば聞くほど、罪悪感が私を貫く。

 どうして救ってあげられなかったのか。どうしてこうなる道を歩ませてしまったのか。


 揺らぎ震える心に、手元の『真理のつるぎ』がぼんやりと揺らめいた。

 私の心の弱さが、私に貸されている力を繋ぎとめられなくなりそうになっていた。


『────アリスちゃん』


 その時、とても静かな声が私に呼びかけてきた。

 それは実在する声ではなくて、私の心に語りかけてくるものだった。

 そして私はこの声を知っている。


 ドルミーレと会った時に私を守ってくれた青い光の声。

 そして今朝見た夢の中で出会った氷の精の声。

 優しく静かな声だった。


『彼女の心は、まだあの中に囚われている。あなたが、救ってあげて』


 その声は淡々と、けれど優しさのこもった声で言った。


『彼女の身体は死んでしまったけれど、その心はあなたと繋がっている。あの死の塊から解放して、あなたがその心を受け止めてあげれば、彼女はきっと救われる、から』


 晴香の、心の解放。

 晴香は言っていた。例えもう会えなくなったとしても、私の心と一緒にいるって。

 でも、今のままじゃきっとそれは叶わないんだ。

 あの巨人が存在したままでは、晴香の心はあの苦しみに囚われたままんだ。


『あなたにならそれができる。あなたにしか、それはできない。繋がる心を手繰り寄せて、その胸に受け止めることができるのは……あなただけだから』


 晴香は死んでしまった。もういない。

 変わり果てた姿になってしまった。もう取り返しなんてつかない。

 起きてしまった結果を変えることはできなくて、犯した過ちは取り戻せない。


 なら今私ができることは。晴香のためにしてあげられることは。

 晴香の願いを叶えること。約束を守ること。

 苦しむその心を解放して、ずっと一緒にいられるように、この胸に受け止めることだ。


 綺麗事かもしれない。罪滅ぼしにもならないかもしれない。

 でも、晴香は最後の瞬間まで私のことを信じてくれた。

 私のせいで辛い思いをしてきたはずなのに、一言だって私を責めなかった。

 なら、私はその心に応えないといけない。

 これが偽善だったとしても、私の自己満足に過ぎなかったとしても。

 私は、晴香が愛してくれた私を貫いて、その全てを受け入れてあげなきゃいけないんだ。


『信じて。あなたを想う友達の心を。忘れないで。あなたは決して、一人ではないということを。大丈夫。アリスちゃんなら、できるから……』


 声だけのはずなのに、温かく抱きしめられている気がした。

 その言葉が、擦り切れそうになっていた私の心を奮い立たせてくれた。


 悲しむのも恐れるのも後悔するのも、全部後だ。

 今は、私の大切な友達の心を取り戻すことが先決だ。


「────夜子さん。私にやらせてください」


『真理のつるぎ』を固く握り直し、私は自分の力で立ち上げった。

 氷室さんが心配そうに手を伸ばしてきて、けれど私の顔を見て引っ込めた。

 夜子さんは涼やかな瞳で私を見つめた。


「これは全部、私のせいで起きたことだから。晴香が鍵を守るために魔女になったことも、その結果死んでしまったことも、そしてそれがこんな形になったことも、全部私のせいだから。そして何より、晴香は私の大切な親友だから。だから、私が終わらせてあげたいんです」

「……一人で、できるのかい?」

「はい────いいえ。私はいつだって一人じゃありません。私の心はいつだって友達と繋がってる。その繋がりが、いつだって私を支えてくれるんです。だから今は、その繋がりで私が晴香を助けてあげる番なんです」


 私が言うと、夜子さんは少しだけ穏やかな表情をした。

 そして私の目を真っ直ぐ見つめ、静かに頷いた。


「花園さん……」


 私が一歩前に出ると、氷室さんが細い声で呼び止めてきた。

 振り返ってみると、眉を寄せて珍しく心配そうな表情が顔に出ていた。


「大丈夫だよ氷室さん。ちょっと晴香の心を迎えに行くだけだから」


 不安が募っているその顔に、私は笑みを作って向けた。

 きっと氷室さんは、晴香だったものを私の手で滅ぼすことで、私が傷つくんじゃないかと心配してくれているんだ。

 罪の意識から無理をして、罪悪感を重ねてしまうんじゃないかって。


 でも、そうじゃない。これはそうじゃない。

 私が今からすることは、晴香の解放だから。

 これ以上晴香が苦しまないように。そして約束通り、その心をいつまでも私と共にあれるように。

 囚われ苦しむその心を迎えに行くだけだから。


 だから大丈夫。私にはできる。むしろ私にしかできない。


 善子さんも千鳥ちゃんも、同じような顔をしていた。

 けれど私の顔と、氷室さんが何も言わないのを見て黙って見送ってくれた。

 私はそんなみんなの視線を背に受けて、前に立って巨人に対峙した。


「────────!!! ────────────!!!!!」


 苦しみ喘ぐ悲愴の声。絶望を振りまくような怨恨の音。

 溶けて崩壊する肉と、それでも取り繕おうとする再生。

 形の定まらない流動的なその体は、熱と蒸気を放って爛れている。

 この世のものとは思えない、悲しき魔女の成れの果て。


 もう、終わりにしよう。


『真理のつるぎ』を両手で強く握る。

 白い剣の純白の刀身に魔力の渦がこもり、眩い白光を放つ。

 私自身と、そして剣から溢れ出す魔力が、力の奔流となって周囲に立ち込めた。


「────────!!!」


 その魔力を感知したのか、巨人は餌を求めるようにその溶けた腕を伸ばした。

 溶け崩れる腕を必死に伸ばして、私を喰らわんとする。


「晴香────」


 大きく剣を振り上げた。

 私に今ある力の全てを込めて。

 その一刀に、全ての想いを込めて。


「ずっと、一緒だから」


 これは別れじゃない。だから私は迷わない。


 力の限り剣を振り下ろす。

 剣にこもった純白の魔力が、閃光の斬撃となって放たれた。

 白き極光が、巨人の全てを飲み込む。


 何物にも染まることのない白き魔力の奔流と、あらゆる魔法を打ち消す『真理のつるぎ』の能力が、崩壊と再生を繰り返す巨人の全てを包み込んだ。

 魔力の吸収も、その体の再生も打ち消して、残った脆い肉体は単純な力の奔流に飲まれて崩壊していく。


 それは永遠のようで、けれど一瞬ようで。その最後は呆気なく。

 私が振り下ろした剣撃で、その醜悪な巨人は跡形もなく消し飛んだ。


 そして、放った斬撃の極光が晴れた時、その中心から淡く揺らめく光が飛び出してきた。

 私は咄嗟に手を広げ、飛び込んでくるままにその光を受け入れた。

 それは私の胸に真っ直ぐに突き進んで、ストンと穏やかに収まった。


 ────ありがとう、アリス────


 そんな、晴香の声が聞こえた気がした。

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