中国古代の王朝~「商」と「人身御供」~

前話で商の優れた点について書いたが、当然優れているばかりの国家など存在しない。商の優秀な面に祭祀によるものがあったが、この祭祀には一つ今の時代には受け入れにくいものがある。神への捧げ物に「人間」を使っていたこと、すなわち「人身御供」である。

古来より「人身御供」という風習は、古今東西どこでも行われていた。「人身御供」とは研究によると、「神は自然そのものであって、人間が侵食していく際に許しを乞うために捧げる物」とか、「狼を山の神だと思った人間が捧げ物とした」など諸説あるが、なぜ「人間」でなければならないかは、今一納得できないところではある。

商もまた祭政一致である以上、政策の決定に神へお伺いを立てねばならない。小さな事柄であれば供物も些少ですもうが、大きなイベント、例えば戦争や跡継ぎ決定などになると、供物もそれにみあった物を用意せねば神の怒りをかってしまう。供物として上級な物は「処女の乙女」とか「真珠」、「珍しい動物」等があったであろう。しかし、珍しいものであればあるほど数も少ないはずであり、祷の度に消耗しては足りなかったはすだ。

そのなかで神が喜ぶとされ、尚且つ数も多く、狩りやすい物があったとしたらどうであろうか。そんなに都合のいい物は通常は存在しないが、この時は存在した。それが「人間」、正確を期すなら「異民族」だ。元来古代中国では民族が違えば敵である。それでも商王朝に臣従か同盟をしていれば、狩られることも稀だったはずだ(無いとは言わない)。しかし、従っていない部族に対しては遠慮はいらず、しかも「わが神を崇めない不遜な輩ども」という難癖がつけられ、尚且つ「不遜な者共を神に捧げて不興を慰める」等を口実にして、捧げ物にしやすい環境を演出出来るのだ。

この当時商の武力は最強であり、狩られる側の異民族は粗末なものであった。特に温厚な遊牧民族だった「羌族」の被害は大きかったようだ。そんな者達を捕らえているうちに、「囚われた異民族を神への捧げ物とする」だったものが、「異民族を捕らえて神への捧げ物とする」に変わったとしても不思議ではない。今現在遺跡からは、生け贄の為の人体が14000体発見されている。これらの数を自分達の臣民に強要すれば、忽ち反乱が起きるだろう。当時の人口からしても、軽々しく異民族を生け贄と考えなければ出来ない所業である。

もし神がこの所業をみたならば、果たして神は喜ぶのであろうか。これを喜ぶ神は、ファンタジーにもよく出てくる「邪」の存在ではなかろうか。商王朝の最晩年は神を騙った存在だったかもしれない。商王朝最後の王「紂王」は、生け贄による祭祀を止めたことが分かっている。見る人がみれば「善王」になっていたかもしれないこの王を、この上ない「悪王」としたのは、生け贄にされた者達の怨念と、神の裁きだったのかもしれない。「姜族」の出身たる「太公望呂尚」が商に対抗したことも、祖霊の導きだったのであろうか。

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