28 ここにいるのに

 膝から崩れ落ちて呆然とへたり込む正くんと、胸元に氷の華を咲かせてそんな彼を見下ろす私。

 紛い物の力と借り物の力がぶつかり合って、何もなくなったこの図書室で、私たちは静寂に包まれた。


 目の焦点が定まっていない正くんは、私の方を見ていてその実、何も見てはいなかった。

 誇示した力が完膚なきまでに打ち砕かれて、彼の意思もまた打ち砕かれてしまっていた。


「正くん。私たちは、ちゃんとお話しなきゃいけなかったんだよ」


 そんな彼に、なんとか言葉を投げかける。

 彼が一体何を求めていて、私は彼に何をしてしまったのか。

 一体何が、正くんをここまで拗らせてしまったのか。

 それを私は知らなきゃいけないと思った。


「…………」


 けれど正くんは何も答えてくれない。

 まるで魂が抜けたように、力なく崩れているだけだった。


 どんな言葉をかけたらいいのか、私が迷っていた時だった。

 突然、物凄い轟音と共に天井の一部が崩れ落ちた。

 まるで爆発でも起きたような衝撃に、私は思わず飛び上がる。


 その轟音と共に空いた穴からは、二人分の人影が降りてきて、ものすごい勢いでこちらにかけてきた。


「花園さん……!」


 それは珍しく、心配そうに顔を曇らせた氷室さんだった。

 普段はポーカーフェイスな氷室が、慌ただしく駆け寄ってくる。

 まるで私にタックルするような勢いだったので、私はがっしりとそれを抱きとめた。


「大丈夫? 怪我は、ない?」

「ありがとう氷室さん。氷室さんのおかげで、なんとかね」


 私がそう言うと氷室さんは、私の胸元に咲く氷の華を見て安心したように息を漏らした。


「あなたの呼ぶ声が聞こえた。だから私もあなたを呼んだ。そしてこうして、手が届いた……」

「これは、氷室さんが貸してくれた力なんだよね」

「……これは、私たちの繋がりの証。あなたが私を想ってくれるのなら、私はあなたの力になれる」


 この華から溢れてくる、冷たくも温かいこの想いは、氷室さんの優しい気持ちなんだ。

 感情を出さなくても、言葉にするのが苦手でも、私たちはこうやって繋がっている。


 お互いの安心を確かめ合うように抱きしめ合っている私たちの横を、もう一つの影が通り抜けた。

 それは正くんの元まで駆け抜けると、そのままの勢いで、振り抜いた拳を正くんの顔面に打ち込んだ。


「このクソ野郎がぁ!」


 無防備な状態で力の限り殴り飛ばされた正くんは、思いっきり本棚に打ち付けられた。

 力なく床に崩れて、でもその衝撃で正気に戻ったのか、這いつくばりながら顔を手で押さえて、殴った張本人を見上げた。


「ね、姉ちゃん……! どうして、お前がこんなところに……」

「アンタがやったことの責任は、姉である私にあるからね」


 冷たく言い放った善子さんは、正くんの胸ぐらを掴んで無理矢理持ち上げた。

 正くんは呻き声を上げながら、されるがままに本棚に押し付けられた。


「アンタ、自分が何をやったかわかってるの? アンタは、アリスちゃんに何をしたのかわかってるのかって、聞いてんのよ!」


 再度本棚に打ち付けた衝撃で、本がバラバラと崩れ落ちる。

 普段見せることのない激昂した善子さんの姿に、流石の正くんもたじたじとしていた。

 けれど、どこにそんな気力が残っていたのか。正くんはおっかなびっくりながらも食らいついた。


「う、うるさい! お前には関係ないだろ! これは、俺と花園の────」


 二度目の殴打が正くんの言葉を遮った。

 善子さんはただ冷徹に、温情もなく思いっきり殴り飛ばしていた。


 善子さんの手から離れた正くんは、またしても這いつくばって、壁まで後ずさる。


「な、なんだよ偉そうに! お前にとやかく言われる筋合いなんてない! 今更なんなんだよ! 今まで俺のことなんか、見向きもしなかったクセに!」

「私が今までアンタに口を出さなかったのは、それがアンタに対するせめてもの責任の取り方だと思ったから。アンタをそんなにしてしまったのは私のせいだから、せめてもうアンタの邪魔にならないように、私は極力関わらないようにしてきたんだ」


 善子さんは、見たこともない苦々しい顔をしながら、正くんにジリジリと詰め寄った。


「自分の好きに生きる、アンタの邪魔をしないことこそが、私のできるせめてもの罪滅ぼしだと思ったから。そして、アンタの目に余る横暴さのフォローをすることが、私の役目だって」

「そんなもの、頼んだ覚えはねーよ!」

「わかってる。それでも、私はアンタのお姉ちゃんだから。自分の背中を追ってきた弟のやることには、責任がある」


 小さな頃は善子さんに憧れていた正くん。

 そんな彼が善子さんに失望して変わってしまった後も、善子さんはずっと正くんのことを気にかけてきた。


「な、なんだよそれ! お前なんか関係ない! 俺は、俺は自分が正しいと思うことをやってきただけだ! お前なんか関係ない!」

「正。アンタは何にも正しくなんかないよ」

「なん、だと……!」

「自分の力を振りかざすことは、正しさでもなんでもない。力で解決することなんて、目に見えることだけなんだから。力があるから正しいんじゃない。正しいから、そこに力がついてくるんだ」


 自分の才能や能力を振りかざして自分の力を誇示して、それで全てを好き勝手にしてきた正くん。

 強いことが、凄いことこそが正しいんだって、彼はそう信じて生きてきた。


 それはきっと善子さんの正しさを否定したかったから。

 信じて憧れてきた善子さんに失望した正くんは、善子さんとは違う自分の正しさを見出そうとしていたんだ。


「それでも、アンタがその道を信じて進むのなら、それを否定するつもりはなかった。人の正しさなんて他人が推し量れるものじゃない。私はアンタの生き方を否定しないようにしてきた」

「だ、だからなんだってんだよ……!」

「アンタはやり過ぎたんだよ!」


 顔を近づけられての怒号に、正くんはすくみ上った。

 私だってきっと、同じことをされたら縮み込んでしまう。

 それほどの剣幕で、善子さんはまた正くんに掴みかかっていた。


「自分のことしか考えられなくて、一切周りの見えていない愚か者。自分が正しいと思い込んで、他人の心から目を逸らしてきた。だからアンタは、越えてはいけない一線を越えたんだ」

「な、なんだよ……」


 涙目になりながら弱々しく見上げる正くん。

 けれど彼の中には、まだ折れない何かがあった。


「なんだよ偉そうに! どいつもこいつも、好き勝ってなことばっかり言いやがって! 俺の何がわかるんだよ! 俺のことなんか、何も知らないくせに!」


 正くんは、悲鳴のような叫びと共に善子さんの手を振り払うと、よろよろとおぼつかない足で立ち上がった。

 何か悲痛なものを絞り出すように、歪んだ表情で善子さんを睨む。


「俺はここにいるのに! 姉ちゃんも花園も、俺のことなんて見やしない! 俺は、ここにいるんだよ!」


 その叫びはまるで、お母さんに気付いて欲しいために泣き喚く子供のようで。

 何だかとっても、可哀想だった。

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