58 逃げられるわけない

「逃げるわよ!」


 その顔から完全に血の気を引かせて千鳥ちゃんは叫んだ。

 素早く踵を返して私の腕を掴む。その手ははっきりとわかるほどに震えていた。


「ちょっとちょっと。せっかくの姉妹の再会にそれはあんまりなんじゃないの? 少しはお姉ちゃんに優しくしてよ。ね、クイナ」


 アゲハさんがニッコリと優しい笑みを浮かべて言った。

 それは明らかに千鳥ちゃんに向けられた言葉だ。

 確かアゲハさんは妹を探しているって言っていたけれど、まさかその妹が千鳥ちゃんだとでも言うの?


 アゲハさんはにこやかに笑っているけれど、千鳥ちゃんの方は正反対に引きつった顔をしている。

 アゲハさんに背を向けて、私の腕を掴んだまま顔を伏せていた。

 とてもじゃないけれど、姉妹の感動的な再会とは思えなかった。


「ね、ねぇ千鳥ちゃん。どういうこと? アゲハさんと千鳥ちゃんは……」

「そ、そんなことどうでもいいでしょ……! 今はとにかく逃げるの! あんな化け物の相手なんかしてられないわよ!」


 私が恐る恐る尋ねると、千鳥ちゃんは難しい顔をした。

 けれど明確にアゲハさんに対しての苦手意識を見せている。


「早く逃げるわよ! 私にあんな化け物の相手なんかできない。私は精々、化け物の一歩手前までが限界よ!」

「でも、できないよ! 氷室さんもカノンさんも戦ってる。まくらちゃんだって今は……。私一人だけ逃げるわけにはいかないよ」

「アイツらなら放っておいたって死なないって。私たちの方がよっぽどピンチなんだから、人の心配してる場合じゃないって!」


 アゲハさんに背を向けたまま、ぐいぐいと私の腕を引っ張る千鳥ちゃん。

 でも、悪いけれど私はここを離れるわけにはいかない。


「なっさけないわねぇ。臆病なのは相変わらずみたいね」


 アゲハさんが呆れたと言わんばかりに言い放った。

 その言葉に千鳥ちゃんはびくりと飛び上がる。

 二人の関係性はわからないけれど、千鳥ちゃんがアゲハさんに対して恐怖に近い感情を抱いているのは確かなようだった。


「アンタ、アリスのこと助けにきたんじゃないの? お姉ちゃんに愛想よくもできないし、助けに来た友達の力になってやることもできないなんて。ねぇクイナ。アンタ、何のために生きてんの?」

「ちょっと、そんな言い方しなくても……!」


 吐いて捨てるような言い方に、私は思わず口を挟んだ。

 千鳥ちゃんは未だ背を向けたまま、震える手で私の腕を掴んでいる。それはむしろ縋っているようにも思えた。


「千鳥ちゃんのこと馬鹿にしないでください! 千鳥ちゃんは私の大事な友達なんだから!」

「千鳥、か。名前まで変えて、よっぽど断ち切りたかったの? だからアンタは臆病だって言ってんのよ」

「だからやめてください! 何でそんなに酷いこと言うんですか!」

「だって私はその子の姉だもの。妹の躾をするのは姉の仕事っしょ?」


 だからって、そこまで一方的に否定する言葉を並べなくたって。

 姉妹だからといって傷付けていい理由になんてならない。

 アゲハさんがしているのは躾なんかじゃなくてただの侮辱だ。


「例えそうだとしても、これ以上千鳥ちゃんを傷付けるのは私が許しません」

「ア、アリス……」


 私が一歩前に身を乗り出すと、千鳥ちゃんが弱々しく声をこぼした。

 千鳥ちゃんどうしてここまでアゲハさんを恐れているのかはわからない。

 けれど千鳥ちゃんは言っていた。自分は全てを捨ててきたって。

 魔女狩りから逃れる為、という理由以外にも何か決別したいものがあったんだ。

 なら私が寄り添ってあげなきゃ。だって友達なんだから。


「ふーん。じゃ、どうするって言うの?」

「アゲハさんと、戦います……!」

「ちょっと、アリス! アンタ正気!?」


 弱々しいながらも、千鳥ちゃんは私をぐいっと引っ張った。


「アンタでもわかるでしょ? あれは化け物なの。普通の魔女で敵うような相手じゃないんだから。今のアンタじゃお話にならないって。一緒に逃げようって!」

「ありがとう千鳥ちゃん。でも、私は逃げるわけにはいかないの。みんな戦ってる。私のせいで戦ってる。だから、私だけ逃げるなんてできないよ」


 私は千鳥ちゃんの手をそっと振りほどいた。

 眉を寄せて苦しげに私を見つめる千鳥ちゃんを尻目に、私はもう一歩前に出た。


「千鳥ちゃんは逃げて。この戦いに千鳥ちゃんは関係ないんだから。千鳥ちゃんが私のために危険を冒す必要はないよ」

「…………!」

「大丈夫。私だって簡単には死なないよ。私を守ってくれる友達の力が、私には流れてる」


『寵愛と庇護』。私と繋がる魔女の力が私をきっと守ってくれる。

 勝てはしないだろうけれど、そう簡単にやられることもないはず。


「何を……バカなこと言って……」


 千鳥ちゃんが呟くように言った。

 私のことを弱々しく見つめて、そして恐る恐るアゲハさんを見やる。

 千鳥ちゃんの顔色は決してよくない。心からアゲハさんに対して畏怖を抱いている。


 アゲハさんは姉妹だと言っているけれど、本当にそうなのだとしたら、どうしてそこまで千鳥ちゃんは怖がっているんだろう。

 妹を探していると言っていたから仲はいいんだろうと勝手に想像していたけれど、寧ろその仲は最悪に見える。

 この二人の間に一体何があったのかはわからない。


「アゲハさん。あなたは私と戦いたかったんですよね? 戦って追い詰めて、強引に力を呼び起そうとしているんですよね?」

「うん、そうだよ」

「ならそれでいいですよね。私戦いますよ。だから、もう千鳥ちゃんのことは放っておいてください。千鳥ちゃんはもう、アゲハさんの関係のないところで生きているんです。ここで、私たちと一緒に。だからこれ以上苦しめないでください」


 私がそう言うと、アゲハさんは楽しそうに大声で笑った。手を叩いての爆笑だった。

 何がそんなにおかしいのか。その姿が気に食わなくて私は静かに睨んだ。


「いやー超ウケるね。我が妹ながら情けないにも程がある。助けに来たはずなのにすっかり助けられてるなんて。ま、いいよアリス。アンタの言うこと聞いたげる。ソイツにはもう関わらないよ。その代わり、私とちゃんと遊んでね」

「……いいですよ」


 その言い草はとても聞き捨てならなかったけれど、でもこれ以上食いついても仕方ない。

 私は可能な限り冷静に頷いた。


「アリス……私……」


 千鳥ちゃんがおっかなびっくり私に手を伸ばす。

 けれど私に触れるのが怖いか、その手は届かない。


「大丈夫。夜子さんの所で待ってて。ちゃんとみんなで帰るからさ」

「…………っ」


 安心させようと笑顔を向けると、千鳥ちゃんは顔を引きつらせた。


 戦いを望まない千鳥ちゃんを巻き込むわけにはいかない。

 千鳥ちゃんは臆病で戦いを好まない子なんだ。私の事情に巻き込むなんてできない。

 きっと夜子さんが勝手に送り込んできたんだろうけれど、こんな命がけのことを私は強要できない。

 それにどうせ、夜子さんは全てを見越した上で千鳥ちゃんを送り込んできたんあろうし。

 私はそんな酷なことはさせたくない。


 苦手なら逃げてもいいんだ。立ち向かうことがいつも正しいわけじゃない。

 目を背けることだって時には必要だし、望まないことをする必要はない。

 千鳥ちゃんにとってアゲハさんが忘れたい、切り離したいことなのだとしたら、それに強引に向き合わせることはしたくない。


 元々これは私の戦いだから。最初から千鳥ちゃんは関係のないこと。

 これ以上は、もう巻き込まない。


「いい顔してんじゃないアリス。これは楽しめそう」


 覚悟を決めて強く睨むと、アゲハさんは嬉しそうに微笑んだ。

 その様子からもう千鳥ちゃんに興味を示していないことがわかった。


「じゃ、今度こそ始めよっか。簡単に参らないでよ? せっかく遊ぶんだからさ、私が満足いくまで楽しませてもらわないとね!」


 アゲハさんから強い殺気が放たれる。

 正面に立っているだけで気圧されてしまいそうな、人のものとは思えない禍々しい圧力だった。

 でも退がることはできない。私は一人で立ち向かわないといけないんだ。


 手が震える。けれど歯を食いしばって耐える。

 勝つ必要はない。生き延びればいいんだ。頑張って凌げばいいんだ。

 頑張って耐え凌げば、氷室さんかカノンさんがカルマちゃんを突破して助けに来てくれる時が来る。

 その時までは、一人で頑張るんだ。


「じゃあアリス! アンタは一人でいつまで生きてられるかな!?」


 アゲハさんが楽しそうに叫んだ。その両手には糸を束ねて作った鞭。

 宙から勢いよく振りかぶったその鞭が容赦なく振るわれた。

 物凄いスピードで放たれた一撃に、そんなことしても仕方ないとわかりつつも、反射的に腕で頭を覆って目を瞑ってしまった。


 バチン。

 乾いた、そして鋭い音が響いた。

 けれどそれは鞭が私を殴打した音ではなかった。


 恐る恐る目を開くと、そこには……。


「あーーーーもーーーー! やればいいんでしょやれば! アンタだけ置いて逃げられるわけないじゃない!」


 目の前でバチバチと電気を身に纏って鞭を弾き返した千鳥ちゃんが、泣きそうな顔で立っていた。

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